ブラジルの陸上競技界に貢献した、安養寺顕三氏の功績を没却してはならぬと同様に、水上競技界に尽した、斎藤巍洋氏もまたコロニアスポーツ史上永久に残る功績を示している。
斎藤氏は千葉県の出身で、明治36年(1903)9月14日生れである。水泳で有名な岸和田中学校から立教大学に入学した。立大在学中、背泳と短距離自由形で、幾度か日本新記録を更新し、第八回オリンピック大会には、日本代表として出場した。
昭和2年(1927)、立教大学を卒業して、毎日新聞社に入社し、毎日の浜寺水泳学校の教師等も兼ねた。また濠州、ハワイ、米国等にもしばしば遠征した。
斎藤氏は、自身が有能な水泳選手だったばかりでなく、コーチとしても非凡な手腕を示し、立教大学チームをコーチして、常に優秀な成果を収めていた。
南米水上選手権大会や、国際オリンピック大会で刺激を受けた、ブラジル水泳界は、ようやく水泳競技熱が盛大になり、ブラジル海軍体育協会と、ブラジル海軍スポーツ連盟の名で、日本大使館を経て、日本の水上連盟へ、水泳コーチを招聘したいと申込んで来た。契約期間は1ヵ年、その選にはいったのがコーチのうまい斎藤巍洋氏であった。
斎藤氏の勤務先である毎日新聞も、日伯親善のお役に立つならばというので、斎藤氏の派遣を快諾した。
昭和9年(1934)12月17日、神戸出帆の商船もんてびでお丸で、自信と抱負に胸をふくらませた斎藤氏は、ブラジルに向った。
外人にみられない脚の強さ、鮮かなフォーム、試合に対するねばり強さ、これ等は水泳日本独特の練習法によって、編み出されたものであった。
リオ湾の孤島に在った、海軍兵学校の一室に宿舎をあてがわれた斎藤氏は黒鯛や縞鯛が泳ぐ、一寸たぐいまれなプールで、ブラジルの海軍生徒や関係者に、日本独特の泳法を移植した。
その頃、リオの日本大使館に勤めていて、斎藤氏の世話役を頼まれていた上野毅夫氏が、到着後間もない斎藤氏の通訳を引受けて、ブラジルの新聞記者に会った時「貴君がコーチをしたら、どの位で海軍の連中の腕が上るか」との質問に、「1ヵ月もあれば記録を更新してみせる」と答えた。通訳の上野氏が反って心配して、そんな大きなことをいっても大丈夫かと糺したところ、なあに連中の筋はちゃんと見てあるから、大丈夫だと答えたという。逞ましいその自信のほどがうかがえる言葉である。
斎藤氏独特の練習法によって、わずか50日たらずで、海軍の選手達は著しい進境を示した。フォームも全然一新して、従来のブラジル並びに南米の記録を忽ちやぶり、各新聞は筆を揃えて氏の業績を絶讃した。
海軍体育会は、昭和10年(1935)3月サンパウロに遠征し、同15日にチエテ・クラブで、同17日には、エスペリア・クラブで、サンパウロ水泳連盟と競技を行った。両日共満員の盛況で、しかも海軍体育協会が全種目に選手権を独占して、大勝を博した。その中でも2百米平泳では、海軍ヴェネベスト選手は、2分42秒4の南米新記録を出し、その他千5百米のラップタイムでも、南米記録を出して、観衆を驚かした。
リオに対抗して、サンパウロでも、ヨーロッパから一流コーチを聘して、それぞれ練習していたが、斎藤氏の独特なコーチが、格段の成績を挙げたのであった。この時ブラジルの或る新聞は、
「ブラジルは1500年に、ポルトガルの海洋探検隊カブラルによって発見されたが、ブラジルの水泳は、日本の水泳家斎藤によって発見された」とまでその功績を称えた。
昭和10年(1935)6月、平生ミッションがブラジルを訪ねた時、この一行に同伴した、毎日新聞特派員の和田伝五郎記者に対し、ジョルナル・ド・ブラジル社長ピイレス・ドリオ氏が、「50年間に外交官がなし得た日伯親善、10名の経済使節が現になしつつある日伯提携などの努力は、斎藤君の一人個人外交の足下にも及ばぬ。全南米水上競技大会で、斎藤のコーチしている伯国海軍協会連盟が、ビラア、ペネベタ等の新進選手をおくり、ビラアの如きはゾリラの再現とまで謳われた。即ちビラアは、百、2百、4百、8百の自由形で、何れも南米の新記録をつくり、ペネベタの百、2百の背泳とともに、海軍側は6種目の選手権を握り、全ブラジルが同大会で獲得した190点中、92点は海軍連盟がとったものである」と語った。
斎藤氏は、1ヵ年の契約で、ブラジルに派遣されたのであったが、昭和11年(1936)のベルリン・オリンピックに具え、日本の水上連盟では、コーチとしての斎藤氏をどうしても必要とするに至った。そこで期間を若干短縮して、帰国することを要請し、斎藤氏は、昭和10年(1935)12月18日、リオ出港の商船さんとす丸で帰朝の途についた。当時の駐伯大使澤田節蔵氏から外務省宛の報告によれば、
「ブラジル海軍体協側は、斎藤君の滞在延期を切に希望したるも、大使館員が海軍体育協会長と共に、海軍大臣を訪れ、日本の国内事情をのべたところ、大臣は斎藤君の真摯なる努力と、その功績に鑑み、期限前に円満帰国が出来るよう、好意的に解決を取り計ってくれた。海軍側の好意も勿論ながら、同氏がいかに伯国水泳界に、好評を博していたかを裏書するものである。」
大使館の送別午餐会の出席者は、異口同音に、その功績を称讃し、オリンピック後に再び来伯を希望すると語り、各新聞も同氏の帰国を報ずると共に、伯国水泳界に多大の貢献をした氏の功績を称讃しその帰国を惜む記事を一斉に掲載した。
「運動コーチとして、日本から外国に派遣された、最初の人であるが、前述の如く日伯スポーツ界接近の楔となり、ひいては両国の親善関係に寄与するところ、すこぶる大なりと認められる次第である」
とその功績に就いて太鼓判を押している。
大阪商船は、あるぜんちな丸の姉妹船として、ぶらじる丸を新造し南米航路に配してその強化を計ったが、その処女航海に際し、斎藤氏はブラジル在留邦人陸上競技協会の招聘で、再びブラジルを訪れた。
斎藤氏が監督となり、葉室鉄夫(日大)、遊佐正憲(日大OB)、の両水泳選手を引きつれて遠征したのだった。このぶらじる丸は、昭和15年(1940)1月17日に神戸を出帆し、同年2月21日リオに到着した。フルミネンセ競技場(25米)で行われた第一回大会で、葉室氏は2百米平泳で2分39秒、百米平泳で1分11秒7の短水路日本新記録を出した。また遊佐氏は、この競技場での記録は、百米を58秒4で泳いだが、3月1日の記録会では、百米57秒9となり3月3日の50米コースでは、58秒4を出して、ブラジルの選手達を呆然とさせた。しかし斎藤氏を監督とする、この日本水上軍の遠征も、斎藤氏に対するブラジル水泳界の馴染が深かった丈に、日伯両国間の交歓、親善には、一層の効果があがったのである。
斎藤氏は昭和19年(1944)8月17日、陸軍嘱託として大東亜戦たけなわの、マニラに出向を命ぜられ、マニラ新聞社(毎日新聞社経営)に籍をおいて、軍報道部教育隊の遊泳訓練中、病を得て不惜(原文ママ)、同年(1944)9月5日に急逝した。享年42才であった。マニラ新聞では、社葬としてマニラ本願寺で盛大な葬儀を執行した。
温厚寡黙、ぼそりぼそりと物を言うようなたちだったが、こと水泳に関しては、並々ならぬ熱情を抱いていた。
終戦後、遊佐正憲氏一行がブラジルに遠征した際、歓迎委員の大河内辰夫氏が、斎藤氏の逝去を聞いて、これを斎藤氏と最も親しくした高岡専太郎氏に伝えたので、高岡氏が発起人となって、邦人社会によびかけ、記念品購入資金をあつめて、これを近く日本を訪問する宮腰千葉太氏に託した。宮腰氏は、昭和25年(1950)9月7日、東京千代田区丸の内の新洋貿易株式会社本社で、斎藤未亡人君子さんに手交したが奇しくも七回忌の命日におくれること二日であった。君子未亡人は久美子、俊介の二児を擁し、夫君の死後、ずっと毎日新聞東京本社に勤務している。
故安養寺顕三氏に対する墓碑の寄贈といい、故斎藤巍洋氏の遺族に対する記念品の贈呈といい、ブラジル在留邦人の友情は、胸あたたまる心地がする。