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人文研ライブラリー:日本移民の社会史的研究(1)(2)(3)

前回までの『近代移民の社会的性格』に引き続き、アンドウ氏の『日本移民の社会史的研究』を掲載いたします。なお、表記は原則そのままとし、当時の著者の考えを再掲したものであるという点、ご了承ください。

日本移民の社会史的研究
『研究レポートII』(1967年)収録
アンドウ・ゼンパチ

1.序説

 日本移民が1908年に初めてBrasilの土を踏んでから、50周年を迎えた1958年6月までに入国した数は199.761、その子孫を含めた日系人社会の総人口は430.135に達している。(1)そして、わずか半世紀の間に、特に農業面においてなしとげた発展は、社会的にも経済的にも目ざましいものがある。
(註1)日本移民ブラジル入国50周年記念事業として、日系人社会が行なった実態調査による。ブラジル日系人実態調査委員会編集“ブラジルの日本移民”
なお、同調査委員会による1968年の日系人口推定数は584.000であるが、その説明をみると、調査時点(1958年6月18日)より20年後の人口を、前項(同書41~42頁)で得られた人口動態率をもとにして次の仮定のもとに推計したものである。
(a)1958年における年令別生存率および15~49才女子の出産率は変らない。
(b)日本移民の流入は毎年3.000人で男女年令別構成は1958~62年のそれと同一である。
(c)さらに計算の都合上、移民は毎10年のはじめに一時に流入するものとする。
 こうしたかなり楽観的な仮定のもとに推計された1968年の総人口は上記のように584.000人なのである。巷間伝えられる60万説はあまりに誇張されたものだといえる。
 しかし、この原因を日本移民の大部分が農業者であったという表面的な理由だけで説明することは、社会史的見地からは決して正しくない。それには、社会的および経済的にもっと本質的な種々の原因を探求する必要がある。すなわち、日本移民社会の繁栄の原因は、日本移民がイタリアその他諸外国の移民とともに活動した基盤であるSão Paulo州との、さらに視野をひろげれば、Brasil国との社会経済的諸関連の中に求められねばならない。
 このような史観に立って、まず初めに、日本移民が流入し始めた時期を歴史的に見ると、Brasilが奴隷制に基く社会経済的諸関係から徐々に脱却して、近代社会へ移行しようとしていた過渡的な時代であったということが注目されねばならない。
 しかし、Brasilでは、単に奴隷を解放しただけでは資本主義に基く近代社会への転換は容易に行われなかった。それが行われるためには、さらに強力な産業資本の出現と、工業の発展に必要な技術と労働力の供給、および工業製品に対する盛んな購買力をもつ勤労階級の発生が必要であったのだが、これらの条件がSão Paulo州においては、奴隷解放後における大量のヨーロッパ移民の流入と、1896年から10年間にわたって狂暴に吹きまくったコーヒーの生産過剰による大恐慌が契機となってととのうようになった。
 この恐慌はブラジルの近代化の進行を停滞させていた障害の一部を崩し、とくにSão Paulo州において、近代化への道を大きく開くためにきわめて重要な役割を果したといえる。
 黒人奴隷は解放されて自由な庶民となったが、生れてからの生活環境上奴隷なるがゆえに身についた不具的な性格のために近代社会の勤労階級を形成する能力に欠けていた。それゆえ、“彼らは解放されると、農村をとびだして都会―主として、Rio de Janeiro市に集まったが、そこで仕事を求めようとはしなかった。労働は彼らにとって憎悪すべきものであったのだ。たいがいのものが浮浪化し、無頼の徒となり、泥棒や乞食になった”(2)それゆえ“解放された黒人が新しい社会の秩序の中にとけこむには時日を要した。”(3)
(註2)Leoncio Basbaum, História Sincera do Brasil, vol. II, pàg. 203
(3)Idem, pàg. 204.
 このような黒人の欠点を補って、奴隷制が崩れた後、資本制的社会への進展を可能にし、かつ促進する大きな役割を果したのが、勤労意識をもった移民であった。
 São Paulo州に誘入された移民は大部分がコーヒー農場、fazendaで半ば農奴にひとしい契約年期農民、いわゆるコローノ、colonoとして働いたが、彼らは農場で契約期間を終えても、自営農として独立することは、ひじょうに困難であった。なぜなら、自営農業を行うためには、小土地を所有することが絶対的な条件であるが、ブラジルでは土地所有の伝統的型態である大私有地、latifúndioが圧倒的に支配しており、自営農的小土地所有者の発生を不可能にしていた。それがSão Paulo州では、コーヒー恐慌を契機として、ようやく、シチアンテ、sitianteとよばれる自営の小土地所有者になれる条件が与えられるようになった。その結果、移民に初めて、経済的、社会的上昇の道が開けたのであるが、これが、移民の勤労意欲をますます盛んにしたことはいうまでもなかった。
 この第2篇の“日本移民の社会史的研究”では、以上にあげたような、São Paulo州の近代化を促した諸条件のもとで、日本移民の社会を発展させた社会・経済的な諸原因を究明することを目的としている。
 それゆえ、日本移民社会のために、種々貢献した人々についても、特殊な場合にだけ人名をあげてあるにすぎない。また、日系社会の地方的な集団地については、巨視的にみて、社会・経済的な原因が、だいたい同じだと考えられる場合は、特殊な条件が存在しないかぎり、いちいち述べなかった。
 また、日本移民の生活様式や同化問題、思想問題などについては、本書の姉妹篇として、半田知雄氏が執筆する“日本移民の生活文化史”で詳述されることになっているので、論述上、差しつかえないかぎり省いてある。さらに、農業面における日本移民の貢献などについては、半田氏につづいて、斉藤広志教授が“日本移民がブラジル南部の農業開発に及ぼした影響”についての研究を企画されているので、その方にゆずることにした。

2.巨大私有地の発生

 ブラジルの農業による開発は、そもそもの初めから、巨大私有地、すなわちlatifúndioを取得して行われたが、この土地所有形態は、ブラジル全土を400年にわたって支配してきたものである。
 ブラジル発見後に行われた沿岸の探査によって、発見当時、島だと思われていた土地が、意外にも広大な大陸であることが確認されたが、それと同時に、ここの土人すなわちインジオはまだ石器を使用している未開人で、あこがれの金銀の細工など身につけておらず、金銀の所在は知るよしもなかった。そして、貿易資源となるめぼしい物産としては、ただインド物産の一つである赤色染料になるブラジル樹、pau-brasilが南緯5º~22ºの熱帯および亜熱帯地域の沿岸の森林におびただしくあることが判明しただけだった。
 新大陸はポルトガル王室の所有となったが、ブラジル発見は世紀的宿望のインド航路が達成された直後であったため、パウ・ブラジル以外に有望な物産のない新大陸は王室の欲望を引きつけるだけの魅力がなかった。王室はただ、パウ・ブラジルを王室の専売品として、一定の商人に利益の5分の1を納付させる条件で特許して、これを伐採させただけで、発見後30年間もほとんど放置同様にして、新大陸の開発など念頭になかった。
 ところが、ポルトガル人がインド貿易だけに熱中している間隙に乗じて、東邦貿易に立ちおくれたイギリス・オランダ・フランスの商人がブラジル沿岸に侵入して、しきりにパウ・ブラジルを盗みとっていたが、特に、フランス人の活動は積極的で陸地侵略の危険さえ感じられた。そこで、ポルトガル王室は、この危険からブラジルを防衛するために、植民による開発を企て、ブラジル全土を、といっても、当時はトルデジーリャ境界線によってポルトガル領となる範囲は限定されていたが、30ないし100レグア(1レグアは6キロメートル)の幅で、海岸から奥地へトルデジーリャ線まで並行して東西に貫く15の帯状の領地に区画し、貴族や国家的功労者にこの地の用益権と統治権を世襲的に与えて、彼らの費用で土地の開発を行わせることにした。これがカピタニア制とよばれたものである。カピタニアとはカピトン(領主)の権利に属する土地という意味である。この権利を与えられる上にいろいろ規定があったが、その中で社会史的に見て最も重要なことは、領主は、カトリック教徒で資力のある植民者が開拓の目的で未開拓地の分譲を願い出た場合には、これを与えなければならないということである。この分譲される土地をセズマリアsesmariaといい、300年にわたってこの制度は続行されてlatifúndioとよばれる巨大私有地的土地の所有形態を確立し、ブラジルの社会経済上の発展にいろいろ重要な影響を与えるものになった。
 カピタニアは、幾多の特典や特権をつけて与えられたが、渡航費や開拓費に莫大な資金を必要とした上、開拓の成果に不安を感じて、これを受ける希望者はあまりなかった。ことに有力な貴族はインド貿易に関係してブラジルなど見向きもしなかったので、結局、これをもらったものは、1~2の者を除いてはあまり資力のない小貴族ばかりだった。それで彼らの中には、渡航や開拓の費用をポルトガルやオランダの銀行やユダヤ商人から借りてきたものもあったが、資金が思うようにできなかったものもあった。また、当時のポルトガルの人口は200万人をこえていなかったのに、インド貿易で海外へ出る者や、リスボンやポルトなどの港町に集るものが多く、農村は人口の不足に悩んでいた時だったので、政府は農民の海外移住を許さず、領主に伴われて植民者としてブラジルへ渡ったものは、若干の騎士や各種の職人の外は、流刑人や犯罪釈放者など強制的に移住させられたものが多かった。
 このような悪条件のもとで、とにかく、各カピタニアに植民地の建設が始まったが、カピタニア間のへだたりが大きすぎたため、どの植民地も全くの孤立状態におちいり、フランス人の海賊に悩まされる一方、現地における土人奴隷による労力の補給が思うようにならず、逆に土人からはげしく襲撃されたりして、開拓事業は困難をきわめた。また、北部のパライーバ、リオ・グランデ・ド・ノールテ、パラーおよびマラニョンのカタピニアの領主となった貴族たちは、共同して船12隻に騎士120名を含む1.500人の植民者を率い、充分な武装をととのえてブラジルへ向ったが、彼らは、最初から金銀鉱をねらっての奥地探検を目的としていたので、植民事業は着手されなかった。(4)
(註4)Roberto C. Simonsen, Historia Economica do Brasil, Tomo I, 1944, P. 136
 このような事情で、中部のペルナンブーコと南部のサン・ヴイセンテの二つ以外はどれも不成功に終り、カピタニア設置後20年たっても、植民者の数はブラジル全体で3.000にみたなかった。
 そこで、ポルトガル王室はブラジルの開発を王室の事業としてやることにし、カピタニア自治領制を総督による中央集権的統治に切りかえることにした。かくて、初代総督Tomé de Souzaは1549年、兵士400名と製糖工場の技師および各種工場の職人などの外に、600名近い犯罪釈放者を引きつれて来てカピタニーア・バイーアを接収して、ここに総督府をおいて、開拓事業の立てなおしに着手した。そのためカピタニアは封建的自治領の性格を失って、総督政府の統治下におかれた。ただし、世襲的に領主と称える権利は取られなかったから、領主は地方長官のようになった。そういうわけで、あるものは賠償によって、18世紀の中ごろには、全部のカピタニアが王室へ回収された。
 総督政治になって、製糖および牧畜によって開拓を行うものに対するセズマリアの譲与には、いろいろの規定があり、時代によって、また地方によって、その規定も種々変更されたが、この制度は、1822年7月まで継続されたもので、ブラジルにおける農業、牧畜による開拓の基礎となったものである。セズマリア譲与の条件としての主な規定を要約すると次のようなものであった。
1.セズマリアを譲与された者は、一定の期間内に(ふつう3~6年以内)これを開拓しなければならぬ。(砂糖、綿あるいは牧畜場などで)
1.一定の期間内に開拓されない土地は没収され、開拓の意志あるものに下附される。
1.セズマリア所有者は、カトリック教団に十分の一税を払う以外に、地租を支払う義務はない。(ただし、1699年から支払うようになった。)
 カピタニア制時代に、植民事業が失敗した原因の一つは、砂糖工場その他の労働はインジオを捕えた奴隷によってやらせたのだったが、狩猟採集の原始的な生活をしていたインジオには規則的な、しかも激しい労働は全く適さなかった。そのため死亡率も多く、逃亡もヒンパンで、それを補充するため、土人狩りが盛んになったが、このことがインジオの怨みを買い、農場がしばしば彼らから襲撃されることになったということである。
 ところが、総督政治になったころから、アフリカのコンゴおよびアンゴラ地方がポルトガル人によって征服され、この地方の黒人狩りと奴隷としての輸出が組織的に行われるようになって、砂糖農場では、手をやいたインジオ奴隷を黒人奴隷に代えることができるようになった。かくして、砂糖製造はようやく軌道にのり出した。
 砂糖を主要産業としたブラジルの農業開発はヨーロッパにおける需要の激増につれて盛んになっていった。そして、ブラジル北東部のバイーア州のRoconcavoから以北のリオ・グランデ・ド・ノルテ州のNatalへかけての海岸に沿った50~300キロ(平均80キロ)の幅の森林地帯はマサッペ、massapéとよばれる粘土質のすばらしい腐蝕土で、さとうきびの栽培には最も適していたし、またヨーロッパ市場へも近かったので、砂糖製造を企てたものは、みんなこの地方をねらってセズマリアを取得した。
 しかし、砂糖工場といっても、広大なさとうきび畑を作らねばならなかったし、都市はなかったのだから、農場経営に必要なもの一切と、ほとんどすべての生活必需品を農場内で自給しなければならなかったから、製糖工場の外に、大工工場、皮工場、鉄工場、煉瓦工場、襲撃に備えて作った城のような農場主の大邸宅、数十頭の労役牛、数十名から200名ぐらいの黒人奴隷(18世紀には1.000名の奴隷を使った農場もあった)。各工場で働く多数の職人や奴隷の監督などが必要だったから、小資本のものにはセズマリアを取得する資格が認められなかった。それゆえ、セズマリアを与えられたものは資力のある貴族や金持に限られることになった。
 セズマリアはふつう原則として、3平方レグアの面積であった。(5)
(註5)レグアには面積と距離と二つある。距離の1レグアは6キロメートルである。面積のレグアは正しくはlegua de sesmariaとよんだ。
 1レグアは6.600メートル平方の面積で、43.560km²すなわち4.365ヘクタールに当る。それゆえ3平方レグアは約13.000ヘクタールという厖大な土地である。当時、一つの砂糖農場を経営するのには、これだけの面積が必要だとされていたのであるが、実際には必要以上の土地を家族の者ひとりびとりの名儀で取得したり、その他の非合法的な手段で10レグア、20レグアという巨大な土地を私有することが一般に行われるようになった。土地そのものにはまだ経済的な値打はなかったが、広大な私有地を所有していることが社会的な地位を高め、権勢を強めるようになって、広大な私有地の取得はいろいろの手段を弄して行われたし、また、武力によって他人の土地を奪取して私有地を拡張したものさえいくらもあった。
 北東部の奥地は牧畜で開発されたが、牧場地帯では、ひとりに3レグアという規定は全く空文にひとしく、広漠たる面積の土地がごく少数の有力者の手に握られてしまった。たとえば、バイーア州では、初代総督Tomé de Souzaと親しかったGarcia d’Avilaの牧場は、後に彼の子孫によって拡張された土地を合わせると、サン・フランシスコ川に沿って260レグア、すなわち10.325.6km²で、岐阜県の面積にひとしい厖大なものであった。また、Antonio Guedes de Britoの牧場は160レグアであった。また、ペルナンブーコ州でも、Nicolau Aranha Pachecoは1658年に家族の者の名儀で400レグアを、その翌年さらに100レグアを獲得している。
 このように北東部では、不法に広大なセズマリアが少数の有力者に与えられたが、彼らはいずれも探検隊を組織して奥地へ侵入し、抵抗するインジオを追い払って開拓のために土地を確保した功労者であったし、また、海岸地帯では海賊を撃退したり、オランダ人との戦争で功をたてた者で、いろいろな手でセズマリアを願い出れば、政府は彼らの希望を拒むことはできなかったのだ。もちろん、単なる情実関係で規定以上に与えられたものもたくさんあった。
 北東部にくらべると、当時の南部であったリオ・デ・ジャネイロやサン・パウロはヨーロッパ市場へ遠く、砂糖農場経営上の諸条件も悪く有力な植民者からはふりむかれなかった。サン・パウロ州のごときは、標高800メートルの山脈が海岸にせまって屹立して交通を阻止していたため、広大なセズマリアを得て農業を営んでも、その産物を輸出することが不可能であった。それゆえ、北東部へ割りこめないような資力の少いものが、金鉱探しの探検隊を組織する拠点として、この地方のセズマリアを貰いうけたにすぎなかった。それゆえ、ほとんどが1レグアあるいはそれ以下であった。広大なセズマリアを取得したものもあったが、ぜんぜん開拓のしようがなく、分割して売却したり、遺産相続で分けたりして、私有地の面積は縮少していった。これは、あらゆる手段で土地の拡大を行った北東部とは反対の現象であった。しかし、19世紀になって、リオおよびサン・パウロ州にコーヒー産業が勃興するにおよんで、この地方にもコーヒー農場のプランテーション経営のために、latifúndioが出現するようになった。(6)
(註6)Roberto C. Simonsen, Historia Economica do Brasil, Tomo I, pag., 332のA, Propriedade ruralを見よ。
 しかし、サン・パウロ州以南は、気候が温帯に属しているため、パウ・ブラジルも生えておらず、輸出向の熱帯作物もできず、この地方にセズマリアを貰いうけるものはなかった。そして、17世紀中は、今日ブラジルの最南部になっているリオ・グランデ・ド・スール州は、トルデジーリャス境界線の外になっていたために、当然スペイン領であったから、サンタ・カタリーナ州が当時のブラジルの最南部になっていた。ポルトガル王は、この最南部の開発を国防上からも考慮して、サン・パウロ州にいる植民者をサンタ・カタリーナ州へ移住させることを企てた。そして、希望者にはだれにでもセズマリアを与えることにして移住を勧誘したので、サン・パウロでは、地理上の悪条件のために農場経営の発展の見込がなく、北東部の繁栄を見て歯ぎしりしていた連中の中には、一旗あげんものと、農奴や奴隷を引きつれて移住して行ったものもあったが、ここでは輸出向の産物が思うようにでず、国内市場がぜんぜんないために、作物を商品として売ることもできず、けっきょく自給経済の状態を続けるだけで、非常な困窮におちいってしまった。こういう事情で、この地方にはlatifúndioへ発展する可能性がなかったし、また小地主の自営農もなりたたなかった。
 サンタ・カタリーナの南に隣接するリオ・グランデ・ド・スールの西南部はアルゼンチンのパンパ大平原に続いている草原で最良の牧畜地域であるが、この平原には、16世紀にスペイン人がヨーロッパから連れてきて放した牛馬が、自然繁殖して18世紀の初めごろには至る所に野生の牛や馬や羊のおびただしい群がいた。このころのある旅行者が“その数は数百万頭におよぶ”そして、“馬などは一万頭ぐらいが一つの大群をなしていることは珍しくなかった”と書いているほどである。
 それゆえ、北東部や中央西部の牧畜のように、牛馬のぜんぜんいない所へ、雄牛1頭、仔牛10頭、馬ひとつがい、夫婦者の奴隷一組を一団としたものを、あちこちに点々と入れて、その繁殖を待っていたのとはちがって、ここでは、ただ野生の牛馬を捕えるだけでよかった。それゆえ、18世紀になって、ミナス地方に金鉱ブームが起きると、金山地帯の輸送用に多数の馬が需要されたが、これに目をつけて、トルデジーリャス線を突破して、どしどし、リオ・グランデへ入りこみ、主に馬を捕えてはミナスの金鉱へ売りさばくことを始めたのが、サン・パウロの植民者であった。リオ・グランデ州の牧畜はこうして始まったのだが、スペイン領への侵入であったから、アルゼンチンやウルグワイのスペイン系植民者との間に激しい土地の争奪戦が数十年にわたってくりかえされた。しかし、ブラジル人の勢力が強く、いつもスペイン系の植民者を追い払って土地を確保するとともに、セズマリアを獲得して牧場を経営するようになった。それゆえ、この地方に牧場経営のためのセズマリアを取得したものは、土地争奪戦で手柄をたてた軍人と牛馬の捕獲をやったサン・パウロの植民者で、北東部のように貴族的な家柄のものではなかった。しかし、セズマリアは規定の3レグアは、ここでもやはり無視されて、家族のものだれかれの名儀で取得した15~18レグア程度のものは、いくらもあったし、中には200レグアという巨大なものも現れた。
 18世紀の初頭から、中央部の山岳地帯に待望の金鉱が続々発見されたが、金鉱地域のセズマリアは、ひとりに僅か6ブラサ(1ブラサは1.45ヘクタール)しか与えられなかった。しかし、18世紀の末に金鉱が衰えて、牧畜・農業の時代になると、ここでも、sesmariaはレグアが基準になった。“ミナスの農場は、ふつう、牧場をあわせもっているが、その平均面積は、Eschwegeによれば、幅2レグアに長さ3レグアすなわち6平方レグアである。牧場は当時平均して9レグア平方(81平方レグア―訳者註)”(7)であった。
(註7)Oliveira Vianna, Populações Meridionais do Brasil, 1º Vol, 1922, 2ª edição, pag. 128.
 また、“マット・グロッソ州(中央部奥地)でもJoão Carlos Pereira Leiteは240レグアの大牧場に60万頭の牛を飼育していた。”(8)
(註8)Virgilio Corrêa Filho, Fazendas de Gado no Pantanal Mato-Grossense, P. 20.
 このようにブラジルの開発は、そもそもの初めから巨大なlatifúndioによって行われた。
 インド貿易が盛んであった間は、ポルトガル人はブラジルには興味がうすかったが、インド貿易をイギリスやオランダに奪われて、16世紀の終りごろから不景気風が吹き始めたころから、ヨーロッパでは、スペイン領アメリカから流れこんでくる莫大な銀のために価格革命が起り、さとうの値段も年々騰貴してブラジルにすばらしい砂糖景気がやってきた。そして、ポルトガルから資本をもった有力者が盛んに北東部へ移住して広大なセズマリアを獲得した。
 18世紀の金時代が出現するまでのブラジルの政治、経済、社会の中心は北東部の砂糖農場地域にあって、その奥地の牧畜地域を含めた約100平方キロという広漠たる面積が、あますところなく少数の有力者だけによって占められてしまった。
 しかし、このような広大な土地を私有しても、それを規定通り開拓して人間を入れることはやらず、未開墾のままにしてあるものが多かった。それゆえ、私有地の不法な拡大は、いろいろな弊害を生じた。そして、無資力者は一片の土地も所有することができず、latifúndioの土地を借りて農奴にひとしく小作人、moradorになるか、ややましな者でも分益農をやるのがせいぜいであった。こんな境遇にあるものが一つのlatifúndioの中に数千人もいたところがあった。
 土地開発の進展を阻止するこのような弊害をなくすために、ポルトガル王は、1699年に新たにセズマリアに関する法令を発布して、セズマリアを譲与しても、定められた期間内に全部の土地を開拓して植民しなければ、未開発の部分は没収して、この事実を告発した者に3レグアを限度として、さらに譲与することにした。また、それまで免除されていた地租を徴収することにした。しかし、大部分のセズマリア所有者は、地租を払うことも、完全に開拓、植民することも、ずうずうしくごまかしていた。
 しかし、不法に広大なlatifúndioが存在しているのに、王室は1780年に、3レグア以下の面積では、農業も牧畜も経営が充分に行われないという理由から、それを所有者が分割して売ったり、また家財相続の場合に分配することを禁じた。この奇妙な法令によって、ますます小土地所有は不可能となり、latifúndioの存続を容易にすることに役立っただけで、産業の発展は逆に阻止される結果に終った。
 王室は1699年の法令以後も、セズマリアの譲渡は面積を3レグアに限定するよう、たびたび命じたが実行されなかった。
 18世紀前半は黄金景気に引きつけられてポルトガルからの移住者も激増したが、ほとんど独身者だったので、彼らと黒人の女やインジオとの間にできた混血の子孫もふえて、17世紀末ごろは奴隷を含めても僅か30万そこそこであった人口が、18世紀の終りごろには250万にふくれた。しかし、民衆の大部分は一片の土地を持っていない貧民で、大私有地の農奴(agregado)か、あちこちのlatifúndioを仕事を求めて渡り歩く貧しい自由労働者かで、さらに都市の浮浪人(vadio ou vagabundo)や無頼漢(malandro)になったものや乞食や盗賊の数もおびただしかった。

3.南部における小農植民地

 セズマリアを取得する資格のないものの中には、はるか奥地へいりこんで、私有地になっていない王領の未開拓地―これをテーラ・デボルータ、terra devolutaといった―に定着して小規模の農場や牧畜を営むものがあった。殊に、18世紀の最後の4半期ごろから、ミナス地方の金鉱がさびれだして、失業したものがまだterra devolutaのたくさん残っていた南マット・グロッソやサン・パウロ方面へ南下移動し、開墾しやすい森林でない土地に定着して、農業や牧畜を始めるものが多かった。しかし、彼らは無資力の貧農であるから、企業的な経営はできず、わずかに生活を維持して行くための自給的な農業で、社会の経済的発展にはあまり関りのない存在であった。このような土地所有は、全く不法な占拠にすぎなかったが、彼らを追いたてるものがなければ、そこに永住することができた。今世紀の初期ごろまでは、サン・パウロ州の奥地でカイピーラcaipiraまたはカボクロcabocloとよばれる貧農で、小面積の土地で自給的な農業を行っているものがたくさんいたが、彼らは何代にも亘って不法に占拠した土地を登録によって合法的に所有権を得たものであった。ブラジルにおけるこのような小農の土地所有は、最初は国有未開地の不法な占拠によって行われた。これはまさに、特権階級によって独占されたセズマリア制に対する無産者の、無言の、しかも、ささやかな抵抗であったといえる。
 しかし、このような不法な土地占有は、人口の増加にともなって、国内を市場とする農業や牧畜が有利に行われるようになると、有力な資力のあるものも、先を争って、terras devolutasを勝手に占拠し、開拓するものが現れてきた。
 不法所得ではあっても、セズマリアによって得た巨大な土地を開拓せずに放置している者よりも、はるかに土地の開発と人口増殖のために有益であったので、王室は、このように不法に占有した土地でも実際に開墾している者に対しては、その土地の所有を認めることにした。これがポッセ(posse占有)といわれる制度である。(9)
(註9)1795年10月5日の勅令は、永年ポッセによって土地を耕作しているという事実が明かな場合、その土地の所有を合法的にするために必要な処置を講じさせた。さらに1822年3月14日、王ドン・フエルナンドは法令によってポッセを土地所有の制度として認めた。
Brasil Bandecchi, Origem do Latifúndio no Brasil, pag. 44 および 45.
 ポッセによる土地所有の方が、未開地開発のためには、弊害の多いセズマリア制よりも効果的であると見た王室は1822年7月、セズマリアを廃止した。ところが、ちょうどセズマリアが廃止されたころから、コーヒー栽培が有利な貿易商品となる見通しがついて、リオ・デ・ジャネイロ州およびサン・パウロ州にコーヒー栽培が盛んになると、この地方のterras devolutasは大農場経営のために争って占有され、そのため土地の争奪や境界争いが、血なまぐさい武力行為によって盛んに行われるようになった。そして、以前から、ポッセによって定住している小農民などは、どしどし追い出されて、その土地は強奪された。こうして、また、奴隷制による熱帯産物のコーヒーの大規模な栽培のために巨大な私有地の取得が行われて、1850年ごろには、この地方の土地も、ほとんどが有力者たちの手に握られてしまい、コーヒー栽培に適する地域は何千アルケールという大コーヒー農場によって占められてしまった。
 São Paulo州以南のParaná、Santa CatarinaおよびRio Grande do Sulの3州は温帯に位置しているため、輸出商品となる熱帯作物ができず、Rio Grande do Sul州の南半部での牧場経営以外には農業開発を企てるものがなかった。大面積のセズマリアを所有したものでも、最初から開拓の目的はなく、虚栄と誇示のために取得したので、いつまでも未開発のまま放置していた。したがって、人口はきわめて稀薄で、領土防衛上の危険も充分にあった。
 そこで、ポルトガル王はこの地方の開発を産業開発を妨げる大私有地制よりも、自家労力によって農業を営む多数の農民に小面積の土地を与えて、集団植民地を作らせて人口の増殖と産業の振興を計ることにした。これは、従来のブラジル開拓の方針を一変した画期的な植民政策であった。
 そこで、かねてから人口過剰に悩む貧農で充満していたポルトガル領のアソーレス群島から、18世紀の中ごろに貧しい小作人の家族者五千数百名を国費で誘入して、この地方の沿岸各所に、60家族を単位として分散させて植民地を開設した。そして、植民地建設と農業経営に必要なものを補助されて、各植民地は活発に開拓されていったが、ヨーロッパへ輸出できない小麦、大麦、果実、野菜などを売りさばく市場がないことと、1家族に与えられたセズマリアは、小面積といっても、4分の1レグア平方で、272.25ヘクタールもあり、各戸が孤立状態になった。(10)
(註10)4分の1レグア平方のセズマリアは、data de campoとよばれる面積で1.650メートル平方、272.25ヘクタールに相当する。
 こういうわけで、彼らの生活は原始的な自給経済に後退せざるをえなかった。その結果、農業をすてて、牧場地帯へのがれたものが多く、小セズマリアによる南部地方の最初の植民計画は失敗に終った。
 ポルトガル王はブラジルが植民地であった間は、頑強に外国移民の入国を拒んで、人口が稀薄で開発がおくれているにもかかわらず、ブラジルへの植民はもっぱらカトリック教徒のポルトガル人に限定していた。そのため、特に温帯地方の南部の開発はほとんど進展しなかった。
 1807年の暮、ナポレオンの軍隊がポルトガルへ侵入したとき、ポルトガル王はフランス軍に屈服することをさけて、ブラジルへ逃がれ、リオ・デ・ジャネイロにポルトガルの首都を移した。そして、時の摂政Dom Joãoは、万一ポルトガル本国がフランスに奪われるようになれば、ブラジルをポルトガル王国の本国とするつもりで、ブラジルを縛っていた植民地的なきずなをことごとく解いて、近代国家として発展ができるように、あらゆる措置をとった。その主なものは、300年間、外国船に対して閉めていた港を開放して自由な貿易を認め、すべての製造工業を自由にし、また、宗教の如何にかかわらず、諸外国移民の入国を許し、彼らに自営農ができる程度の小セズマリアを与える法令を発布した。
 そして、外国移民によって南部を開発するための植民地の設立を国の補助によって積極的に行う計画をたてて、その宣伝をドイツその他北欧諸国で行った。しかし、ヨーロッパがナポレオンの勢力下にある間は外国移民を誘入することができず、ただアソーレス群島からポルトガル移民1.500家族を主として、リオ・グランデ・ド・スール州に入植させたにすぎなかったが、1814年のウイーン会議が終って、ヨーロッパに平和が回復されると、新大陸への移住者は続出して、近代移民の流出期が始まったが、大部分は北米合衆国へ渡ってブラジルへ来るものは少かった。ブラジルには恐しい熱帯病があること、工業の発達がおくれており、カトリック教国で、奴隷制度が支配的であることなどが、そのころ、おびただしく海外へ出ていた新教徒の多い北欧の移民をひきつけなかった。それでも、19世紀中に、ブラジル政府の補助をえて南部諸州に移住してcoloniaとよばれる植民地を設立したドイツ人、イタリア人(主にイタリア北部のもの)、ポーランド人、ウクライナ人、フランス人、オーストリア人、ロシア人などが数十万に達した。
 これらのコロニアでは、地方によって、いくらか相異はあったが、だいたい、一家族に割り当てられた土地(lote)の面積は約50ヘクタールであったが、後になると約25ヘクタールが標準の面積になった。
 ブラジルの未開発開拓は、19世紀の末ごろまでは、以上述べたように、北部の熱帯およびリオやサン・パウロ州の亜熱帯の地域は巨大私有地における黒人奴隷の使役によって行われたので、自営農の小土地所有は、国策上南部の温帯地域に誘入された外国移民のために設けられた植民地以外には、まだ社会的に発生される段階に達していなかった。
 それが、19世紀の終りごろから、コーヒー農場へ契約労働者として来た移民が、農場での契約期間をすませて、彼ら自身の資力と国策とは関係なく、移民たちの自由な意志によって、サンパウロ州で、小面積の農地を取得することができるような社会経済的な条件が現れてきた。

4.奴隷制からコローノ制へ

 1850年に奴隷の輸入が禁じられて、労力の不足をいちばん痛切に感じたのは、当時ブラジルに産業の王座にあったコーヒー農場であった。当初の間は北東部の砂糖地帯や、かつて金鉱で栄えたミナス地方から黒人奴隷を買い取っていたが、次第にその入手が困難になり値段も高くなってきた。
 São Pauloの有力な農場主(fazendeiro)で上院議員でもあったNicolau de Campos Vergueiroは、奴隷輸入禁止前に、当然来るべき労働力不足に対処するため、1840年にポルトガルから労働移民90家族を彼のIbicaba農場へ連れてきたが、これが奴隷労力の補充としてコーヒー農場へ入れられた最初の移民であった。そして、奴隷禁止がいよいよ避けられない情勢を察知して、移民誘入事情を目的としたヴエルゲイロ商会Vergueiro & Cia.を設立し、1847年には、ブラジル政府の補助をえてドイツ移民80家族400名の誘入に成功した。
 そして、10年後の1858年には、ヴエルゲイロ商会の手を経て約400家族3.000名(このうち約1.000名のドイツ人、1.000名のドイツ系スイス人、その他に数百名のポルトガル人と、少数のフランス系スイス人とベルギー人であった)が26の農場に就働していた。
 かくして、奴隷輸入禁止後、ブラジルに2種類の移民が来るようになった。すなわち、南部開発のための国策による自営開拓植民で永住を目的とするものと、コーヒー農場で働くコローノcolonoと呼ばれる契約労働移民で主として出稼を目的とするものである。
 初期コローノ移民の労働条件はパルセリア、parceriaといって、農場主はコローノが採取したコーヒーを販売して、その純益の半分をコローノに与える分益制であった。そして、渡航費および最初の収穫までの生活費や諸雑費は農場主からの借金となるので、これは収入から差引かれた。しかし、収穫物の値段は、コローノにとって不利になるように計算されたし、農具や食料品その他の生活必需品は農場主の手を経て不当な値段で買わされた。それゆえ、コローノ移民は農場に着いたとたんに、1~2年では払えないような莫大な借金に縛られることになった。
 パルセリア制度は奴隷制から資本主義的な賃金制への過渡的なもので、農場主側にとっては、コローノの労働を搾取するのには都合がよく、その上、当時はまだ奴隷も使用していたので、農場主には、コローノ移民の人権尊重などという考えはなく、どの農場でもコローノの不平不満はたえなかった。
 その結果、イピカーバ農場に就働していたドイツ系スイス人は「コローノ制は白人の奴隷の労働である」と叫んで、1856年の暮から3ヶ月にわたって契約と待遇改善を要求する争議をつづけた。この争議はイピカーバ農場主だけでなく、その他の農場主に対しても大きな衝撃を与えた。
 争議の指導者であったトーマス・ダハッツがヨーロッパへ帰って出版した「ブラジルにおけるコローノの記録」という本で、コーヒー農場の実情を詳しく紹介し、コローノ労働は文明人にとって屈辱そのものであるとして、コローノ移民としてのブラジル渡航にきびしい警告を与えた。
 この結果、ドイツではブラジル行コローノ移民の募集を禁止し、その他の国々でも、ブラジル行移民に制限を加えたので、ブラジル南部の植民地を建設する開拓移民さえも激減してしまった。このころは、ヨーロッパからの移民流出は年々増大しつつあったのだが、それにもかかわらず、ほとんどが北米合衆国へ渡り、一部がブラジルを横目で見てアルゼンチンへ行ってしまうようになった。
 黒奴の輸入が断絶してから、農場主にとって、コローノ移民は奴隷労力の補充のために欠くべからざる重要なものであった。しかも、コーヒー栽培は輸出の激増につれて飛躍的な発展期に入り、1850年には世界的な産地ジャバを追いこして、全世界の産額の50%をブラジルが占めるようになった。それゆえ、労力の需要も年々増大するばかりで、その補充は、さびれた金山地帯や不景気になった砂糖地帯および棉花地帯から買い集めていた。1850年から70年にかけてコーヒー地帯へ売りこまれた数は毎年3万に及んでいるが、奴隷の値段は年毎に高価になって、むしろ移民を誘入する方が費用が安くなるほどであった。
 農場主は移民の誘入にやっきになった。そして、国家の財政の大部分を負担し、政治的に強い発言力をもった農場主は、移民の誘入と奴隷の確保とがコーヒー農場に有利になる政策を政府にとらせるために、あらゆる努力を試みた。
 Rio de Janeiro州では、すでに1840年に州の法令で外国移民が奴隷を所有することを禁じたが、1848年には、国の法令によって、すべての植民地で奴隷を使用することを禁じた。
 また、移民誘入政策も、もっぱら農場主の利害を基にして行われたが、それを如実に示したものが、1850年9月4日に奴隷輸入が禁示になった直後の18日に発令された有名な土地法(lei das terras)である。
 この法令は、土地の所得が永年にわたって正規の手続をふまずに行われたものが多く、その結果、所有権が不確定であったり、土地の面積や境界が不明確であったりして、それから生じる混乱や土地争奪などの弊害を一掃するため、合法的な手続きによってそれらの所有権を確立させ、また、セズマリアやポッセによって譲渡または占有された土地でも、未開発のまま放置してあるものは回収して国有にするなど、あいまいな土地所有権を整理する目的の外に、従来、土地の所得は、セズマリアにせよ、ポッセにせよ、無償でされていたのを“未開地、terras devolutasは、購入以外の方法でこれを取得することを禁じる。ただし、外国との国境地帯に限り、国境から10レグア(60キロメートル)の範囲内の土地は無償で譲渡される。”と規定された。
 この規定のねらいは、ひとりでも多くコローノ移民を農場へ誘入したがっている農場主が、移民が農場へ這入らずに、容易に土地を求めて自営農となることを阻止するとともに、農場に就働中のコローノも土地を入手して独立するための農場に定住しなくなるという心配から、外国移民による土地の取得をできるだけ困難にすることにあった。
 未開地を無償で与えることに対する反対は、1842年8月、皇帝の諮問委員会において、次のように皇帝に進言しているのを見ても、農場主の意図ははっきりうかがえる。“土地をやたらに与えることは、他の如何なる原因よりも、今日すでに困難を感じている自由労働者の獲得に影響する。それゆえ、今後は例外なく土地は有償で与えるべきである。かくすれば、土地の値段が出て、資力のない移民は容易に土地を得ることができず、その資金をえるために、まず労働者となって働くことが望ましい。”(11)
(註11)J. Fernando Carneiro, Interpretação da política imigratória brasileira, II, Digesto Economico No.45, pag. 127~8.
 土地の無償取得を禁止したこの法令も、これまで、度々のセズマリアに関する法規が無視されたように、権力者にとっては、反古同様で実際にはほとんど価値がなかった。そして官有地の横領(esbulho)、詐取(fraude)は、ますます盛んに行われた。“少くともサン・パウロ州においては、伝統的なパウリスタの家族が所有するラチフンジオのある農地の半分は横領や詐取によって取得したものである。”(Leoncio Basbaum, Historia Sincera da República, I, pag. 83~84)
 そして、この法令によって、政府の外国移民誘入の努力が、植民地建設の自営開拓移民よりも、コーヒー農場へのコローノ移民の方へ大きく傾いたことは否定できない。そして、この法令の直後に、外国移民の植民地が最も多く設立されつつあったRio Grande do Sul州は、大牧場主が奴隷を確保するために、州令で植民地における奴隷使用を禁止した。かくして、外国移民による南部の開発はただ家族労働だけで行わなければならず、労力不足のために進展を阻まれる結果になった。
 殊に、fazendeiroのひざもとのSão Paulo州では、それゆえ、植民地の建設は1855年から1889年の30年間に、わずかに14ヶ所の植民地が開かれただけであった。
 奴隷労力の欠乏とヨーロッパ移民の誘入難から、fazendeiroたちはシナのクーリーを入れることを思いついた。クーリーの輸入についてはドン・ジョアン六世時代、即ち、独立前に、大規模な計画がたてられたが、わずか数百名を入れただけで中絶した。その後も、1855年とその翌年にまた、少数のものが輸入されたが、彼らは、ほとんど乞食になってリオの町をうろついていたといわれる。こうした失敗のため、クーリーを黒奴の代用として輸入することは、それきり放棄されていたが、1870年から再び問題にされ始めた。
 しかし、“クーリーの輸入は黒人奴隷に黄色奴隷を代えるものにすぎない”という奴隷解放論者のきびしい反対があった。しかし、農場主側は“クーリーは、わが国現在の状態では、奴隷の労力不足を補う唯一のもので、さしせまって必要なものである”“われわれは、農業を破滅から救う方法としクーリーの輸入以外に方法がない”と頑強に主張して、クーリー輸送の船会社設立の計画まで企てたが、会社の設立が挫折したため、この計画は実現しなかった。
 長年、伝統的に奴隷制度によって支えられてきた農場主は、奴隷制度もできるだけ存続させたかったのだから、欠乏する奴隷労力を補給するためにも、なるべく農奴的な労働者を希望していた。その結果、資本主義的な賃労働に切りかえることができず、コローノ制という前近代的な雇傭制が採用されたのである。
 大きな望みをかけたクーリー輸入の失敗は、農場主を失望させたが、このころ、ヨーロッパ諸国の農村は1870年から始まった農業恐慌にゆさぶられて、窮地に追いこまれた農民の海外への流出が飛躍的に激増し、1871~1880年間に約350万の移民がヨーロッパから出た。さらに、1881~1890年間には、それが倍加して750万弱という記録を作ったほどである。しかし、これら諸国移民の大部分は景気のいいアメリカ合衆国へ流れ込んで、ブラジルへ来たものは僅少であった。
 ブラジルにおけるコーヒー産業の重要性は年とともに、その比重を増大して、コーヒー産業を助長することは、当然国家的な政策であらねばならなかった。それゆえ、クーリー輸入に反対しても、ヨーロッパ移民をコーヒー農場へ誘入することには、政府は全力を注ぐようになった。かくて、ブラジルの移民政策が前と変って、コローノ移民の誘入をもっぱら国策とするようになった。
 ちょうどそのころから、イタリアを初め、スペイン、ポルトガルなど南欧諸国が移民流出期になりだしていた。そこで、ブラジル政府は、移民の旅費を補助することを立前として、南欧からのコローノ移民を大々的に勧誘したところ、目的地の農場まで旅費は一文もいらないということが、貧農の充満していた南部イタリアからおびただしいコローノ移民を流出させるようになった。そして、19世紀の最後の四半期だけで、約80万のコローノ移民を誘入することができたが、このうち、60万がイタリア人であった。とくに、1888年5月に奴隷制が廃止されてからは、移民はなだれこむようにやってきて、19世紀の終りまでの12年間は、コローノ移民の全盛期をつくった。
 充分な労働者がえられるようになるとともに、ぐんぐんのびて行くコーヒーの輸出景気にあふられて、企業家はきそって農場の拡張や新設をやり、1890年に2億2千万本だったサン・パウロ州のコーヒー樹数は、1900年には5億2千万本に達したのだが、向う見ずに行われた栽培の拡張は、1896年から生産過剰となり、それ以後は毎年売れ残りの滞貨は増大するばかりで、1905年には、ついに1.100万俵という記録的なストックになった。これは、じつに一年間の世界消費高の7割に相当するもので、輸出値段は1907年に底をつくまで10年間にわたって暴落しつづけた。

本ページは2015/11/23, 2015/12/8, 2016/1/28の3エントリをまとめたものです。

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