日本移民の社会史的研究
『研究レポートII』(1967年)収録
アンドウ・ゼンパチ
<< 第四回へ
7.出稼目的の日本移民
日本移民がブラジルへ来始めた時期は、日本においては、日露戦争が終って間もない時であった。この当時の日本の社会状態については、第1篇、第6章“日本移民とその社会的背景”の中で詳述してあるように、戦勝国日本の産業革命が確立し、資本主義経済がいちおう発展したが、その反面、農村は国策による商工業振興の犠牲となって疲弊し始めた時期であった。そして、農村には潜在的過剰人口が充満したのに、工業の対外発展が予期のごとく順調に進まなかったため、農村から都市へ吸収される労力も減少する一方、海外への出稼地として、もっとも多数の移民が渡航していたハワイが、1907年に、呼寄以外の移民の入国を禁じたことは、農村過剰人口の海外への出口を、ほとんど塞いでしまっていた。
ハワイその他に出稼移民が流出し始めてから、日本各地に設立された移民会社や個人的な商社の数は、51社もあったが、(19)これらの中には、数十名の移民を1回輸送しただけで消えてしまった泡沫のようなものもいくつかあった。また、充分な資金や基礎の浅い会社は、ハワイ行契約移民の断絶(20)で破産するものが続々と出、辛じて存続しえたものは、僅か数社にすぎなかった。これら残存した移民会社は、契約移民の新しい開拓に血眼になって売り込み先を求めて奔走していた。
(註19)浜野秀雄、日本移民概史、1937年(昭和12年)
(註20)契約移民は禁止されたが、自費で契約なしに渡航する自由移民は、1907年の日米紳士協約で制限されるまでの7年間に、87.122名の渡航者があり、1年に1万人を越えていた。
19世紀の末期から世界的な契約移民の誘入国になったブラジルは、当然、以前から、日本の移民会社も着目していたが、1895年に日伯通商条約が結ばれるまでは、日本政府が無条約国への出稼を許さなかったため、移民会社は手をこまねいて傍観していたのだった。それゆえ、条約が結ばれると、すぐ1897年に、ある移民会社が2.000名の移民を輸送する契約の取りきめに成功した。
このときの移民の資格は、20才以上、35才までの農民ということで、家族移民ではなかった。移民会社が応募者と取り交した契約を見ると、これは完全な単独出稼移民で、ハワイ行の場合とあまりちがっていない。その主要なものをあげると、
1. 契約年限は5ケ年とする
1. 賃金は1ケ月30シリング(当時約15円)その2分の1はブラジルで渡し、残額は日本で渡す。ただし、日本渡しの内半額は、移民会社で預り、移民が帰国したとき利子をつけて渡す。残り半分は月々移民の家族に送る。
1. 労働時間は10時間とする。
1. 衣食住は雇主が給与する。
1. 往復の船賃は無料。
そして、応募者は手数料18円、保証金40円を移民会社へ払わねばならなかった。これで見るように、このときはまだ、政府の補助によって入国するコーヒー農場労働移民は、3人以上の労働力ある家族を単位とすることは、原則として確立されていなかった。
ところが、前年に始まったコーヒー恐慌は、ますます悪化して、恢復の見通しもつかなくなった。そのため、移民船出帆の直前に、移民引受の契約が破棄されて、日本の移民会社は莫大な損害をこうむった。
しかし、この出帆が中止になったことは、移民にとっては結局幸運であったといっていい。この単独移民が、恐慌のますます悪化しつつあったSão Pauloへ到着したとしたら、彼らがたちまち遭遇したであろう苦難は想像に余るものがあったにちがいない。
コーヒー恐慌が、その後、年とともに深刻化し、イタリア移民の大半が農場を去って、あるいは帰国し、あるいはアルゼンチンへ再渡航し、また多くのものがSão Paulo市に集って貧民区をつくったことは、前に書いた通りであるが、そのため、州政府はコローノを補充するため、5万人の補助移民を新たに誘入するため巨額の予算を計上した。そして、1901年ブラジルの移民業者が日本移民勧誘にやってきたが、この時の契約条項には、“一家族中、少くとも3人の労働力あるもの”という規定があった。しかし、日本政府は、コーヒー恐慌によるイタリア人コローノの惨状を知って、ブラジル行移民の出国を許可せず、契約は成立しなかった。
イタリア政府がコローノ移民の出国を禁止したのは、その翌年であったので、サンパウロ州はもっとも多く流入していたイタリア人コローノに代るものを、外から誘入する必要にますますせまられていたとき、1905年、日本から新たにブラジルに赴任した杉村公使は、São Paulo州を視察して、コーヒー地帯の中心都市、リベイロン・プレート、Ribeirão Prêtoまで赴いているが、時あたかも、バルチック艦隊を日本海で全滅させた直後であったため、アジアの小国、日本に対する驚嘆の気持が、杉村公使の歓迎を熱狂的にさせ、“旅行中通過するいずれの停車場においても、多数の群衆は皆、本官らの来着を待ちうけて歓迎し、日本万才を叫ばないところはなかった。”とくに、コーヒー農場主の町、リベイロン・プレート市では、駅からホテルまでの沿道に小学生や女学生が整列して、“ヴイ―ヴア”(万才)を叫びつづけ、女学生の代表から菊の花束を贈られた。そして、ホテルに到着すると、楽隊が“君が代”を奏して迎え、盛大な歓迎の宴が催されたが、その間、門外では多数の群衆が“日本万才”を連叫した。“誠に意想外であった”と熱烈な歓迎と強大国ロシアを打倒した日本に対して、ブラジル人が示した敬慕の念とに感激したと書いている。
杉村公使は、この感激の気持で、サンパウロ州がどんなに移民を必要としているか、また移民をどんなに優遇しているか、そして、コーヒー農場での契約終了後は植民として独立できる道も開いてあるということ、また、イタリア移民が禁止されて労働力が不足し、日本移民を歓迎する気持のあるときに、日本移民は排斥される米国へ行くよりも、このサンパウロへ来るべきだ、それに、気候は温和で、まさに天が与えた“楽郷福土”である。それゆえ、移民ばかりでなく、企業家にとっても、極めて有望な土地であるということなど、詳細に日本政府へ報告したのだった。
この報告書は、日本における二大新聞の一つで、全国的に読者をもつ大阪朝日新聞に発表されて、新しい理想的な移住地としてのブラジルの存在が大きく写し出された。
日露戦争に大勝利をえた日本人の中には、日本が、一躍強国になった誇りを感じるとともに、戦勝国民としての満ちあふれる興奮とエネルギーを小さな島の中でもてあまし、それを海外での活動で発散させることに民族的な使命を感じるものがあった。これが、そのころ、いわゆる“海外発展”とか“海外雄飛”とかいう標語となって、野心的な事業家や多感な青年を奮起させたが、北米を始め各地では日本人に対して門戸が閉められていたので、どこかに新しい活動の天地を求めていたとき発表された杉村公使のブラジル礼讃の一文は、この海外発展論者を歓喜させた。そして、まっさきに、São paulo市に乗りこんで、日本の特殊品の店、“O Japão em São Paulo”を開いた商人がいた。また、日本人の植民地建設の大抱負をもって、司法官の栄職をなげうち、家族をひきつれてサンパウロへ来たものもあったし、当時としてはかなり大きな資本をたずさえて、リオ州で農場や塩田の経営に着手した事業家もあった。
ブラジルへ日本移民輸送の道を開いた水野龍(Ryô Mizuno)も、日本帝国の繁栄は、日本民族を世界の到る所に繁殖させることによって達せられるという熱烈な信念をもった海外発展論者であったが、杉村報告を見て、ブラジルこそ日本民族の移住すべき理想の天地であるとして、それを実現するために皇国殖民会社を創立して、ブラジルを訪れること二回、ついに1907年末にSão Paulo州政府と、移民3.000人を毎年1.000人ずつ輸送する許可をえることに成功した。
このとき結んだ契約の条件は、補助移民は原則として農業労働に適する12才以上45才までの男女3人ないし10人ある家族を単位とする家族移民ということであった。単独移民としては、石工、大工、鍛冶工などの職人に限って移民全数の5分の1までを許された。そして、日本からサントス港までの船賃は、ヨーロッパ移民と同様の条件で、12才以上10ポンド、7才以上5ポンド、3才以上2ポンド10シリング支給されることになった。
ただし、この金額のうち、12才以上のものに対し4ポンド、7才以上に2ポンド、3才以上に1ポンドは雇主が負担するもので、雇主はこの負担額を移民に渡す給料から差引くことになっている。それゆえ、実質的に補助される額は年令順に6ポンド、3ポンド、1ポンド10シリングだけで、移民は船賃の不足分を自弁する外、農場主からうける補助は前借金となった。ちなみに、日本からサントス港までの船賃は、大人160円(16ポンド)であった。
これまでハワイその他へ出た日本移民は、ほとんどが未婚の若者であった。また、妻子をおいて単身出かけたものもかなりあった典型的な出稼移民で、2~3年間の契約を終えたら、その間に蓄えた金を握って帰ることだけが目的であった。そして、その目的を実行するために都合のいいものが移民になったのだった。
ところが、サンパウロ政府が要求する、夫婦者を主体とする3人以上の労働力ある家族を単位とするという条件は、第1篇、第6章“日本移民とその社会的背景”で詳述したように、当時の日本の農村にとっては非常に都合の悪い条件であった。(21)
(註21)日本の農民層の分解は永年にわたって不徹底にじわじわと進行したため、農民の離村は家族もろともに農村を去る数が少く、次三男や娘たちの出稼という形で、もっぱら行われた。
それゆえ、この条件を要求された移民会社は、移民の募集ができるかどうか不安で、杉山公使を通じて、コローノ移民を家族ものに限定すると希望者は少いと思うから、単独者でも補助ができるようにしてほしいとサンパウロ州政府へ申入れたが拒絶された。かくして、日本移民始まって以来の家族移民が募集されることになったのである。
移民会社は必死になって悪条件のもとでブラジル行移民の募集をやったが、予想どおり一家族3人以上の稼働力ある志望者はぜんぜんなかった。そこで、窮余の一策として案出されたのが「構成家族」というもので、日本の戸籍法の盲点をついて作成した戸籍面だけの形式的な家族であった。
移民応募者の大部分が未婚者または若い夫婦であった。そこで未婚者には急いで結婚させ、さらに12才以上の働き手をひとり夫婦だけの家族に加えるために、夫妻いずれかの兄弟姉妹か、おい、めい、いとこなどで、規定にあう家族を構成させた。また、このような続柄の者で家族を作ることのできない場合には、コーヒー農場での契約期が終ったら、除籍するという約束で形式的な養子縁組をしたものも少くなかった。また、若い兄弟それぞれの夫婦4人で一家族を構成したものもあった。
このような苦心をしてやった千人の募集に適格者は779名しかえられなかった。この中に、夫婦の年令が18才ないし20才というのが全体の5分の1もあった。これらはほとんど移民となるために出発前に急いで結婚したものであった。そして、21才から30才までの若い夫婦者が165家族中、92家族で圧倒的に多かった。その他の者も、12才以上の子供のある夫婦はたった1家族だけであった。それゆえ、第1回移民は全部が“構成家族”であったといってもよかった。
形式的な家族の構成は、その後の移民の間にも、もっともふつうに行われたが、甚だしいのは、結婚さえも偽装的になされたことであった。それは、以上のような種々の方法でも、労働力3人ある家族を構成することができないふた組の応募者の間で、もし、両者のうちだれかが、互に結婚すれば規定の家族ができるという場合に、結婚する意志なしに、ただ便宜上、書類上だけの夫婦になるという全く偽装的なものである。このような形式的な結婚による家族構成は、主として、応募資格の欠けた希望者同志を移民会社の代理人が世話して作ったものであった。この形式的あるいは偽装的な家族を“構成家族”とよんだ。(22)
(註22)構成家族の研究については、斉藤広志“邦人移住者家族の「形式構成」と稼労力”国民経済雑誌(神戸大学出版)100巻、5号に詳しい。
このような不自然な家族を構成しなければ出稼移民となれないという悪条件の上に、São Paulo州政府および農場主から支給される船賃の補助は、ヨーロッパ移民に与えられる額と同じで12才以上のものには10ポンド(100円に当る。ただし2回目から当分8ポンドであった)であったが、日本からの船賃は160円であったから、12才以上3人だけの家族でも、その差額の180円は自弁で、その上に移民会社への手数料その他の雑費など、少くとも一家族500円を必要とした。当時、500円といえばハワイ行の単独移民が、極度の節約と粗食とで砂糖農場での3年契約労働をつとめたものがもち帰る金額であった。
これだけの大金を用意しなければならないということは、当時、日露戦争(1904~1905)後に甚だしい不景気に見舞われた農村では容易なことではなかった。日本の農業は明治維新以後、資本主義経済の発展の影響、すなわち、鉄道の発達や都市人口の増加による農産物とくに米の需要の増加によって、農産物価は次第に騰貴して、ついに外国からの輸入品と競争するところまできたが、日露戦争後には、外国農産物の圧迫を感じ始め、農産物の輸入に保護関係を必要とするほどになった。
しかしながら、一方、工業の発達はようやく帝国主義の段階に進み、対外輸出を目ざして先進国と競争するようになったが、そのためには、極力生産費を下げて、安価な製品によって市場を獲得しなければならなかった。したがって、労働者をできるだけ低賃金で働かせねばならないが、主食である米の値段が騰貴することは、工業資本家にとって、決して好ましいことではなく、彼らは、極力農産物の輸入に対する保護関税に反対した。
このような事情から、日本農村は日露戦争後、商工立国策の犠牲となって疲弊し始め、農民は不況にあえぎつづけた。このころの農民の困窮した有様については、第1篇“日本移民とその社会的影響”の中に詳述したとおりで、このような農村から多額の旅費を自弁して、コーヒー農場のコローノ移民に応募できるものは少かった。したがって、これに応募したものは、借金を背負ってその日の生活に困るような貧困な農家のものではなかった。第1回移民は105家族のものが“神戸出発に際し、合計7.675円の現金を移民会社に託した”(23)ほどである。この移民がSantos港に着いたとき、初めての日本移民に特別な関心をもってそれを報道したCorreio Paulistano紙は、移民の服装がきちんとしていること、清潔なことなど賞讃的な記事を掲げ、“携帯品が多いのはヨーロッパ移民の如く全くの貧困者でない証拠である”と書いている。
(註23)ブラジルに於ける日本人発展史、上巻。
日本人コローノ移民は、ブラジル側からの旅費補助金の支給が中止された1923年までに約3万人入国したが、これらは、以上述べたような条件に応じてコローノ移民となったもので、旅費の補助があったとはいっても、1家族で少くとも500円は自弁しなければならなかったのだから、この点は、同じ出稼移民といっても、全くの無一文で出かけたものの多かったハワイ行のものとはちがっていた。また、1924年以後、日本政府から旅費全額補助が出るようになってからの移民とも質的に異っていた。それゆえ、1908年から1923年までの16年間に入国したものを1期移民とよび、1924年から第二次大戦が始まって移民の入国が中絶した1941年までの入国者を2期移民として区別することにする。
第1期移民は、ほとんどが、農場で数年間働いて1万円ないし2万円蓄えて帰るという目標をたてていた。これだけ持って帰れば、郷里の農村で土地を買い家を建てて、なお、残金の利子で暮らしていけるという計算であった。だから、Brasilへ来るとき、旅費の不足に当てるため、高利貸から500円ぐらいの金を借りてきたものはいくらもあったが、この程度の金額は農場で働けばすぐ返えせると思っていたのだ。
しかし、農場のメザーダ制による賃金では、前に述べたように、最初の1年間に貯蓄することは非常に困難で、コーヒー果実の採取賃は豊作でない限り、家計の赤字を補うことはできなかった。殊に第1回移民が到着した年は、2年前の1906年における未曽有の大豊作の後で、どの農場でもコーヒー樹が弱っていて結実がきわめて悪かった。コーヒー樹の結実は、ふだんでも、よくできた年の次の年は量が少く一定していない。それゆえ、不作の年の採取賃はうんと減少するのだが、最初の日本移民は不幸にして、ひどい不作の年にやって来たので、一家族3人で採取しても、1日の所得は、農場の日傭労働者1名の日給にもならないことがあった。(24)
(註24)1俵50リットルの採取賃が500レースであった。豊作の年には、ひとりで1日4俵ぐらいとれる。第1回日本移民が働いた農場では、1家族3人で1俵半ないし2俵ぐらいしかなかった。日傭労働者の日給は2.000レースないし2.500レースであった。
日本移民はSão Paulo州の代表的な6大農場に就働したのだが、コローノに対する取扱い方は、すべてのヨーロッパ移民と同様に農奴に対するのと変りがなく、日露戦争の勝利で国民的な誇りが強かっただけに、移民たちは甚だしい屈辱と不満を感じるとともに、コーヒー農場のコローノ労働では、とうてい出稼の目的は達せられないという失望から、どの農場でも待遇や賃金の問題で紛争や悶着を起し、契約期間の終らないうちに農場を退去するもの、あるいは、農場からの借金を残したまま夜間ひそかに脱出するもの、また、争議の主謀者として農場主から退去させられるものが続出した。
しかし、農場の争議や逃亡は、日本移民だけがやったのではなかった。“毎年、収穫期になると、結実の悪い農場では、採取賃値上げ問題がおこり、コローノは、しばしば採取を怠けたり、時には罷業を行うことも珍しくなかった。”(25)
(註25)Augusto Ramos, O Café no Brasil e no Estrangeiro, pag. 210. イタリア移民の賃金値上運動、Arquivo Municipal, No. 75, pag. 128.
イタリア政府が、1902年にコローノ移民の出国を禁止したことは前に述べたが、それは、恐慌によってコローノの生活が悲惨な状態に陥ったことが直接の動機ではあったが、イタリアの会議で問題にされたのは、コーヒー農場における人権を無視した横暴な取扱い方であった。São Paulo駐在のイタリア領事は、イタリア移民が農場主に対する不平や苦情をひんぱんに訴えてくるのに悩まされていたのだ。(26)
(註26)Caio Prado Junior, História Econômica do Brasil, pag. 224.
農場を退去した日本移民は総数の3分の2以上にあたる五百数十名に及んだが、一部は、収入条件のいい他の農場へ移転した外、大部分はSão PauloおよびRio de Janeiroの都市に出て、家庭奉公、大工、その他の職人、工場労働者、Santos港ドックの荷役労働者になったり、あるいは建設中のSão Paulo―Paraná線やNoroeste線の敷設工事に従事したり、さらに隣国アルゼンチンへ再移住したものも多かった。
第1回移民の農場退去者の行先は次の通りである。
他農場への移転者 | 40名 |
サンパウロ市へ出た者 | 102名 |
サントス港で働いた者 | 110名 |
アルゼンチンへの転住者 | 160名 |
その他 | 数十名 |
農場における契約期間を終えずに出してしまった者は、何はともあれ、速急に金を儲けて渡航費の借金を返したり、親元へ送金するために、少しでも賃金の多い労働や儲けになる仕事を求めて転々として歩きまわった。その当時、もっとも日給の高かったのは、サンパウロ市では、各種の熟練職工の5.000レースであったが、この仕事にありつけたものは、最初から職人移民としてサンパウロ市で働いた数名の大工たちで、その中には1年あまりで邦貨900円を送金したものがあった。
未熟練労働で、5.000レースの最高日給がえられたのは、サントス港の荷役や鉄道敷設の重労働だけだったが、これに従事したのは、元気のいい独身者が多かった。そして、沖縄人が目立って多かった。沖縄県は日本国でもっとも産業が貧弱で、しかも狭い島の中に貧農が充満した、絶対的に人口が過剰であった。それゆえ、出稼移民のいちばん盛んな県で、ハワイでもペルーでも、彼らの数はおびただしいが、ブラジルでも第1期には沖縄県人が筆頭であった。第1回移民に応募した数も彼らが最大で、総数779人中、ほとんど半数に近い324人という数を占めていた。
しかも、彼らの大部分が渡航費や仕度金を地主や金貸から年2割以上の利息で借りて来ていた。この利子を送金するだけでも容易なことではなかった。だから、彼らは農場もちゅうちょせず、どしどし退去したが、少しでも賃金の多くとれる仕事なら、どんなに苦しい重労働でもとびついていったし、金を貯えるためには、それこそ衣食住を切りつめられるだけ切りつめて、がむしゃらに働いた。サントス港で働いていたものが、そこを起点とするジュキア鉄道工事にも従事したが、後にこの沿線が沖縄県人の集団地となり、また、マット・グロッソ州の鉄道工夫となった沖縄県人が、その沿線のカンポ・グランデ市、その他に定住するようになったのも、こうような事情からであった。
アルゼンチンへ転出したものは、イタリア移民がいちばん多かった。この当時のアルゼンチンは、資本主義的に経営されている大農場の小麦の収穫期には大量の出稼移民が隊を組んで、イタリア本国から出かけたほどで、出稼地として世界的に有名になっていた。工業の発展もブラジルよりははるかに進んでおり、“ブラジルの4分の1の人口で、1人当りの工業および農業の生産量はブラジルのそれの2倍であった。”(27)そして、もともと奴隷を使わなかったために、労働賃金も高く出稼移民にとって、アメリカ合衆国につぐ土地であった。それゆえ、イタリア本国から、直接アルゼンチンへ渡る旅費のないものは、ひとまず、補助移民となって、ただでブラジルへ渡り、コローノの契約期間を終えてから、さらに、彼地へ転住するものが多かった。ブラジルからアルゼンチンへは、わずかに2万5.000レイスであったから、ここからは容易に渡航することができた。だから、儲けを急ぐ日本人は、イタリア人にならって、初期の数年間はかなりの数がアルゼンチンへ出かけた。
(註27)Leoncio Basbaum, História Sincera da República de 1889 a 1930, pag. 157
1913年(大正2年)に、12才で、いわゆる構成家族の一員となってブラジルへ渡り、3年後にアルゼンチンに移住して、今では、成功者として産をなしている広島県出身のM氏夫妻が、数年前、日本観光旅行の帰途、ブラジルに立ちよった時、筆者が直接に聞いた話は、当時のコローノ移民の典型的なものと思うので、それを要約して示すことにする。
“わたしの家は貧しい農家だったので、村からハワイやアメリカへ行った人が5百円、千円と、ときどき送金してくる話をきいて、とてもうらやましく思っていた。そんなとき、村のある若い人が、ブラジル行コローノ移民に応募するために、労働者3人の家族を構成することになった。それで、嫁をとることにし、わたしに養子になって行かないかとすすめた。わたしは、大よろこびでそれを承諾した。その時、12才であった。そこで、さっそく、養父母の結婚式と養子縁組の親子の酒盃(さかずき)を同時に行って出発した。
そのとき、もらった餞別が、少いのが2銭、5銭、おじさんが奮発して50銭くれた。それの合計が1円80銭あったのが、それをそっくり、貧しい両親におきみやげにしてきた。ずっと後で知ったのだが、わたしの妻も、やはり養女として構成家族できたのだが、もらった餞別は、同じように父母におきみやげにして来たそうだ。だから、航海中、一文もこずかいがなかったが5千円ためたら帰るんだと、そのことばかり考えて歯をくいしばってがまんした。農場はグワタパラという大農場だったが、着いた夜は、採取したコーヒーを入れる麻袋を1人あて1つ与えられ、それを板の間にしいてねた。
その農場で、契約期間以上、2年8ケ月も働いたが、予期したほど金が残らず、その上、養母がマラリヤで死亡した。養父はブラジルでは金が儲からないからと、家族の人と共にアルゼンチンへ行くことにした。
ところが、養父は死んだ養母の骨をぜがひでも持っていくという。まだ死んでから3ケ月ほどだったから、その同航者の家長の人と、夜中に墓地を掘り、首を切ってそれをこっそり火葬にし、それを持って、1916年にアルゼンチンへ渡った。その時、私は15才だった。20才になった時、その同行者の養女と結婚した。”
農場における生産関係が、農奴制の尾を引いたコローノ制によって維持されることができた大きな原因は、都市における工業の資本主義的な発達が非常におくれていたため、都市が農村から労力を吸収する必要がなかったことにある。しかも、コーヒー恐慌中に農場を去った数十万のコローノ移民(主としてイタリア人)の中、帰国できない貧しい者が、São Paulo市に集って貧民区を形成し、きわめて安価な労働力の供給源となったことは、いっそう農場におけるコローノ制を維持するために好都合であった。
São Pauloの工業は、1901年からRio de Janeiroを追いぬいて第1位に上ったが工業労働者の数は、1907年の調査で24.606にすぎず、労働条件は特殊の技術あるもの以外は劣悪であった。1903年に、印刷工、帽子職工、靴職工、紡績職工らが、賃金値上と労働時間の短縮を要求して、São Pauloで最初の同盟罷業を行ったが、“その当時の賃金は、紡績工(大人)、月給7千~1万レース、子供の日給は300~500レース、見習工の日給1千レース、半職工の日給が2.000~3.000レース、石工、大工、ペンキ職人が日給5.000~7.000レース、雑役人が日給2.000~3.000レース、機械工の日給が6.000~10.000レース、見習工500~1.000レース、半職工3.000~4.000レースであった。そして、この状態は、1917年においても、多少の差はあったが、だいたい同じだった。”そして“労働時間は、紡績工場が午前6時から午後6時まで、商店は午前7時から夜の10時まで、仕事場は朝7時から夕方5時まで、料亭給仕人は12時間半であった。”(28)
(註28)Everardo Dias, Lutas Operárias no Estado de São Paulo, Revista Brasiliense, No. 1, pag. 69.
それゆえ、農場を出て州第1の、そして唯一の商工業都市São Paulo市へでても、技術職人以外は満足出来る働き口は殆どなかった。1910年当時の人口は35万そこそこであったがこの大半は、コーヒー恐慌時に農場から逃れ出た貧しい移民たちで、商工業の発展によって次第にふくれた人口ではなかった。
それゆえ、彼らが強力な産業予備軍となって未熟練工の賃金を低下させることになった。1903年に行われた同盟罷業は殆んど惨敗に終っているが、その原因の一つは、失業している労力が過剰であったことである。そして、農村人口の大半を占めていた農場のコローノは購買力が弱かった。彼らは、出稼目的の者が多かったから、金を貯えるためにできるだけ節約した。それゆえ、国内市場はまだきわめて狭く、しかも、庶民の日常必需品で、輸入品が占めるものが多かったので、RioおよびSão Pauloの工業も、第一次世界大戦で輸入が激減するまでは、その発展をおさえられた形であった。São Pauloの工業が活気をおびて発展期にはいったのは、1915年からであった。
こういうわけで、日本移民がSão Pauloでありついた仕事は、大工の半職人と家庭奉公が最も多く、工場労働者になったものは、わずか数名にすぎなかった。しかも、多くの場合、夫、妻、構成家族員それぞれ別々に仕事を見つけての共稼であった。中には、煉瓦焼場で働いたものもあったが、日給は2.000レース、農場の日傭労働の日給と同じだった。
この程度の収入では、木賃宿にとまる最低の生活がやっとで、昼食はパン半キロ(200レース)と、バナナ半ダース(50レース)ですますものが多かった。女中奉公は月給15.000レースがふつうだった。結局、農場でも、都会でも、出稼目的にそうような賃金がえられなかったことがアルゼンチンへの転住者を多くしたのであった。