駐伯第四代公使内田定槌氏の時に、わが第一回移民が、ブラジルに入植したのであった。内田氏は慶應元年(1865)1月17日、福岡県田川郡採銅所村で生れた。
笈(きゅう)を負って東京に上り、明治22年(1889)7月、東京帝大法学部を卒業し、直ちに外務省試補となった。内田氏が弁理公使兼総領事に任じられて、ブラジル駐在を命じられたのは、明治39年(1906)12月27日であった。明治40年(1907)3月、東京を発って、5月20日、リオに着任した。同年10月9日、公使館昇格により、特命全権公使となった。
内田氏はかねてから、単に移民を入れるだけでは意義がない、これを定着させ独立農としなければ、本当の邦人の発展はできないとの意見を抱懐していたので、入国した移民がよい成績をあげるように、そして邦人を移民から植民に導くように、並々ならぬ努力をした。
日本移民の誘入はサンパウロ州政府にとって、試験的であったと同様に、最初の何年間かは、日本政府にとってもまた、試験的なものであった。第一回移民は、一般ブラジル人からも、一種の好奇心をもって見られ、果して適当なりや否やと、疑問を以て迎えられた。何分にもブラジルは、日本人にとっても初めての土地であり、しかも異境万里、言語、風俗、習慣、食物等、生活環境がことごとくちがっているので、耕主側との間に、しばしば葛藤を生じるなど、その成績は決して、香しいものではなかった。従ってブラジル側では、期待を裏切られたように感じ、かねて日本移民誘入に、不賛成を唱えていた人々は、それみたことかとばかり、或は口に、或は筆に、日本移民反対論を発表するのであった。そのような反対論の影響が初めてブラジル連邦議会に響いたのは、第一回移民が入植した年の暮で、翌1909年の連邦歳出予算中移植民の項、内地輸送費の欄に「アジア移民はこれを除く」との字句が含まれていた。支那移民の誘入が、全く問題になっていなかった当時のことで、このアジア移民という一句が日本移民を意味するものとすれば、日本移民は差別待遇を受けることになり、明かに日伯条約に反するものと認めねばならなかった。
内田氏は慧眼にもその条項を発見して、直ちに説明を要求した。これに対しブラジル政府当局は、このような字句が挿入されたのは、日本移民反対論者である一議員が、予算案修正締切りの、どさくさ紛れに乗じて行ったものであって、全然政府は関知していない。従って政府はこの規定を、日本移民に適用しないのは勿論のこと、日本移民を欧州移民と全く均等に、待遇する旨を返答して来た。
後日のためにこの返答を文書にして、保管しておくことが万全であろうと考えた内田公使は、その旨を公文書で外務大臣リオ・ブランコ氏に申送った。すると外相からは、
「国会が予算法中に挿入規定した制限は、日本移民には関係がない。何となれば、日本人は、日伯条約で保障されており、その条約の実施中は、両国のいづれたりとも、普通法を以て、該条約の規定条項に違反することは許されない。かりに該条約が存在しないとしてもその活動が進歩的で、しかも労働を好む精神を以て、自国を一等国にしあげた人民、しかもブラジルがこれに恒久的公使館を設置している友邦の人民が、広大なブラジル国領土に来住するのを、拒絶しようとしたり、若しくはこれに不利益を与えようとするような意志はブラジル政府としては毛頭もっていない。1908年12月31日の、法律第2050号に挿入された字句に関しては、誤解の起るのを防止するため、1910年の予算法中には、これを掲記しないこととした。よって伯国に渡来する日本人は、前記条約第四条に従い其の移民たると否とを問わず、最恵国人民が現に受け、若しくは今後受くべき、一切の特権及び免除を享受するであろう。ただし該条文はブラジル政府が、いずれかの、他の外国移民を契約し、他の外国に於いてブラジルに来るべき移民を奨励する場合、日本または他の最恵国条款均霑(きんてん)国に於いても同様に、移民を契約すべき義務を、ブラジル政府に負わしめるものではない。」
との趣旨を言明してきたので、この問題は円満に解決した。
内田氏がブラジル在任の明治41年(1908)、ブラジル海軍の練習艦、「ベンジャミン・コンスタント」が世界周航の途次、ホノルルを出航後、当時無人島として知られていたウエーキ島で、日本人20名(山形帆船寶久丸の乗組)を救助して横浜に入港した。そして艦長アントニオ・コウティーニョ・ゴーメス・ペレイラ中佐(後に海軍大将に進みわが国から勲一等瑞宝章を贈られた)が人命救助で、紅綬褒章を授けられたという、ほほえましい事件があった。
内田氏の在任中、いま1つの軍艦にまつわるエピソードがあった。明治43年(1910)6月10日、わが巡洋艦「生駒」がブラジル訪問の第一艦として、リオ・デ・ジャネイロに入港した。「生駒」は、アルゼンチン共和国独立百年祭祝賀に特派された帰途、海軍を通じて日伯交歓のため、ブラジルを訪問したのだった。艦長は荘司義基大佐で、乗組将校中には、宇佐川知義、山梨勝之進(後の大将、当時少佐)、百武源吾(後の大将、当時大尉)などがいた。また便乗者には子爵関博直、男爵直川幸世、衆議院書記官津久井利行、鈴木力(号天眼)、志賀重昴、大庭景秋(号柯公、毎日新聞特派員)、下斗米(田中舘)秀三等の諸氏があった。
内田公使はその頃帰朝中であったが、軍艦「生駒」の訪伯の時だけ、一時帰任した。