福原八郎
福原八郎(ふくはら・はちろう)
quinta-feira, 07 de janeiro de 2010

 「武藤が新規事業をやる時は、いつも福原を先頭に立てる」という伝説?があったらしい。大正8年(1919)、武藤山治氏が第一回国際労働会議へ、資本家代表として参加した時には、福原八郎氏が随員として同行し、氏の女房役として世話をやいている。

 大正15年(1926)、田付ブラジル大使の要請によって、アマゾンへ調査団が派遣された時、外務省から頼まれて調査費の不足額8万円を、鐘紡から支出した武藤氏は、調査団長に東京本店工場長であった、取締役の福原八郎氏を推薦した。団長を委嘱された福原氏は、東京帝國大学教授兼伝研技師医学博士、石原喜久太郎、内務省防疫官、飯村保三、土木測量技師内務省技師、谷口八郎、同、田村義正、同助手、水村松栄、山林技師、石原清逸、農学士、芦沢安平、団長秘書、鐘紡留学生、太田庄之助、通訳、大石小作、の調査団を組織し、大正15年(1926)3月日本を出発して、ニューヨーク経由、5月13日べレンに到着した。この計画はどういうものか、極秘の裡に進められたのでこうした計画のあることも、また福原氏等が出発したことも、日本の新聞は一切知らずにいて、ニューヨークからの外電で、あっとばかりに驚いたものであった。

 最初パラー州知事のベンテス氏によって、提供されようとしたカピン河流域は、一行が調査の結果、日本人の進出に不適なことが判ったので、その実情を詳細に亘って州知事に報告した。これを聞いた州知事は、州内の官有地であれば、どこでも提供するから、他の方面をも踏査して、適地を選定してほしいと答えたので、福原氏は調査団を二隊に分けて、一隊はモジュー河、他の一隊はアカラー河流域を調査せしめた。その結果アカラー河沿岸は土地が肥沃で、かつ水運の便も良く、土地も比較的高燥で、低湿地も少く健康地帯であることを発見したので、団員一同協議の上アカラー河本流と、その支流アカラー・ペケノ河間の土地約50万町歩(Ha)を無償で提供して貰いたい。なお、州内の他の三地方でも、土地の選択を許して貰いたいと州知事に申し出て、その快諾を得た。州知事は、外務大臣宛に、以上の顛末を認めた、1926年8月14日付公文書を福原団長に託したので、福原氏は、当時既に帰朝した田付大使に代って臨時代理大使をしていた赤松祐之氏(サンパウロ総領事)に提出して、外務大臣へ転達方を依頼した。その公文書中には「若し土地譲受者が、当州に於ける日本人植民地設置のため、本提議に応じた場合には、該土地譲受者は、1927年12月31日までに、本提議を基礎とせる契約を、州政府との間に、締結すべき義務がある」旨が明記してあった。

 余談だが、当時本稿の筆者は、毎日新聞特派員としてサンパウロに駐在し、アマゾンよりサンパウロに立ちよった福原氏と会見、調査の結果を糾したところ、わが民族の発展に有望な適地であることを力説したので、その旨を直ちに本社へ通信したが、その後本社からの訓令によって、筆者自身もまたアマゾンに足を踏み入れたのであった。

 また南米拓殖創立の頃は、筆者も日本に帰っていたが、武藤山治氏から創立総会に賛成演説を頼まれ、本山毎日新聞社長の命で演説の草稿を作成し、創立総会の翌朝の毎日新聞に「南米拓殖の創立を喜ぶ」という社説を書いて、祝意を表した。これは、ブラジルで福原氏に会ったという縁故と、アマゾン調査の際、べレンからマナウスまで同行して、いろいろと筆者を援けてくれた仲野英夫氏(故人)に対する情誼でもあったのである。

 調査を終えた福原氏が東京に帰着後、その調査に基いて、田中儀一総理兼外相が音頭取りとなって、南米拓殖会社が誕生した経過は、武藤山治氏の章で、後述してある。

 1927年(昭2)8月11日、創立総会を開いた南米拓殖株式会社は、社長に福原八郎以下、次の諸氏が重役陣に列している。

 取締役(社長)、福原八郎、同、伯爵有馬頼寧、同、高津久衛門、同、鈴木三郎助、同、堀朋近、同、野崎広太、同、中上川三郎治、同、千葉三郎、監査役、神野金之助、同、染谷寛治、同、宝田義文、同、八木幸吉。

 会社が創立されると、州有地無償下付に対する契約期限を、再度に亘って延期申請していたこととて、同年8月13日、福原社長は、五反田貴巳、新井高次、友田金蔵の三氏を随え、愴惶日本を発ち、ニューヨークを経由し、10月7日にベレンに到着、早速契約調印のための交渉に取りかかった。昭和4年(1929)1月、資本金4千コントスの株式会社コンパニア・ニッポニカ・デ・プランタソン・ド・ブラジルを設立し、州政府と福原間の契約を、この代行会社に移転した。この契約条項は、「パラー州モンテ・アレグレ、アカラー、コンセッソン・デ・アラグアヤの4郡及びブラガンサ鉄道地帯に於ける官有地を、3年間の選択権を以って日本人福原八郎に下付す」というもので、最初州知事から提供された百万町歩(Ha)を、アカラ河流域の一口としないで、アカラに60万町歩(Ha)、モンテ・アレグレに40万万町歩(Ha)を獲得することとし、この他に州内他方3ヶ所に、1万町歩の州有地を無償で下付されるという条件の下に、契約を締結したのであった。かくて福原氏は、渡伯に際して同伴した新井高次、現地に在った仲野英夫、医学博士松岡冬樹の諸氏等と共に実地調査の結果、最初の事業地をアカラー河流域の下付地と決定し、アカラ郡役所の所在地であるアカラー町から、アカラ・ペケーノ川を遡る約150キロのトメアスーを、植民地の港兼本部とし、昭和4年(1929)4月12日、先発隊が開拓の第一斧を入れたのであった。

 南米拓殖が誕生して、その社長となった福原氏は、同時に鐘紡の取締役を辞任し、アマゾンにあって自ら陣頭指揮に当った。齢すでに50有余歳、ジッとしていれば大会社の重役として、何の不自由もない身を、未知の世界、アマゾンの開拓事業に投じたその意気やまことに洵に壮というべきである。

 かくて第一回移民は、昭和4年(1929)7月24日、神戸解纜のモンテビデオ丸で、43家族189名が日本を出発し、ブラジル独立記念日の9月7日にリオ・デ・ジャネイロに到着、翌日マニラ丸に乗り換えて、同16日ベレンに到着した。続いて第二回移民はブエノス・アイレス丸で相次いで到着し、第二十一回まで累計350家族が入植した。然るにアマゾンはサンパウロと異り、移植民の処女地だったので、その初期に於いては適地栽培物も発見されず、経済的苦境に加え、風土病が蔓延し、入植者の増加と共に猛威をふるって、犠牲者の墓標は月々目にみえて増えていった。そして先駆者は世に容れられずで、経営の不振はすべて社長である福原氏に背負わされ、昭和10年(1935)4月7日、橋爪会館で開催された植民者大会で、「責任者福原社長は、私財を擲って難局をを打開すべし」と叫ばれるに至った。そこで改革整理のためにアカラーへ、日本から派遣されていた、井口茂寿氏が仲介者となって、福原社長が大会に臨み、過去の経営不振と、現状の窮状を招致せしめた自己の責任を認め、且つ陳謝し、金一封の慰謝金を提出して、福原氏の帰国となったのであった。

 現職をなげうって身を投じた、植民地建設の壮図ならず、万斛の涙を呑んで第一線を退陣した福原氏の胸中は、洵に察するに余りありである。

 然るに幾多荊の道を経たアカラー植民地が、黒胡椒の栽培によって、一躍ブラジル産業界に偉大な存在を示し、今日のトメアスー植民地となったことは、先覚者福原八郎氏も、以って瞑すべきであろう。

 福原八郎氏は、福岡県三池郡高田村舞鶴の出身で明治7年(1874)11月15日生れ、明治32年(1899)3月、東京高等商業学校を卒業後、同年10月農商務省実業練習生として北米に渡り、主として紡績事業を研究し、同36年(1903)2月帰朝、同年8月鐘ヶ淵紡績株式会社に入社し、大正8年(1919)取締役に就任、南米拓殖の社長になるまで、鐘紡一本槍で進んで来た人である。

 第二次大戦たけなわの昭和18年(1943)8月、トメアスーが未だ世に出ぬ中に、黄泉(よみ)の客となった。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros