人文研ライブラリー:近代移民の社会的性格(5)
アンドウ・ゼンパチ
terça-feira, 16 de junho de 2015

近代移民の社会的性格
『研究レポートI』(1966年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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5.アジア的出稼移民“華僑”

 中国からの近代移民流出数は約1000万人といわれる。このうち約500万人が中国北部から満州および蒙古へ移住し、その他の約500(または600万ともいう)が中国南部から南洋方面へ出た。本論文では、南洋へ出た特色のある“華僑”について述べることにする。
 中国では清代(16)には商業活動が盛んであったが政府の抑商政策によって商人に対する税が重く、また一方、農村における家内工業が強力に普遍していたために、蓄積された資本が産業資本へ発展せず、当然興るべきマニュフアクチュアの発達を阻げた。それは、商業資本は資本主義的発展の道をたどらずに、高利貸資本として、もっぱら農民へ働きかけるようになったのであるが、高利貸資本が効果的に活動するためには、農民の土地が自由に売買されなければならない。そこで、商業資本家は、官人(17)mandarinと結托して、農業改革を断行させ土地の自由売買を可能にさせたのである。
 かくして、商業高利貸資本の農村侵入が盛んになり、官人や有力地主と組んで、貧しい自作農の土地が次第に握られ、集中されて農民層の分解が始まった。
 しかし、官人や商人の手に集中された農地は、彼らによって資本主義的に経営されることなく、封建的な機構のまま、没落した貧農を小作にして、高い小作料を取りたてる寄生的な不在地主となった。

 (16) 清代 1644年、明朝が亡び、北京に清朝が都を定めてから19世紀の30~40年代ごろまでの約2世紀にわたる時代をいう。
 (17) 官人 中国清代の官吏のことであるが、ヨーロッパの近代的起源の“官僚”とは性質がちがう。17世紀に中国を訪れたポルトガル人は、敏感にも、これをmandarinという特殊な言葉でよんだ。ポルトガル語のmandarは命令する、支配するの意味で、支配者、命令者ということになるが、“官人”というのは、それを日本語にした訳語である。(平瀬己之吉、世界歴史事典、平凡社)


 このころから、中国における農民層の分解は次第に激しくなって、零細農と小作人、雇農の数が増大していった。しかも、増加する人口に対し、新しく開拓される耕地面積が少く、また、都市には離村する農民を吸収するマニュフアクチュアが未発達だったから、過剰人口となり、貧民や浮浪人となるものも多くなった。
 しかし、19世紀の中期ごろまでは、農村における綿糸、絹布を主軸とする家内工業は広範に、しかも根強く発達していた。そのため、都市におけるマニュフアクチュアの発展も阻止されたし、中国市場への侵入をねらったイギリスの綿製品の売れ行もはかばしくなかった。中国の農民は、このような家内工業の繁栄のおかげで、農民層の分解が始まっても、急激な転落をまぬがれていたのだったが、彼らを窮極の破綻に追いこんだものは、イギリスの帝国主義政策によって企まれたアヘン戦争(18)の結果に外ならない。この時結んだ南京条約と、この次の北京条約とは中国の近代化をもたらしたが、同時に、これを契機として中国をイギリス資本主義の半植民地とし、直接には中国農民のイギリス資本主義への隷従化を達成したといえる。

 (18) イギリスは鎖国政策をとる中国が18世紀の半から外国貿易のために許した唯一の広東港を通じて、毛織物、綿製品、インドの綿花を主として輸出し、中国からは茶と絹とを買いとっていたが、イギリスの重要な輸出品である綿製品の売れ行きが、中国農村の優秀で盛んな家内工業製品におされてのびず、そのため、片貿易となって中国物産の輸入が超過し、数十年にわたっておびただしい銀を支払わねばならなくなり、19世紀の初めには、年々4~5百万ドルの銀が中国へ流れこんでいた。イギリスがスペインから稼いだ銀が、茶と絹の買付けのために、中国へ転流してそのために茶、絹の価格を騰貴させた。
 そこで、この貿易差額を逆転させるために使った切り札がアヘンの輸出だった。この策戦は美事に適中して、たちまちにして、アヘンは中国を征服し、中国への主要な輸出品となるとともに、1831年から銀の流出を食いとめることができた。清政府は、しばしば、アヘンの輸入を禁じたが一向効果がなく、しびれをきらした政府は、1839年に広東港のイギリス商人からアヘンを没収して焼き払ってしまった。これがアヘン戦争の原因であるが、戦争は中国の敗北に終り1842年の南京条約で、広東、アモイ、福州、ニンポツ、上海の開港を承認させた。


 イギリスは南京条約で、中国の市場をイギリス製品で掌握する足場を築こうとしたのだったが、根強い中国農村の家内工業の鉄壁は容易に崩せず、アヘンの半ば公然の密輸で中国貿易を有利に稼いでいたのだった。そこで第2次アヘン戦争といわれるアロウ号事件で、強引に中国におしつけた天津条約(1859)と北京条約(1860)で揚子江岸の数港を含む11の開港場とアヘンの輸入を認めさせたが、この事件に便乗したフランスはパナマ運河の工事に必要な苦力貿易を認めさせた。このように、南京条約・天津条約・北京条約と一連の資本主義のはげしい攻勢によって、イギリス製品を始め、その他の先進資本主義国の近代的な機械製品が中国に滔々と流れこむようになった。
“実に中国農村が世界市場と接触するに至った過去百年間の不可避的傾向は、諸外国の経済的進攻に対する中国手工業の絶望的な生存闘争であった。その結果、中国手工業は痛ましくも没落しつつあり、世界資本主義の一般的体制中に併合されつつある。1890年から1930年までに、中国の輸入は25倍半に増加した。しかるに、それ以前の26年間の増加は2倍半を出なかったのである。綿布、綿糸、燈油、釘、針、換言すれば、かっては手工業の製産物により供給されたものに代る商品の輸入がたえずその量を増加しつつあることは、中国手工業の全般的な没落を明らかに明示している。” (“中国農村間題”杉本俊朗訳より)
 中国農村は、かくして、家内工業を次第に失っていった。農民は商品経済の農村侵入と必死に戦わねばならなくなり、そのために、各地で農民騒動が頻発した。そして“多数の農村生産機構から遊離した農民を基礎として大規模な農民戦争が惹起された。支那において最大の農民戦争であるところの大平天国革命(1850~64)はこうした条件の上に行なわれたものである。”(尾崎秀実、支那社会経済論、P.66)
 南京条約は、農村家内工業をつぶし、マヌフュクチュアの芽生えも、もぎとり、さらに近代工業の発展さえも、半植民地化によっておさえてしまった。それゆえ、過剰人口は激増するばかりだった。“農村住民の状態は、ちょうど首だけだして、いつまでも水中に立たされている人のようなもので、少しでも波が立てば溺れ死んでしまうより外ない。”(トーネー“支那農業と工業”、沼田政次、“南支の農業、農村”から転用)こういう原因から、南京―北京条約以来、農民層の分解は急激に進んでいった。南京条約締結のころの中国本土(外蒙、チベット、満州を除く)の人口の中8割以上が農民であったのだから、農民層分解によってプロレタリアに転落したものの数も莫大であった。“1934年の調べであるが、この時には、全体の4%にあたる地主が全国の半分の耕地を所有している。これに反して、全国戸数の70%を占める貧農および雇農がわずかに17%の土地を所有しているにすぎない。”そして南支は小作人が圧倒的に多い。1933年の広東州における土地所有比率では“地主は全戸数の2%であるにかかわらず、その所有耕地は53%、貧農および雇農は全戸数の74%で、その所有耕地はわずかに19%にすぎず、1戸当りの所有面積は平均7.8畝である。”(尾崎、前出)
 土地を失ったものは、小作、雇農、クーリーになって農村にとどまるか、都市へ流れて、力車引き、下男下女、運搬人夫、クーリー、浮浪人、乞食となった。また一部は軍閥軍隊の傭兵になった。こうして、都市は貧民によって過剰人口があふれるようになった。
 中国の社会がこんな状態であったとき、黒人奴隷を使ってプランテーションをやっていた新大陸の各地で、奴隷解放がつぎつぎに行われ、その補充として安い賃金の労働者が求められていた。また“19世紀後半期から、ヨーロッパやアメリカの先進国で始まった「技術革命」は多種多様の自然資源に対して新しい需要を大量によびおこした。コルク、鉄、錫、銅、亜鉛、ニッケル、金、白金、銀、水銀、砒素、石炭、ゴム、石油――これらのものはヨーロッパから少量しか出なかったか、全然なかった。
 ヨーロッパの企業は、それらを求めてアジア、中央アフリカ、マレー半島、そして大平洋諸島へ出かけた。そのため、1876年から植民地獲得の競争が猛然とおきた。
 そして、それらの地方で鉱山や石油を開発し、ゴム園を経営し、鉄道を敷設し、電信・電話線をひき、工場を建設する事業が行われた。” (世界の歴史、13巻、P.172、中央公論社)
 それらの地方でも安価な労働力が大量に必要だった。現地住民を使用できたところでは彼らを酷使したが、現地住民の数が少かったり、労働に適さなかったりしたところでは、外部から労働力を輸入しなければならなかった。浮浪者と失業状態の極貧者が充満していた中国に、企業家が目をつけたことは当然で、いわゆる“クーリー貿易”といういまわしい“人間の輸出”がこうして発生した。
 クーリー貿易はアフリカの黒人奴隷貿易に代るもので、1830年ごろから、かって、黒人貿易をやっていたポルトガル人が、中国人のボスを使って、浮浪人や極貧者を誘拐して、ひそかに禁を犯して、海外へ輸出していたもので、1874年まで、度々の禁令を無視して、中国法権の及ばない香港およびアモイ(ポルトガル領)を根拠地とし、ここにbarracoonとよばれる監獄式の収容所を設け、寄せ集めてきたものを船の出帆までここに拘禁していた。1船には、ふつう、300人ないし700人を積みこんだ。売価は1名400元ないし1000元、黒人奴隷と全く同じ取扱いであった。(根岸佶、華僑集記、P.27)
 クーリーの労力輸出は、そもそもはインドから初まった。イギリスの植民地となったインド人の悲惨な状態は中国以上であった。イギリスは、1834年黒人奴隷を解放した植民地のplantationを続行するため、インド人クーリーを往復の旅費と賃金を支給するという条件で、5年間の年期契約の労働者として使用した。これは、17~18世紀にアメリカ合衆国へ盛んに送ったindentured servant(年期奉公人)と同じものであった。
 大量のインド人クーリーはMauritius群島の砂糖農場へ送られた外、英領Guiana, Jamaica, Trindad, Natal, およびCeylonの茶園やMalayaのゴム農場へ送られた。ブラジルでも、砂糖農場やコーヒー農場の労力補充のために、度々、中国人クーリー輸入が企てられ数百名が試験的に入れられただけで、反対者によって、その実現が阻止された。
 中国人の“クーリー貿易”は、黒人奴隷貿易にひとしいものであったので、イギリスの干渉で、インド人クーリー同様の自由意思による契約労働移民ということに改められたが、それは全く形式的なもので、実質的には、ほとんど変らず、1874年まで度々の禁令やイギリスの干渉をくぐって続行され、最後の25年間だけでも約50万人が輸出された。
 クーリー貿易は、初めは海峡植民地開発のために起きたもので、輸出の中心地はペナンおよびシンガポールであった。契約労働移民ということになってからの主要な就働地はキューバとペルーであった。
 ペルーには、1850年から1874年までに約10万人ぐらい入国しているが、“歴史家Mariano del Rioの推定によれば1860年から1870年に至る10年間に40.301名の苦力がシナ大陸からペルーへ向ったが、このうち上陸したのは38.648名であった。即ち、きわめて輸送条件が悪かったために航海中の死亡率が高かったということを示している。同じくdel Rioによれば、1826年には1.716名の苦力がペルーに向うべく乗船したが航海中死亡したものは713名に及んだ。“今世紀のはじめ頃ペルー海岸のhaciendaで作業に従事していた苦力の生活条件を観察した人の談話によると、労働条件はまさしくドレイのそれと変らないということであった。例えば、haciendaにおける苦力は5人を1組として相互に鎖でつながれ、その幾組かについて1人の監督がおかれている。契約期間中に苦力が農場から他の農場へ転売されることもごく普通のことであった。”(斉藤広志、ペルー在住日系人の人口と家族、“ラテン・アメリカ研究”第2号)
 クーリーに落ちぶれない自作農でも、小作農でも大部分の耕地が零細な上に、過重な税金と高い小作料のために、自分の土地を耕すだけでは、“飢餓にたえる術”をもってしても生計がたたない。それで家族のもののだれかが食ぶちをへらすために、雇人やクーリーとなって稼がねばならない。中には幼い女の子を家庭奴婢として売ることさえ、20世紀になってからもふつうに行われていた。
 南京条約および各国と結ばれた通商条約で海外への渡航が自由になると、貧農の最も多い福建・広東両省から、マレー半島を始め、蘭領のジャワとボルネオ、ビルマ、インドシナなどの東南アジアや南洋諸島へ出稼するものが激増した。彼らは、クーリー貿易で売られていくものではなく、自発的に、アモイやスワトウや香港で南洋との取引をやっている同郷の商人をたよって、それの周旋で、南洋各地へ出向く帆船に乗って行く。大きな帆船は2百人くらい乗れたが、20~30人ぐらいしか乗れない小さなものあった。シャムへ行くのにはスワトウを出帆して1ヵ月ぐらいかかったが、たいがいのものが、瀬戸物の水入一つ、着更一着、笠と蓆を一つづつという実にみすぼらしい旅支度であった。そして、船賃が払えないものは周施人から借金して行ったし、出稼地から郷里への送金も、この同郷の商人に依頼した。
 クーリー貿易で出たものもそうだったが、南洋へ出稼に行く者も、ほとんどが20才から30才までの未婚者か、妻子のあるものでも、みんな単身で出かけた。中には、出稼に行く前に、わざわざ結婚して、新妻を残して行くのもある。これは、中国人の家族制度的観念から、留守中の家を守り、祖先の祭を行わせるためである。こうして、海外へ出稼に出ている中国人を、彼らは“華僑”とよんでいるが、これは海外に僑(仮住い)している中華人ということである。そして、彼らがもっとも活躍しているのが東南アジア・南洋方面で、19世紀末に南洋方面にいた華僑の数は600万に達したという。しかも、これらの大部分が福建、広東の出身である。
 南洋華僑は大部分が商業面で活躍しており中には莫大な資本を動かしているものも多いが、初めは、安物雑貨の行商、ささやかな小売商などをやって着々と貯蓄して行ったのだ。前掲の根本氏の“華僑集記”によると“南洋に出かけた未婚の華僑はもちろんのこと、郷里に妻を残してきた既婚華僑でも、少し暮しがよくなると、土着人の女を妾として娶るものがかなりある。そして、何年かの後、貯蓄をたずさえて故郷に帰り、家を新築したり、祖先の墓を祭ったりして、また出て行くのだが、そんな場合、未婚の者は出稼地に妾として“現地妻”のある者でも、郷里で正式に結婚して、また単身で出て行くのが多いが、このように郷里に正妻、出稼先に現地妻をもって、家が二つあるものを“両頭の家”といっている。
 最後に華僑発生の社会的な原因を尾崎秀実氏の“支那社会経済論”の一節を借用して要約することにしよう。
“華僑の国外流出はこの時代(19世紀中期)において特に社会経済破壊の事情を反映して急激に多くなってきたのである。華僑は海外への移住者であるが、国内移民であるところの満州への移民も、やはりこうした条件の下に急激に19世紀初頭以来増えてきたのである。資本主義商品の侵入は直接生産者と生産手段・生活資料との分離を決定的なものにし、そしてこの進行に応じて生産部面から遊離したところの労働力が、国内市場においては充分に吸収されないので海外へ溢れ出るという形をとったのである。”
 以上述べたことで、主要な出移民国から移民が出る社会経済的原因についての輪郭は、かなり判然したことと思う。日本移民の場合も、移民が出る原因は、根本的には全く同じで、やはり、世界史に連なる資本主義の発展による歴史的、時代的な社会現象である。
 しかし、日本の場合は、第2次大戦前までの半世紀にわたって、海外へ移住したものは僅か60万にすぎない。日本からはなぜこのように移民の流出が少かったかということがむしろ問題になる。
 そして、日本移民もイタリア移民や中国の華僑同様に出稼型であるのだが、日本における資本主義の特殊な発展の仕方が、どのように農村に影響し、どのように農民層を分解させたかを見ることにしよう。

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