わたしはサロン風の語らいが好きだ。サロンにはくつろいだ雰囲気がもとめられる。そこでは甲論乙駁ではなく、談論風発がふさわしい。しかも品があって知的な味付けがあるともっといい。さらに酒精がくわわると、言うことなしだ。その意味で、サンパウロ人文科学研究所(以下、人文研)は理想的な知的サロンの場を提供している。
1983年から1985年までの2年間、わたしは客員研究員として人文研に籍をおき、日系宗教の調査・研究に従事した。だが、何よりの楽しみはそのサロンだった。称して“宮尾ゼミ”。わたしの命名である。
ゼミとはいっても教師や報告者がいるわけではない。6時の執務時間がおわると、応接用のテーブルにピンガやウイスキーがならびはじめる。それがゼミ開始の合図だ。主役は当時、専務理事兼事務局長だった宮尾進氏である。かれがデンとすわると、ゼミ生たちとのおしゃべりがはじまる。常連には研究員の小笠原公衛氏はもとより、日伯青年交流の森幸一、東大院生の古谷嘉章、日本から戻った元留学生のサンドラ・ムラヤマ、ネウザ・マツオ、日伯商工会議所の高山直巳、 JICAの山下巌、フリーライターの太田雅子らの諸氏がいた。
そこではブラジルの政治・経済・文化から個人的な恋愛談義まで、話題に事欠くことはなかった。また常連以外にも千客万来、実に多彩な顔ぶれとの出会いと語らいがあった。わたしは宮尾ゼミの熱心な門下生として日々(夜々)充実した人生をおくることができたのである。
宮尾ゼミがくりひろげられた応接室には今でもブラジルの大地図が壁に貼られ、その一角に木像のカベッサ・デ・クイア(ヒョウタン頭)が置かれている(写真右)。
これは宮尾ゼミの常連が北東部を旅行した際、ピアウイ州のテレジーナで購入したものである。おおきな頭の形は、母に反抗した息子に罰が当たり、その頭が膨れ上がったという地元の民話に由来する。頭でっかちで安定性に欠けるところはいかにも人文研らしく、しかも顔立ちは宮尾氏にどことなく似ているのである。
宮尾ゼミはわたしの帰国後もつづき、わたしも調査などで何度もサンパウロに出かけているが、そのときにはいつも宮尾ゼミをひらいてもらい、単位取得にはげんでいる。ただし、まだ免許皆伝にはなってない。そのかわりといっては何だが、人文研ならぬ人文軒のイラストを田中慎二氏より頂戴した。これはわが書斎をかざる貴重なお宝になっている(写真上)。