植民者の妻たち(2)
segunda-feira, 14 de janeiro de 2008

1)アナ・ピメンテル(下)
 アナ・ピメンテルは積極的に農場経営をしています。小麦を導入したのも、日本人とは切っても切り離せない稲の栽培を試みたのも、彼女です。そして、特筆されてもいるのが柑橘類の導入。壊血病予防のためにみかんの苗をブラジルに持ち込んだことが高く評価されています。

 アナは聡明な女性だったには違いないのですが、ただ、壊血病に関しては怪我の功名のような気がします。壊血病の何たるかも知られていないこの時代、先見の明があったなんていわれたら、お墓の中で苦笑するのではないでしょうか。ブラジル発見以前からあった果物はバナナやゴイヤバやカジュでした。いずれも甘ったるいものばかりで、たまたまアナ・ピメンテルはみかん類が好きだったので、ブラジルにもみかんを植えようと考えた、のほうが説得力があります。のちになって、それが壊血病に効果があることがわかったというほうが実践的ではありませんか。

 不思議なことに、アナには生年も没年も記録がありません。ブラジル開拓期は男が主役の時代。しかも夫は輝かしいマルチン・アフォンソ・デ・ソウザ。彼女は縁の下の力持ちでした。6人いる子どもの誰かがブラジルにきたということもなく、視線は父親のように常にインドに向けられていたようです。

 21世紀になって、また世界中の注目をあびているインド。猫も杓子もインドになびいています。世界の僻地とみなされるブラジルだってインドに色気満々。この時代に戻ったかの感があります。栄枯盛衰というサイクル。時は巡り舞台は替わります。

 アナに関しては、うがった見方をすると、彼女はポルトガル本国から一歩も出ていない。ドナタリアの委任状をもらい、本国から指令を出していた、というのが正しいようです。そうでなければ入国査証や出国記録があるわけですから。インターネットで検索すると、アナは「みかんを植えた・・」のではなく、「植えさせた・・」のだと記されてもいますし。

 10年余にわたる農場経営は、指令を出しただけにしては順調に行きます。この経営手腕を例のフレイレが褒め称えて、アナの名がようやく世に知られたのが1986年。ペルナンブッコ文学院創立の席上で、華々しく紹介されました。

 サトウキビ栽培に関しては、アフォンソがブラジル初の砂糖製造工場を建て操業していたのですが、インドに行きに当たってドイツ人に売ってしまいました。間もなく砂糖ブームが到来、このドイツ人グレゴリーは大富豪になったというエピソードがあります。アフォンソ当人はお金に縁がなかったようです。(つづく)

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros