昭和16年(1941)2月、チエテ移住地支配人の現職のまま、慰労帰朝の恩典に浴し、妻子をブラジルに残したまま、16年振りで故国の土を踏んだ。
昭和16年(1941)5月、拓務省は、海南島開発計画樹立のため、同島農業調査団を派遣することとなり古関氏は、同省の嘱託として海南島に赴き種々有益なる献策をした。
然るに、国際情勢は日を追って緊迫を告げ、遂に南米への交通を失ったので、内地に止っての御奉公を考え、ブラジル拓植組合の本社ともいうべき、日南産業株式会社に入社し、昭和16年(1941)11月以降、その渋谷工場長を勤め、鋭意事業の向上・発展につとめた。
たまたま軍部は、南方占領地区の経済開発を、最大急務として、東洋紡績株式会社に、フィリピンの棉作を命じたが、古関氏が職を奉じた日南産業株式会社が、東洋紡績の技術面を担当することとなり、氏はその主班に選ばれた。過去16年に亘って、南米ブラジルで獲得した植民の体験と棉作技術が、今や祖国の興隆に役立つ機会が到来したと、大東亜建設の第一線に立つことを心から喜んだ氏は、直ちに全計画を案出し、諸般の準備を整え、勇躍壮途に就いた。
然るに、乗船大洋丸(第1次大戦の独乙からの賠償船)は、目的地フィリピンに向う途中、昭和17年(1942)5月8日、東支那海で敵潜水艇の魚雷攻撃をうけて沈没し、古関氏も遂にその目的の地を踏むことなくして、雄図空しく海の藻屑と消えたのであった。
行年40才(泰正院徳峯自照居士)
その屍体確認に際しては、既に見分け難くなっていたのを、令妹が嘗て修理の時に記録していた時計の番号で明らかになったという。東洋紡から派遣された第二陣は、古関氏が挺身赴こうとしたフィリピンの地に、その遺骨を永く埋むべく、分骨の小壷を抱いて渡比したという後日談もある。
これより先、古関氏は在ブラジル16年の体験に基いて「南方開拓者の指標」を著し、学友北海道帝国大学教授上原轍三郎、海外移住連合会理事長郡山智両氏の序文を得て、東京神田の文憲堂書店から刊行、昭和17年7月30日発刊されたが、この三ヶ月前に古関氏は既に幽明境を異にしていた。
古関氏は、明治35年(1902)3月20日、父唯助、母リヨの五男として福島市市原町に生れた。父君は、傑僧南天棒鄧州の高弟であった。福島農学校在学中、家産傾き、仙台の宮城農学校に転じて、牛乳配達をしつつ苦学し、進んで、札幌北大の農大部実科を卒業した。「満州に於ける朝鮮農民の定住状態」というのが、その卒業論文であったが、その実地調査の為、満鉄実習生となって、現地を視察するなど、事に当って、ゆるがせにしない氏の性格は、当時より判然としていたのである。
一年志願兵として、歩兵29連隊に入り、軍隊生活では「頑張り」を見せたと後年語っていた。除隊の1925年(大14)6月、バウル-領事館勤務中の次兄富彌氏を頼って、1925年(大14)シカゴ丸で渡伯した。
バウルー在のサン・ルイス耕地で鍬を握ったが、猛烈なアミーバ赤痢に罹り、加療のため出聖、一時、小林美登利氏の聖州義塾に席をおいた。1922年(ママ、恐らく1926年)、伯国百年祭に山科禮蔵氏一行の南米実業視察団が来伯し、北芭ウライに1万アルケーレス(2万5千Ha)を購入すると、野村秀吉氏と共に、原始林の測量調査先発隊として活躍、猛烈なマラリヤに冒され九死一生を得た。
植民地開拓の基礎は、衛生にありと、同仁会嘱託の高岡専太郎ドトールを主班とするマラリア、フェリダ・ブラーバ予防研究を開始すると招かれて衛生測量技師という奇妙な肩書で、奥地植民地の実態調査をやり、伐採、水流、地形、住宅、鑿井等の理開体学(ママ)を研究した。
旅行好きで、ブラジル中はもとより、アルゼンチン、アマゾン、南三州等にも足跡を印し、ブラジル拓植組合が組織された当時、チエテ、バストス移住地選定に際して、畑中仙次郎氏と共に実地踏査をし、草創時代、パラグワイ国のコルメナ植民地まで足をのばしている。
毒矢のペンネームで、邦字新聞や雑誌の寄稿家として知られ、その南三州、アマゾンの紀行文は、名文として好評を博した。地勢と水流についての研究論文が、サンパウロ州農務局月報に掲載されたことがある。
1931(昭6)、ブラ拓に入社し、1935年(昭10)11月、斎藤幸氏の後任として、チエテ移住地の支配人代理に選任されると(1937年1月支配人に選任)高岡専太郎医学博士を招聘し、その指導の下に、臨時衛生部を設け、戸別訪問、患者登録、治療法指導等の外、抜本塞源法として、アノフエレス蚊発生防除を徹底的にやって、魔の森といわれたチエテ移住地のマラリアを撲滅した。
サンパウロ在住時代、青年会長として、安養寺顕三氏等と、コロニア・スポーツの組織化、強力化に尽力したことのある氏は、移住地青年層の組合精神運動、文化運動、体育方面に意を尽くし、自治会、産業組合の発展、チエテ会館の建設、チエテ十年史の編纂等、在任5ヵ年間に於ける氏の業績は、チエテ移住地の全盛時代を現出したのである。
範子夫人(リンス在住同県人佐藤次郎氏長女、師範在学中、1933年、高岡ドトールの媒酌にて結婚す)は、長女悦子、次女稲子、長男裕一、三女米子の遺児を守って、救済会常任書記をつとめ茨の途を歩みつつ、それぞれ高等専門学校を卒業させた。現在はコチア産業組合の学生舎監として、活動を続けている。