レジストロに客死した世界徒歩旅行家 —岡田芳太郎 上
鈴木正威(サンパウロ人文科学研究所)
terça-feira, 15 de janeiro de 2008

マテ茶をすする老いたる旅行家

 世界徒歩旅行家—といわれても、いまではあまり聞きなれないことばだが、そのご当人がブラジルにも足を運んでいることを知ったのは、まったくひよんなことからだった。

 実は鈴木悌一の評伝を書くことを思いたち、かれのポルト・アレグレ時代の青春日誌—「山庵実録」なるものを難儀して“解読”しているときである。

 かれの日誌は興に任せて自在に書きなぐったり、横から注釈が闖入したり、書いたあとをばっさり消したり、やたら横文字が羅列したりの乱暴をきわめたもので、まさにかれの青春を象徴するような疾風怒涛のおもむきだから、それを読むには文字通り“解読”ということがふさわしい。


一九三二年七月二十八日

 夜、世界徒歩旅行家岡田芳太郎を訪問する。同行K、Si、汚い陰惨なホテルの一室に暗い電灯を掲げて、老いたる旅行家はマテ茶をすひながら語る。とにかく彼の忍従には一目おく。三十一年****年来を、足にまかして歩いて、彼は果たして何の感慨をや。

 ああ彼に吾人らの教養と活眼さへあるならば、もっと飄々のみち、絢爛たる旅行の思ひ出にふけり得たろうが。(原文のまま、****は解読不能の文字数)

 悌一はこのとき弱冠二一才、ポルト・アレグレの神学校でポルトガル語を学ぶ学生の身であったが、異国と異人との慣れない環境のなかで周囲との違和感に苦しみながら、むしろその違和に自分の優越を感じるといった、青年期にありがちな客気にみちた生意気盛りのころである。孤独、憂悶、そして重なる失恋からすこし神経過敏になっている。

 汚いホテルの暗い電灯の一室でマテ茶を吸う、老いたる旅行家の疲れた流離の姿が眼に浮かぶようだが、それにしても悌一は、なにが気に入らなくてこの旅行家に噛みついているのだろうか。よほど虫の居所が悪かったのか、旅行話が期待はずれだったのか。

 だが、思えばいまから七四年も昔に、三〇年来、足に任せて世界を歩いていた風変わりな旅行家がいた。かれはなんと二〇世紀のはじめから徒歩旅行をしている勘定になる。ポルト・アレグレに来ているからには、サンパウロにも立ち寄っているのではないか。


 
その経歴

 なんとなくこの人物に興味がそそられて、一九三二年から三年の日伯新聞をめくっていると、はたせるかな三三年二月一六日づけ同紙三面のトップに、

 徒歩旅行家岡田氏 レヂストロで客死
  足跡南北米に普く 行程実に十六万キロ

とのショッキングな見出しで、岡田のことを報じているのをみつけた。以下原文のまま同紙記事を援用する。

— 氏は広島県生まれ、明治34年(1901年)七月苦学を志して布哇(ハワイ)に渡り次いで加州(カリフォルニア)に入ったが、時あたかも日露戦争当時でアメリカ人の侮日甚だしく、ために東部に出たが、最初に受けた民族的屈辱に対する義憤抑ふるに由なく、遂に学業を抛(なげう)ち、一切の物質欲を去って世界徒歩旅行に志した—

 これは、よく見られる明治青年のロマンチシズムとその海外雄飛であろうが、アメリカの排日機運に嫌気がさして、以後立身出世の夢をいっさい捨てて徒歩旅行に志すという動機は尋常ではない。いったいどういう覚悟で、岡田はあえてこの困難な途を自分に課したのだろうか。

 以下、同記事は岡田の徒歩旅行範囲などについて、イギリス経由でヨーロッパ諸国を遍歴し、一九〇六年四月に南米に渡り、リオよりサンパウロを踏破、サントスから船でアルゼンチンに渡った、と伝えているから、最初の笠戸丸移民に先立つこと二年に、かれはすでにブラジルに足を踏み入れていたわけである。

 記事は続く。

—爾来三十有二年、南はチェーラ・デ・フェーゴ島より北は加奈陀(カナダ)アラスカの端まで、南北米を隈なく踏破、五十キロの全財産を蝸牛(かたつむり)の如く背負って行程実に十六万キロに及んだ—

 これによると、岡田の行程は主として南北アメリカ大陸の縦断に費やされたのだが、それにしても三〇年とはよくも歩いたものである。いったいどんな内的な欲求がかれの延々と続く徒歩行を支えたのだろうか。交通も通信も発達していないその当時、ひとりでテクテク歩いて大陸を踏破するということは、ずいぶん根気もいるし難儀もしたことだろう。その間、かれはどうやって糊口をしのいだのだろうか。

新聞は記す。

—其間氏は徒歩旅行者に有り勝ちの物乞ひをするでなく健筆を振るって母国の新聞雑誌に投書し、其所得を旅費に充てたもので、此の大旅行中人類学、考古学上に貴重な参考資料を得、こころある人から他日の発表を期待されていた—

 いま、岡田芳太郎のひととなりを知るに、この日伯新聞の記事しか頼るものがなく比較できる資料がないのが残念だが、徒歩による世界旅行記なぞ当時でもめずらしかっただろうから、投書すれば幾ばくかの謝礼はあっただろう。もとより潤沢なものは期待できないだろうから、岡田のふところはいつも素寒貧だったはずである。

 人類学、考古学上の参考資料も、新聞記事ではそのごどうなったかはわからない。こころみにグーグルで検索してみたが、同姓同名のひとはごまんといるものの、残念ながら世界徒歩の岡田の名は見当たらなかったし、百科事典にも載っていなかった。

写真上:『アルゼンチン日本人移民史第一巻 戦前編』より
写真下:山中三郎記念バストス地域史料館提供


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros