黒い肌の女たち(1)
segunda-feira, 14 de janeiro de 2008

 小学生の私は胸をどきどきさせながらストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を読み、トムがムチで叩かれる場面など、まるで、自分の背中が痛むように感じたものです。しかし、しょせん遠い国のお話でした。

 原住民がドレイとして売買されたり、また、アフリカ大陸から黒人がドレイとして大々的に輸入された国に移住してきて、遠い国のできごとが自国の歴史として語りかけてくるようになりました。ブラジルを語ろうと思えば、ドレイは避けて通れないテーマなのです。今回は黒いドレイの女たちにスポットを当てましょう。

 ポルトガル人がアフリカ黒人を本国に入れるようになったのは、15世紀後半。ブラジルへの輸入は1550年ごろから盛んになり、当初は入手が容易で安いインジオをドレイに使いました。しかし、本来が森の自由人だったインジオは、強制されることを嫌い、労働力としては不適格。そこで、黒人が連行されて来るようになったわけです。

 さらに17世紀になって、コンゴやアンゴラ地方がポルトガルの支配下におかれると、ますます大量の黒人ドレイが輸入されます。その後、東海岸モザンビークからも入るようになり、ドレイ貿易は実に300年の間、セニョール側にとってはボロイ事業としてつづけられました。もちろんローマ法王の特許を受け、特定の税金を納めた国営事業としてです。



 本国の宗教裁判や迫害から逃れてきたユダヤ人もペルナンブッコに多数移住し、ここでドレイ市場が開かれます。アンゴラからバイアまでの航海は日光の当たらない船倉に閉じ込められたままひと月はかかり、暑熱に垂れ流しという不衛生のきわみ。そのため航海中の死亡率は30~40%、条件が悪いときは半数が死亡したということです。

 ドレイ貿易を一手に握っていたのが、ポルトガルとスペイン。ドレイとして輸入されたのはもちろん黒人ですが、インド人やシナ人、それから数は少なくても、日本人もいました。捕虜にした農民をドレイとしてポルトガル人に売りつけたのは、九州のキリシタン大名だといわれます。神の愛を説くキリシタンが、まさか、という気もしますが、当時は、戦に勝った領主が戦利品として敗れた領地の人間をドレイ化するのが常識だった時代ですから、あながち根も葉もないハナシではないのでしょう。アルゼンチンのドレイ市場で日本人が競売された記録もあるというのです。そういえば、桐野夏生の『告白』という短編、テンスは短く文体も平明で簡潔、いいなあと思いながら読みましたが、筋はマカオに売り飛ばされる男のハナシです。男色の南蛮宣教師も出てきて、もちろんフィクションですが、背景になる調査はいろいろしているのだなあと、感心させられたものです。

 それから遠藤周作にもずばり『黒ん坊』という作品があり、織田信長に拝謁するヴァリニアーノ宣教師に連れてこられた黒人が登場します。狐狸庵スタイルの小説ですが、黒人に対する視線はあくまでも日本人。見世物になっている黒人の痛みが皮膚感覚で把握されておらず、多人種が共存するこの国に住む者でなければ、黒人の絶望感は理解できないのかともどかしく思いながら読みました。このあたりが、ブラジルの文学者と異なります。一言でいえば育った風土が違うとでもいうのでしょうか。

 ブラジルにはドレイ制廃止を唱え、24才で夭折したカストロ・アルベスという代表的な詩人がいますが、この人の有名な詩に、地獄船とよばれてアフリカ黒人を運搬した『オ・ナビオ・ネグレイロ(黒人船)』いうのがあり、「神よ、神よ、あなたの目前で、かくもむごたらしいことがあり得てよいものでしょうか」と謳っています。

 カストロ・アルベスは19歳の時、10歳年上のカマラというポルトガルの女優と恋愛して心を躍らせるのもつかの間、彼女の無節操な生き方に憤慨。「狩り」に求めた憂さばらしが、自らの足を打って大怪我という事態を引き起こします。同棲は保守的なカトリック・モラルでは大変なスキャンダル。それからは不摂生、不養生の連続。最後には肺結核で命を落とす文字通り悲劇という人生を送ります。この肺結核にはボヘミアンな生活を送る当時の文人がずいぶん命をとられています。1997年が生誕150周年。各地で関連イベントが開催されました。
 詩集『奴隷たち』に収めれられている一節を紹介します。
 神よ! おお神よ!!
 いずこに在しますや、いらえ給いしや
 いかなる星の下に匿れ給いしや
 二千年まえより わが叫びを伝えしより
 無窮なるものは はじまりぬ
 神よ! いずくに在します
(『ブラジル文学事典』より)

 サトウキビ園で、セニョールのために過酷な労働を強いられる黒人ドレイ。アフリカの各地から積み出された黒人たちは、サルバドール、レシーフェ、サン・ルイス、リオへ陸揚げされました。アフリカからのドレイは生活の激変(粗食、虐待、重労働)に苦しみ、激しいホームシックにかかります。

 劣悪な環境、そして虐待や残酷な処罰に絶望したドレイは、自殺という手段で復讐もしました。首をつり、舌をかみ、毒草をせんじ、静脈を切るという具合に。また、生まれる子どもに同じ運命を歩ませたくないという母親も多く、薬草で胎児を流産させたりしてもいます。

 数字には多少差があるのですが、ブラジルには16世紀に10万人、17世紀に60万人、18世紀に130万人がドレイとして輸入されたといいます。ぶじ大地を踏んでも生き永らえるのはせいぜい7年から10年ていど。ドレイは容易に補充できる一種の消耗品だったのです。

 この労働可能年数に関しては、21世紀の現代でもあまり変化がありません。80年、90年代には15年まで延びていた労働可能年数が、2000年以降は 12年に短縮したといいます。石油にかわる代替燃料としてエタノールが注目され、米州エタノール協定がとり交されたのはごく最近。エタノールの需要増加、生産拡大を背景にサトウキビ栽培が640万ヘクタールも増加したというのですが、それはとりもなおさず、収穫作業員がますます過酷な労働を強いられるということなのです。つまり働きつぶされているというわけです。もっとも、昔と違って黒人だけがサトウキビ園で就労しているわけではありませんけどね。

 アンシェッタ神父を見てもわかるように、当時の聖職者の多くはインジオの保護に熱心でした。しかし、黒人のドレイ問題には政治的に目をつぶりました。これは、インジオの問題ですでに軋轢を起こしているので、これ以上セニョール側と悶着を起こしたくないという世間智からなんです。

 イエズス会の神父にアントニオ・ビレイラという人がいます。リスボンで生まれで8歳のときに、両親とともに来伯。教育はすべてブラジルで受け、神学者、説教家としては第一人者。ポルトガル宮廷の外交使節として各国を歩いている国際人なのですが、本質的にはインジオや黒人の奴隷化や非人道的な扱いに反対するヒューマニストでした。

 これはやはりこの国で受けた教育が大きく影響し、同じブラジル人として、兄弟として、皮膚感覚で憤りを覚えたからではないかと私は推察しています。というのは当時の聖職者は例外なくコインブラ大学出身者。インジオにしろドレイにしろ、教化に当たっては一段と高いところから見下ろしているところがあり、どこか醒めている、つまり、冷淡なのです。のちに名高いグワラニー教化部落が崩壊したとき、死亡したインジオが1千5百人。神父たちは誰ひとり参与せず、怪我人さえいないという記録がその証になるような気がします。神父たちに戦いに加わるなとの指令が法王庁から出されていたといいますから、上層部が会の存続を条件にブラジル政府に買収されていたということなのでしょうか。やはり、世の中、政治的配慮が働くものなのです。それが神に仕える機関であってもね。

 ビレイラ神父がドレイのために著した説教書があるので(説教集ロザリオ14(1633))、一部を紹介します。

 苦しむ者たちよ(聞きなさい)
 重荷を負うのはあなたたちなのですよ。
 当主と呼ばれるがゆえに、きょうだいを忘れている人たちよ

 彼らは命じ、あなたたちは従う
 彼らは眠り、あなたたちは寝ずの番
 彼らは休息し、あなたたちは働く
 彼らは労働の果実を食み、あなたたちが享けるものは労働につぐ労働である。
 あなたたちの仕事場ほど甘美に満ちたところはないが、
 誰のために甘いのであろうか。
 詩人がいう働き蜂のように働くのだ
「働き蜂は蜜を作るが、それは決して自分のためではない」
                          (訳 ・中田みちよ)

 こんな弱い立場のドレイでありながら、抵抗した女たちを紹介しましょう。

この連載についての問い合わせは、michiyonaka@yahoo.co.jpまで。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros