野村徳七氏は、夙に海外発展の主唱者で、大正の中期から末期にかけて、その視野を広大なる海外に馳せ、その触手を、満蒙、朝鮮、南洋等にのばして、悠々大計を樹てた具眼の士であった。
明治11年(1878)8月7日、初代徳七氏の二男として大阪で生れた。兄卯一郎氏が三才で夭折したので野村家の嗣子となり、明治28年(1895)、大阪市立高等商業学校を予科三年で中退後、家業に従事し、明治37年(1904)、野村徳七商店を継承してこれを主宰するに至った。
大正5年(1916)4月、南洋視察旅行を試み、翌年5月、野村南洋事業部を設立し、ボルネオのダナウ・サラツク農園を買収した。
野村銀行を設立したのは、大正7年(1918)5月で、大正9年(1920)3月には、蘭領ボルネオ護謨(ゴム)工業株式会社を設立した。(昭和4年【1929】12月、野村東印度殖産株式会社と改称する)
更に大正11年(1922)3月、(野村合名会社を設立して社長に就任。翌12年4月、スマトラでカラン・イヌ油椰子農園を買収した。この農園はスマトラのアチエ州にあって、4千5百町歩(Ha)の面積を有する大農園であった。
大正14年(1925)11月、野村證券株式会社を設立し、翌大正15年(1926)5月には、スマトラでカラン・イヌ農園と並称される、ブキット・トウサム珈琲園を買収して、その傘下に抱擁したばかりでなく、同年12月にはその触手を遠くブラジルに延ばして、北パラナ、バンデイランテ駅の珈琲園の買収となったのである。
当時わが日本は、朝野をあげて、移民問題が云々され、南米ことにブラジルへの移住が大きな問題となっていたので、すでに南洋で熱帯農業に先鞭をつけ、豊富な経験を積んでいた野村氏としては、南米の新天地に対しても深い関心を抱き、一石を投じる気持ちになったものであろう。
そのきっかけは、たまたま一ツ橋(東京高等商業学校)の出身で、初め三井物産のカルカッタ支店に勤め、後転じて単身ブラジルに渡り、その実状を調査研究した上、有力な投資家を求めて日本に帰った伊藤陽三氏が、伝手を求めて野村氏と会い、ブラジル発展を説いたのであった。その説くところは、野村氏のかねての所論と一脈相通じるところがあり、遂にブラジルに於ける農園経営に、手を延ばすという決意を固めるに至った。
野村氏の日誌によれば、大正14年(1925)11月27日の條に、「ブラジルの伊藤氏来訪、昼食を共にす」とあり、ブラジル発展についての両者の懇談が行われたものと思われる。
野村氏から、ブラジルに於ける珈琲園の物色を一任されるという知遇に感激した伊藤氏は、大正15年(1926)2月23日、横浜を発って北米経由、ブラジルに向った。これに先立ち伊藤氏は、1月18日の午餐会で、野村合名の役員達に対し、翌19日の午後六時から社員たちに南米談を試み、22日には京都の碧雲荘で、当時の駐伯領事多羅間鉄輔氏夫妻と共に、野村氏に招待されて懇談を久うしている。
伊藤氏に次いで、ダナウ・サラツク農園の技師長林昌夫氏と、東大農学部の新卒業生大窪治氏を派遣し、両氏は大正15年(1926)4月7日、横浜を出帆し、同5月13日ブラジルに到着した。この農業技術者、特に南洋に於て数年間の実地経験を有する林氏の派遣は、夢想家肌の伊藤氏に配するに、科学的の素養と実地の経験を有する専門家をもってしたもので、これを南洋の事業着手当時の野村氏の措置と比較すると各段の周到さと進歩を示したものといえよう。
伊藤、林、大窪の三氏は大正15年(1926)6月3日、リオに会合して打合せを行い、爾後百数十日に亘って、サンパウロ及びパラナの両州を踏破し、陸路の全旅程3千2百余哩に達する大旅行を試み、つぶさに珈琲栽培の好適地を調査した結果、遂にパラナ州の北部州境に近いところに、その候補地を発見した。大正15年(1926)12月3日、この買収を決定したが、その価格は450コントスで、当時の対伯為替は百円対4百ミルレースという有利な状態だったので、これを邦貨に換算すると僅に11万2千5百円という安値であった。
この農園の位置は、パラナ州北パラナ鉄道カンバラ駅から約50キロ(その後鉄道の延長により、バンデイランテス駅の南方15キロとなる)の、フランジーニャ分水嶺の山間にあるが、カンバラ駅までは一條の州道が通じていた。面積は6百アルケーレス(1,500Ha)で、土地の3分の2は標高550メートル前後、地質はコーヒーに理想的なテーラ・ロッシャであった。
既植のコーヒー樹は約6万本で、3年間に45万本の植付が可能で、全面積の半ばは、棉花、米、砂糖の栽培に適し、同時に牛馬の放牧も出来るという、うってつけの農園であった。
その後農園の隣接地を買収して、第二農園を開設し、所有面積は3,355町歩(Ha)、植栽面積1,500町歩(Ha)に達し、珈琲の年産1万俵を超えるに至った。また経営の多角化に留意し、玉蜀黍、大豆等を栽培、牛、豚等の畜産でも相当の成績を挙げた。ことに従来中部ブラジルでは全然不可能とされていた、小麦の栽培に成功し、昭和13年(1938)、最適品種の選定と、その栽培方法を確立し、ブラジル政府の小麦自給政策に一道の光明を寄与したことは、特筆すべきことであった。
野村氏は、昭和9年(1934)4月、共和生命保険株式会社を買収して、同年9月10日、野村生命保険と改称、銀行、証券、生命保険、海外事業等に君臨するばかりでなく、貴族院議員にも勅選され、その巾広い活躍は各界から注目されていたが、昭和20年(1945)1月15日、狭心症のため突如として急逝した。享年68才。