藤崎三郎助氏は第一回移民の入植に先立つこと2年、明治39年(1906)に、サンパウロに藤崎商会を創設し、日本移民の足がかりを作ったことと、日本商品の販路拡張につとめたことで、つまり日伯貿易の先駆者として著名である。
明治元年(1868)5月10日、仙台市大町の呉服商「エビスヤ」の一人息子として生れた。この「エビスヤ」が今日の藤崎デパート(現社長は三郎助氏の令孫)である。
彼は15才で米人宣教師H.H.デフォレスト神学博士から、英語を学んだが、当時としては随分進歩的な環境にあったものである。デフォレスト博士は、政治家肌の牧師だったので、彼も自ら海外に関する知識を吸収して、外国への関心が高まっていった。同時に仙台もせせこましく思うようになり、一商店の経営では満足せず、明治31年(1898)には中央実業界に乗り出し、同33年(1900)パリに世界大博覧会が開催されると、その見物をかねてヨーロッパ巡遊に出掛けアメリカを廻って帰国した。この外遊が機縁となって、明治34年(1901)から、フランスのリヨン市に、絹織物を輸出するようになった。明治38年(1905)、日本橋に富士屋商会を設け、翌39年(1906)にはインドにエビスビールの輸出を試みて、同業者を瞠目させた。
藤崎氏がブラジルに進出したのはインド進出と同年だったが、その動機は、堀口九万一氏の講演にあった。数年間ブラジル公使館の書記官として駐在した堀口氏は、明治38年(1905)12月に帰朝したが、翌年(1906)1月、渋沢栄一氏主催の、東京銀行会議所で、都下の貿易業者や、銀行、船舶、移植民関係者多数を集めてブラジル事情を講演し、巧みな話術によって多大の感銘を聴衆に与えた。堀口氏の講演に感動した藤崎氏は早速ブラジル発展の意欲を強め翌朝堀口氏を訪ねて、「ブラジルと貿易は出来ないものでしょうか。もし出来るものならばブラジル人の好む品物はどんなものですか」と訊ねた。
この堀口氏訪問がきっかけとなって、明治39年(1906)5月5日神戸出帆の阿波丸(日露戦争後日本郵船の欧州航路再開第二船)で支配人野間貞次郎、社員後藤武夫、佐久間重吉、田中良作の4氏に絹羽二重、絹ハンカチ、刺繍類、花筵(かえん)、茶、陶器、玩具、扇子など、当時の海外輸出品を網羅した雑貨を多量に携行させて、ブラジルに派遣した。
一行はマルセーユを経て、同年7月17日、サントスに上陸、翌日サンパウロ市に到着した。一行がサンパウロに着くと、市民は大変な歓迎振りを示した。日本人といえばその4、5年前に軽業師が、興業に訪れただけだったので、「日本にも文明人がいたのか」と驚く人さえいた。そして同年(1906)9月24日に店開きしたが、携行した品物は2,3日で、飛ぶように売れてしまい、電報で商品を注文する程の盛況だった。当時のブラジル人は、ほとんど日本人に接したことがなかったので、日本及び日本人に対する十分な認識がなく、かつ一行がサンパウロに到着した頃には、サンパウロには、農商務省の実業練習生大平善太郎氏が唯一人いただけで、奥地モジアナ鉄道沿線に住みついた、鈴木貞次郎氏も着伯したばかりだった。だから最初のうちは、日本品の宣伝と販路拡張には容易ならぬ苦心をし、日本の風景、風俗、古い建築物等の幻燈(げんとう)を写して、サンパウロ市民に見せ、今日でいうPRに努力した。サンパウロの有力紙「ディアリオ・ポプラール紙」が藤崎商会に「ジャポン・エン・サンパウロ(サンパウロに於ける日本)」という名称を与えたのはこの当時である。
明治43年(1910)、竹村植民会社がブラジル移民の斡旋を始めると、その世話は一切藤崎商会がやった。またイグアペに数万町歩(Ha)の土地の払下げを得ようというブラジル政府への交渉も、三角ミナスで同胞移民3百家族が不作に基いて飢餓に瀕した時の救済も、藤崎商会がその衝(しょう)に当ったので、当時の移民の間では、藤崎商会のことを移民領事館と呼んで感謝していた位である。その後、藤崎商会の努力は次第に酬いられて、明治44年(1911)には、北伯サルバドール(バイア州)に、同45年(1912)には、北伯レシッフェ(ペルナンブコ州)に、更に大正2年(1913)にはリオ・デ・ジャネイロ市に、夫々支店を開設し、多数の日伯両国人行商者と連絡して、全国的に日本商品の販路を拡張するなど、藤崎商会のブラジルに於ける活躍は、目覚しいものがあった。藤崎氏の事業慾は年と共に旺盛となり、国内では明治40年(1907)、荒井泰治、槙哲氏等と塩水港製糖株式会社を創立して監査役に就任、41年(1908)取締役に、43年(1910)専務取締役として活躍した。
大正2年(1913)には桂公や大浦子爵等の勧誘により、京都府下掠池の干拓事業の発起人として会社の設立に参加した。
明治43年(1910)には横浜の松浦吉松氏と共に、アルゼンチン貿易事業を始め、これを大正元年(1912)9月株式会社藤松組と改組して、その取締役社長に就任した。同社は第一次世界大戦の余波で、大正10年(1921)解散したが、後事を藤崎商会が継承して、ブラジルの藤崎商会が、ブエノスアイレスの藤崎商会支店を管理した。
藤崎三郎助氏は、物質的な事業の外、精神的事業にも非常の関心を有していた。財団法人明治聖徳記念学会は、文学博士加藤玄智氏が、明治45年(1912)7月30日明治大帝の崩御に強く感動して大帝の聖徳を永遠に記念するため発起されたものであるが、藤崎氏はその創立を支援し、自ら理事となり、会計監督を兼ねた。のち、基本金中へ金壱万円を寄付して会の運営に尽力し、紺綬褒章を授与された。同会は其事業の一として、海外に向って日本国体の真髄を知らしめるための幾多の欧文著書を刊行して、西洋人の間には、The Meiji Japan Societyの名で知られ、世界的に日本研究の学会重鎮の一つとされている。
その他、恩賜財団済生会の外、各種の社会事業を指導し、支援した育英事業としては、仙台に養賢義会、東京四谷塩町の邸内には寄宿舎金剛寮を設け、主として親類縁者の学生を収容して、幾多の人材を養成した。なお、静岡清水寺の住職田中清純律師に師事して仏教の信仰篤く、清水寺本堂庫裡再建に際しては、多額の金員を寄捨した。
ブラジル拓植株式会社の取締役に就任した。同社は大正8年(1919)3月に至り、海外興業株式会社と合併した。
その他藤崎氏が関与し、創立してその取締役或は監査役となったものには、打狗整地株式会社、台湾海陸株式会社、台東拓殖製糖株式会社、青島土地建物会社、桜ゴム株式会社、南満洲製糖株式会社、株式会社南昌洋行、東京動産火災保険株式会社、旭紡績株式会社、日本酸素株式会社、東神火災保険株式会社、日本建築紙工株式会社、日米信託会社等多岐なる事業経営に関係した。
大正10年(1921)、藤崎氏は第二回目の外遊に際し、リオ・デ・ジャネイロ市に立ちより、折柄、公使となっていた旧知の堀口九万一氏と再会し公使館で木遣節を大声で唄って、旧交を温めたというエピソードを残している。また、リオ市で大園遊会を開いて、店員をねぎらい、同胞を招待して大いに交歓した。
その後、藤崎商会は、サンパウロ州ピンダモニャンガーバ市付近に農場を買収して経営することとなり、大正15年(1926)に至って、長年の貿易業を中止した。あたかも、この年の6月16日、氏は、持病の腎臓炎に尿毒症を併発して逝去し、生前の功により正七位を贈られている。
なお、野間支配人の同伴した三青年中、佐久間、田中両氏は、数年後ブラジルを去ったが、後藤武夫氏一人だけは、ブラジルを墳墓の地としており、現在も尚矍鑠(かくしゃく)たり、マカコ・ベーリョ組の長老的存在として、昭和10年(1935)以降、カーザ東山参与として活躍している。