ブラジル文化と経済の(歴史的な)関係について(4)
辻 哲三(人文研 監査役)
quinta-feira, 16 de junho de 2011

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経済の発展要素

歴史的に見て経済の発展要因と阻害要因をまとめて見ると下記のようになる。

発展要因
(1) 広大な国土と資源、農業、気候に恵まれた。
(2) 外国移民の導入が経済の活性化に繋がった。
(3) 外資と技術の導入により、労働者は技術、規律、合理化、時間管理、等々を学んだ。

阻害要因
(1) 歴史上、真の革命がなく、未だに植民地文化とイベリア半島の中世文化を引きずり、民主化が遅れている。
(2) ブラジル文化はモノカルチャー経済思考から解放されていない。
(3) 歴史的に各個人が互いに協調して自治組織を行うという社会基盤が定着していない。
(4) カトリックは近代経済の推進役にはならなかった。
(5) 白人とインディオ、黒人の混血が文化の停滞を起こした。
(6) 教育、道徳、技術軽視が発展を阻害している。

それではなぜブラジルがここまで発展できたのか。近代ブラジル発展の直接の原因はコーヒーと外国移民が引き金となった。ブラジルは植民地時代、帝政時代、そしてコーヒーの最盛期を迎えるまでは「重農主義」(土地こそ富の唯一の源泉であり、富を増加するのは農業である、とする考え方)が主流であった。その労働力を全面的に黒人奴隷にたよったために社会に中間層が発達せず、自家消費と生産システムや社会コミュニティーも発展しなかった。これはアメリカ独立戦争前の南部と良く似た社会でもあった。そのような社会が1930年代を起点に急速に工業化を推し進めたが、その発展過程を中隅哲郎氏に言わせるとブラジルは「全ての成長過程を省略して進化している」というのだが。

そのようなモノカルチャー経済のブラジルは砂糖から始まり、金ブームの後はコーヒーの時代となった。ブラジルでのコーヒー栽培は仏領ギアナから輸出厳禁のコーヒーの種と苗をフランシスコ・デ・メロ・パリェッタ(遠征隊長)が持ち出して1727年にパラーに植え、そしてマラニオンからリオへは1760年に伝わった。しかし、当時コーヒーに関心を抱く者は少なく18世紀末までは徐々に広まっていく程度であった。なぜならば、その他の作物である砂糖、タバコ、ココア、藍などの伝統作物と競合していたからだ。その後、砂糖価格の下落とコーヒー需要と価格の上昇により状況は一変していく。1852年のコーヒー価格はアローバ当たり3.3ミルレースであったものが1872年には7.9ミルレースに跳ね上がっていった。コーヒー栽培地域はリオ州からサンパウロ州へ、そしてミナス州と流れ込んでいったが労働力は1888年の奴隷解放までは全て奴隷に頼っていた。下記に1796年の主要貿易港の輸出入を記したが、サンパウロ圏の輸出入はサントスとパライーバを加えても輸出が89コント、輸入が205コントでリオ・デ・ジャネイロの貿易額の3.3%に過ぎなかったのである。しかも、その輸出高のほとんどが砂糖であったのだ。サンパウロ経済が伸び悩んだ原因はピラチニンガ高原からサントスまでの道が険しく、クバトンの沼地と運河を越えて標高約1000mの海岸山脈を登らねばならなかったからだ。その物資輸送の道路は何度も改修された19世紀末でさえ登りは一週間以上かかり、更に多大な人件費がかかった。これでは輸出向け作物の栽培は不可能に近かった。

表 1   ブラジルの対外貿易 (1796年)  コント
港別輸出輸入
リオ・デ・ジャネイロ2.4743.702
サルバドール2.0693.960
レシッフェ1.3832.250
サン・ルイス(マラニオン)6341.055
ベレン(パラー)330297
パライーバ42150
サントス4755

コーヒーの需要は上昇し続けていったが、労働力である奴隷の供給は徐々に厳しくなっていった。奴隷使用国では各地で黒人の反乱が発生、プロテスタントによる奴隷解放運動が活発化、そしてイギリスは各国に先駆けて1833年に奴隷制度を廃止した。イギリスが各国に奴隷解放に熱心であったのは産業革命を成し遂げたイギリスは世界の工場として発展していったが、その製品販売の邪魔になるのが奴隷制度を続ける国々である。18世紀には奴隷売買でしこたま利益を上げたイギリスが一転して「人道問題」として圧力をかけてきた。アメリカでは奴隷問題が高じて南北戦争が勃発、4年間も戦争が続いた。ブラジルもイギリスの圧力に抗し切れず、遂に1888年に奴隷解放に踏み切るに至った。しかし、農場主の反感を買い翌年共和革命が発生した。ブラジルが外国人移民を許可したのは1808年の王室のポルトガルからブラジルへの移転の年からで、自由移民の許可は1814年からである。しかし外国移民が急増するのは奴隷解放の1888年以降である。その目的はもちろんコーヒー農園の労働力として奴隷に代わるものであった。日本移民が始まるのは1908年からであるが、これも同じ目的で導入されたものである。


                       表 2

表2を見ていただきたい。1888年を境にしてコーヒー生産は急増している。世にも不思議なことであるがコーヒーと言う嗜好飲料の一つが大国ブラジル経済を支えていったのだ。1960年に至っても総輸出額の56.1%をコーヒーが占め、コーヒーに関連する従事者は約350万人に達していたことでもその存在感は格別であった。コーヒーの増産と同時にサンパウロ村の大発展が始まる。その発展の裏にはサンパウロ州には東北伯のような強固な農園は存在せず、幸いにも土地の分譲が外国人にも比較的低価格で手に入ったことである。もし、この外国人への土地の分譲がスムーズに行われていなければ、ブラジルはアルゼンチンのような国になっていたかも知れない。そして問題の物資輸送は1867年にマウアー男爵によってイギリス資本と技術、コーヒー農園主の資本とでサントス-サンパウロ-ジュンジアイ線が開通し飛躍的に改善された。

外国移民の最盛期は1850年から1950年でその100年間に入国した総数は約500万人に上った。1920年において外国人の人口比率は約5.1%、1950年では約3%が外国移民の比率であったから、驚くような人数ではなかったが、サンパウロ州や都市部では、その比率は高くブラジル南部の社会、経済に及ぼした効果は非常に大きかった。近代農業の基礎を作ったのはイタリア人、ドイツ人、日本人、東欧人等の貢献を抜きにして考えられないし、工業もしかりイタリア人、スペイン人、ドイツ人、等の貢献、商業ではシリア人、レバノン人、ポルトガル人を抜きにして考えられない。

外国人がもたらしたのは何もそのような特殊技能だけではない。合理化、労働時間の厳守、努力、貯蓄、教育の必要性、新しい宗教、向上心、モノつくり文化、スポーツ、食文化、責任感、芸術、演劇、等々いろいろな文化を持ち込んだが、共産主義や無政府主義、ストライキというようなブラジル政府を悩ます文化も同時に流入した。ある調査によると1970年代初期のサンパウロ市における主要な商工業の企業主の85%は外国移民か、その子孫であった。また、有名大学の入学率でも極めて高い比率を示している。

外国移民の貢献についてブラジル人はあまり語りたがらないにしても、その貢献はサンパウロ州のみならず、南部諸州の躍進、ブラジル全土に及ぼした影響はすこぶる大きいのである。単に経済や文化に影響を与えただけではない。その子孫は今後も多文化経験を生かした社交性、臨機応変性、目的重視、起業家精神、強い個性、人使い上手、等日本人にはない能力と2ヶ国語、3ヶ国語を駆使して国際人としての活躍が期待できるのである。時流に必要な経済文化は常に変化している。日本はかって均一文化の集団性、終身雇用、技術優位、プロセス重視を武器に経済成長してきたが、グローバル化する経済には多文化社会で生きる多様性がますます重要性が求められるであろう。

このようなデータは存在しないが、私は外国移民というものは、異国の地、異文化の中で苦難に続く苦難と血のにじむ努力、忍耐が平常では起こりえない異常な向上心に昇華して経済発展する要素を持っているのではないかと思う。これはアメリカ史でもそうであるが、各国の移民史を見ると一層、その感を強く感じるのである。それは経済的な面だけではなく、より強固な宗教心を支えに子弟の教育、献身的な同胞愛、慈善事業、相互扶助にも現れている。その証として多くの教会を、また慈善病院、福祉施設、親善施設(クラブ)を自らの浄財で建設してきた。しかし、日本人の場合、苦難を乗り切るための精神的なよりどころとして、より強固な宗教心を求めること(一部の宗教を除いて)は表面上見られなかった。そのように内面に秘めるのが日本の宗教心なのかも知れないが、一神教からみれば不思議なことである。しかも、寺院の建立の多くは日本の本部の教団が資金を出して造ったもので移民が造ったものではなかった。移民にとって必要な宗教は精神的なものよりも冠婚葬祭に必要なものでしかなかったか。

それはともかく、今後ブラジルがどのよう発展するのかは、経済面のみならず文化面も眺めて始めて理解できるのだということに気付いていただけただろうか。



サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros