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5.アジア的出稼移民“華僑”
中国からの近代移民流出数は約1000万人といわれる。このうち約500万人が中国北部から満州および蒙古へ移住し、その他の約500(または600万ともいう)が中国南部から南洋方面へ出た。本論文では、南洋へ出た特色のある“華僑”について述べることにする。
中国では清代(16)には商業活動が盛んであったが政府の抑商政策によって商人に対する税が重く、また一方、農村における家内工業が強力に普遍していたために、蓄積された資本が産業資本へ発展せず、当然興るべきマニュフアクチュアの発達を阻げた。それは、商業資本は資本主義的発展の道をたどらずに、高利貸資本として、もっぱら農民へ働きかけるようになったのであるが、高利貸資本が効果的に活動するためには、農民の土地が自由に売買されなければならない。そこで、商業資本家は、官人(17)mandarinと結托して、農業改革を断行させ土地の自由売買を可能にさせたのである。
かくして、商業高利貸資本の農村侵入が盛んになり、官人や有力地主と組んで、貧しい自作農の土地が次第に握られ、集中されて農民層の分解が始まった。
しかし、官人や商人の手に集中された農地は、彼らによって資本主義的に経営されることなく、封建的な機構のまま、没落した貧農を小作にして、高い小作料を取りたてる寄生的な不在地主となった。
(16) 清代 1644年、明朝が亡び、北京に清朝が都を定めてから19世紀の30~40年代ごろまでの約2世紀にわたる時代をいう。
(17) 官人 中国清代の官吏のことであるが、ヨーロッパの近代的起源の“官僚”とは性質がちがう。17世紀に中国を訪れたポルトガル人は、敏感にも、これをmandarinという特殊な言葉でよんだ。ポルトガル語のmandarは命令する、支配するの意味で、支配者、命令者ということになるが、“官人”というのは、それを日本語にした訳語である。(平瀬己之吉、世界歴史事典、平凡社)
このころから、中国における農民層の分解は次第に激しくなって、零細農と小作人、雇農の数が増大していった。しかも、増加する人口に対し、新しく開拓される耕地面積が少く、また、都市には離村する農民を吸収するマニュフアクチュアが未発達だったから、過剰人口となり、貧民や浮浪人となるものも多くなった。
しかし、19世紀の中期ごろまでは、農村における綿糸、絹布を主軸とする家内工業は広範に、しかも根強く発達していた。そのため、都市におけるマニュフアクチュアの発展も阻止されたし、中国市場への侵入をねらったイギリスの綿製品の売れ行もはかばしくなかった。中国の農民は、このような家内工業の繁栄のおかげで、農民層の分解が始まっても、急激な転落をまぬがれていたのだったが、彼らを窮極の破綻に追いこんだものは、イギリスの帝国主義政策によって企まれたアヘン戦争(18)の結果に外ならない。この時結んだ南京条約と、この次の北京条約とは中国の近代化をもたらしたが、同時に、これを契機として中国をイギリス資本主義の半植民地とし、直接には中国農民のイギリス資本主義への隷従化を達成したといえる。
(18) イギリスは鎖国政策をとる中国が18世紀の半から外国貿易のために許した唯一の広東港を通じて、毛織物、綿製品、インドの綿花を主として輸出し、中国からは茶と絹とを買いとっていたが、イギリスの重要な輸出品である綿製品の売れ行きが、中国農村の優秀で盛んな家内工業製品におされてのびず、そのため、片貿易となって中国物産の輸入が超過し、数十年にわたっておびただしい銀を支払わねばならなくなり、19世紀の初めには、年々4~5百万ドルの銀が中国へ流れこんでいた。イギリスがスペインから稼いだ銀が、茶と絹の買付けのために、中国へ転流してそのために茶、絹の価格を騰貴させた。
そこで、この貿易差額を逆転させるために使った切り札がアヘンの輸出だった。この策戦は美事に適中して、たちまちにして、アヘンは中国を征服し、中国への主要な輸出品となるとともに、1831年から銀の流出を食いとめることができた。清政府は、しばしば、アヘンの輸入を禁じたが一向効果がなく、しびれをきらした政府は、1839年に広東港のイギリス商人からアヘンを没収して焼き払ってしまった。これがアヘン戦争の原因であるが、戦争は中国の敗北に終り1842年の南京条約で、広東、アモイ、福州、ニンポツ、上海の開港を承認させた。
イギリスは南京条約で、中国の市場をイギリス製品で掌握する足場を築こうとしたのだったが、根強い中国農村の家内工業の鉄壁は容易に崩せず、アヘンの半ば公然の密輸で中国貿易を有利に稼いでいたのだった。そこで第2次アヘン戦争といわれるアロウ号事件で、強引に中国におしつけた天津条約(1859)と北京条約(1860)で揚子江岸の数港を含む11の開港場とアヘンの輸入を認めさせたが、この事件に便乗したフランスはパナマ運河の工事に必要な苦力貿易を認めさせた。このように、南京条約・天津条約・北京条約と一連の資本主義のはげしい攻勢によって、イギリス製品を始め、その他の先進資本主義国の近代的な機械製品が中国に滔々と流れこむようになった。
“実に中国農村が世界市場と接触するに至った過去百年間の不可避的傾向は、諸外国の経済的進攻に対する中国手工業の絶望的な生存闘争であった。その結果、中国手工業は痛ましくも没落しつつあり、世界資本主義の一般的体制中に併合されつつある。1890年から1930年までに、中国の輸入は25倍半に増加した。しかるに、それ以前の26年間の増加は2倍半を出なかったのである。綿布、綿糸、燈油、釘、針、換言すれば、かっては手工業の製産物により供給されたものに代る商品の輸入がたえずその量を増加しつつあることは、中国手工業の全般的な没落を明らかに明示している。” (“中国農村間題”杉本俊朗訳より)
中国農村は、かくして、家内工業を次第に失っていった。農民は商品経済の農村侵入と必死に戦わねばならなくなり、そのために、各地で農民騒動が頻発した。そして“多数の農村生産機構から遊離した農民を基礎として大規模な農民戦争が惹起された。支那において最大の農民戦争であるところの大平天国革命(1850~64)はこうした条件の上に行なわれたものである。”(尾崎秀実、支那社会経済論、P.66)
南京条約は、農村家内工業をつぶし、マヌフュクチュアの芽生えも、もぎとり、さらに近代工業の発展さえも、半植民地化によっておさえてしまった。それゆえ、過剰人口は激増するばかりだった。“農村住民の状態は、ちょうど首だけだして、いつまでも水中に立たされている人のようなもので、少しでも波が立てば溺れ死んでしまうより外ない。”(トーネー“支那農業と工業”、沼田政次、“南支の農業、農村”から転用)こういう原因から、南京―北京条約以来、農民層の分解は急激に進んでいった。南京条約締結のころの中国本土(外蒙、チベット、満州を除く)の人口の中8割以上が農民であったのだから、農民層分解によってプロレタリアに転落したものの数も莫大であった。“1934年の調べであるが、この時には、全体の4%にあたる地主が全国の半分の耕地を所有している。これに反して、全国戸数の70%を占める貧農および雇農がわずかに17%の土地を所有しているにすぎない。”そして南支は小作人が圧倒的に多い。1933年の広東州における土地所有比率では“地主は全戸数の2%であるにかかわらず、その所有耕地は53%、貧農および雇農は全戸数の74%で、その所有耕地はわずかに19%にすぎず、1戸当りの所有面積は平均7.8畝である。”(尾崎、前出)
土地を失ったものは、小作、雇農、クーリーになって農村にとどまるか、都市へ流れて、力車引き、下男下女、運搬人夫、クーリー、浮浪人、乞食となった。また一部は軍閥軍隊の傭兵になった。こうして、都市は貧民によって過剰人口があふれるようになった。
中国の社会がこんな状態であったとき、黒人奴隷を使ってプランテーションをやっていた新大陸の各地で、奴隷解放がつぎつぎに行われ、その補充として安い賃金の労働者が求められていた。また“19世紀後半期から、ヨーロッパやアメリカの先進国で始まった「技術革命」は多種多様の自然資源に対して新しい需要を大量によびおこした。コルク、鉄、錫、銅、亜鉛、ニッケル、金、白金、銀、水銀、砒素、石炭、ゴム、石油――これらのものはヨーロッパから少量しか出なかったか、全然なかった。
ヨーロッパの企業は、それらを求めてアジア、中央アフリカ、マレー半島、そして大平洋諸島へ出かけた。そのため、1876年から植民地獲得の競争が猛然とおきた。
そして、それらの地方で鉱山や石油を開発し、ゴム園を経営し、鉄道を敷設し、電信・電話線をひき、工場を建設する事業が行われた。” (世界の歴史、13巻、P.172、中央公論社)
それらの地方でも安価な労働力が大量に必要だった。現地住民を使用できたところでは彼らを酷使したが、現地住民の数が少かったり、労働に適さなかったりしたところでは、外部から労働力を輸入しなければならなかった。浮浪者と失業状態の極貧者が充満していた中国に、企業家が目をつけたことは当然で、いわゆる“クーリー貿易”といういまわしい“人間の輸出”がこうして発生した。
クーリー貿易はアフリカの黒人奴隷貿易に代るもので、1830年ごろから、かって、黒人貿易をやっていたポルトガル人が、中国人のボスを使って、浮浪人や極貧者を誘拐して、ひそかに禁を犯して、海外へ輸出していたもので、1874年まで、度々の禁令を無視して、中国法権の及ばない香港およびアモイ(ポルトガル領)を根拠地とし、ここにbarracoonとよばれる監獄式の収容所を設け、寄せ集めてきたものを船の出帆までここに拘禁していた。1船には、ふつう、300人ないし700人を積みこんだ。売価は1名400元ないし1000元、黒人奴隷と全く同じ取扱いであった。(根岸佶、華僑集記、P.27)
クーリーの労力輸出は、そもそもはインドから初まった。イギリスの植民地となったインド人の悲惨な状態は中国以上であった。イギリスは、1834年黒人奴隷を解放した植民地のplantationを続行するため、インド人クーリーを往復の旅費と賃金を支給するという条件で、5年間の年期契約の労働者として使用した。これは、17~18世紀にアメリカ合衆国へ盛んに送ったindentured servant(年期奉公人)と同じものであった。
大量のインド人クーリーはMauritius群島の砂糖農場へ送られた外、英領Guiana, Jamaica, Trindad, Natal, およびCeylonの茶園やMalayaのゴム農場へ送られた。ブラジルでも、砂糖農場やコーヒー農場の労力補充のために、度々、中国人クーリー輸入が企てられ数百名が試験的に入れられただけで、反対者によって、その実現が阻止された。
中国人の“クーリー貿易”は、黒人奴隷貿易にひとしいものであったので、イギリスの干渉で、インド人クーリー同様の自由意思による契約労働移民ということに改められたが、それは全く形式的なもので、実質的には、ほとんど変らず、1874年まで度々の禁令やイギリスの干渉をくぐって続行され、最後の25年間だけでも約50万人が輸出された。
クーリー貿易は、初めは海峡植民地開発のために起きたもので、輸出の中心地はペナンおよびシンガポールであった。契約労働移民ということになってからの主要な就働地はキューバとペルーであった。
ペルーには、1850年から1874年までに約10万人ぐらい入国しているが、“歴史家Mariano del Rioの推定によれば1860年から1870年に至る10年間に40.301名の苦力がシナ大陸からペルーへ向ったが、このうち上陸したのは38.648名であった。即ち、きわめて輸送条件が悪かったために航海中の死亡率が高かったということを示している。同じくdel Rioによれば、1826年には1.716名の苦力がペルーに向うべく乗船したが航海中死亡したものは713名に及んだ。“今世紀のはじめ頃ペルー海岸のhaciendaで作業に従事していた苦力の生活条件を観察した人の談話によると、労働条件はまさしくドレイのそれと変らないということであった。例えば、haciendaにおける苦力は5人を1組として相互に鎖でつながれ、その幾組かについて1人の監督がおかれている。契約期間中に苦力が農場から他の農場へ転売されることもごく普通のことであった。”(斉藤広志、ペルー在住日系人の人口と家族、“ラテン・アメリカ研究”第2号)
クーリーに落ちぶれない自作農でも、小作農でも大部分の耕地が零細な上に、過重な税金と高い小作料のために、自分の土地を耕すだけでは、“飢餓にたえる術”をもってしても生計がたたない。それで家族のもののだれかが食ぶちをへらすために、雇人やクーリーとなって稼がねばならない。中には幼い女の子を家庭奴婢として売ることさえ、20世紀になってからもふつうに行われていた。
南京条約および各国と結ばれた通商条約で海外への渡航が自由になると、貧農の最も多い福建・広東両省から、マレー半島を始め、蘭領のジャワとボルネオ、ビルマ、インドシナなどの東南アジアや南洋諸島へ出稼するものが激増した。彼らは、クーリー貿易で売られていくものではなく、自発的に、アモイやスワトウや香港で南洋との取引をやっている同郷の商人をたよって、それの周旋で、南洋各地へ出向く帆船に乗って行く。大きな帆船は2百人くらい乗れたが、20~30人ぐらいしか乗れない小さなものあった。シャムへ行くのにはスワトウを出帆して1ヵ月ぐらいかかったが、たいがいのものが、瀬戸物の水入一つ、着更一着、笠と蓆を一つづつという実にみすぼらしい旅支度であった。そして、船賃が払えないものは周施人から借金して行ったし、出稼地から郷里への送金も、この同郷の商人に依頼した。
クーリー貿易で出たものもそうだったが、南洋へ出稼に行く者も、ほとんどが20才から30才までの未婚者か、妻子のあるものでも、みんな単身で出かけた。中には、出稼に行く前に、わざわざ結婚して、新妻を残して行くのもある。これは、中国人の家族制度的観念から、留守中の家を守り、祖先の祭を行わせるためである。こうして、海外へ出稼に出ている中国人を、彼らは“華僑”とよんでいるが、これは海外に僑(仮住い)している中華人ということである。そして、彼らがもっとも活躍しているのが東南アジア・南洋方面で、19世紀末に南洋方面にいた華僑の数は600万に達したという。しかも、これらの大部分が福建、広東の出身である。
南洋華僑は大部分が商業面で活躍しており中には莫大な資本を動かしているものも多いが、初めは、安物雑貨の行商、ささやかな小売商などをやって着々と貯蓄して行ったのだ。前掲の根本氏の“華僑集記”によると“南洋に出かけた未婚の華僑はもちろんのこと、郷里に妻を残してきた既婚華僑でも、少し暮しがよくなると、土着人の女を妾として娶るものがかなりある。そして、何年かの後、貯蓄をたずさえて故郷に帰り、家を新築したり、祖先の墓を祭ったりして、また出て行くのだが、そんな場合、未婚の者は出稼地に妾として“現地妻”のある者でも、郷里で正式に結婚して、また単身で出て行くのが多いが、このように郷里に正妻、出稼先に現地妻をもって、家が二つあるものを“両頭の家”といっている。
最後に華僑発生の社会的な原因を尾崎秀実氏の“支那社会経済論”の一節を借用して要約することにしよう。
“華僑の国外流出はこの時代(19世紀中期)において特に社会経済破壊の事情を反映して急激に多くなってきたのである。華僑は海外への移住者であるが、国内移民であるところの満州への移民も、やはりこうした条件の下に急激に19世紀初頭以来増えてきたのである。資本主義商品の侵入は直接生産者と生産手段・生活資料との分離を決定的なものにし、そしてこの進行に応じて生産部面から遊離したところの労働力が、国内市場においては充分に吸収されないので海外へ溢れ出るという形をとったのである。”
以上述べたことで、主要な出移民国から移民が出る社会経済的原因についての輪郭は、かなり判然したことと思う。日本移民の場合も、移民が出る原因は、根本的には全く同じで、やはり、世界史に連なる資本主義の発展による歴史的、時代的な社会現象である。
しかし、日本の場合は、第2次大戦前までの半世紀にわたって、海外へ移住したものは僅か60万にすぎない。日本からはなぜこのように移民の流出が少かったかということがむしろ問題になる。
そして、日本移民もイタリア移民や中国の華僑同様に出稼型であるのだが、日本における資本主義の特殊な発展の仕方が、どのように農村に影響し、どのように農民層を分解させたかを見ることにしよう。
6.日本移民とその社会的背景
日本の近代化は、明治維新(1867)によって封建制の徳川幕府が倒されてから始まった。日本における商品・貨幣経済は、18世紀にはかなり進展を見せ、農村への滲潤は封建的農村の自然経済を次第に崩して、地主の高利貸化と農民の貧窮化を進行させたことは、封建制崩壊期における各国の農村の状態とも全く同じであった。日本でも貨幣経済の発達によって苦しくなっていく封建領主の財政は、もっぱら農民からの貢租の増徴となったので農民の困窮はひどくなるばかりだった。
生産物だけでは貢租が払えないものは、売買質入禁止となっている農地や山林の一部を、地主や商人に売りわたしたり、質入したりして、次第に零細農化し、小作人化して行く反面、土地を手に入れた富農や商人たちは、次第に高利貸化した地主となっていった。そして土地を零落した農民に小作料をとって耕させる寄生的不在地主となっていった。こうして、18世紀ごろから、かっての領主(支配者)対農民(被支配者)の関係は、農民の中から、さらに地主と小作人という生産関係を生み、日本における農民層の分解が進展していった。
農民層を分解させた商業・高利貸資本は、没落した貧農や小作人たちの在来の家内工業まで奪いとるようになった。都市における商品経済の発達は、農家の自給的な手工業製品を、農業だけでは食べていかれなくなった農民の副業として口銭を稼ぐために作る商品とした。そのために、農民は手工業製品においても小商品生産者となった。しかし、それら商品、主として綿糸、綿布、絹糸、絹織物であったが、貧農や小作人らは、これらの商品を作るためには、原料、器具などを買い入れる資金がなかった。そこで、商人化した地主や、地主化した商人から、原料、器具を、すなわち生産手段を借りうけ、賃労働する、いわゆる問屋制家内工業が発生した。かくして、農民は農業面では、窮極的には土地を持たない小作人となるが、それだけでは家計がまかなえず副業として、問屋制家内工業の賃労者となった。しかも、零細農民と地主および商人に対する関係は、けっして、資本主義的な資本家対賃金労働者のそれではなく、あくまでも封建的な機構の中で、地主と商人による徹底的搾取による労働であった。それゆえ、副業として家内工業に過重な労働をつぎこんでも彼らの零細化と貧窮化は少しも緩和されなかった。
このような窮乏にたえられずに離村するものが出るようになったが封建制下では家族をあげて他の封建領や都市へ出ることはむづかしかった。まして、きびしい鎖国政策のために国外への移住など思いもよらぬことであった。また、農民が他の職業へ転じることも禁じられていた。それで、農村での生活にたえきれなくなったものはひそかに逃亡するものが多くなった。また、二三男や娘たちで都会へ出稼に行くものもふえてきた。農村の人口はほとんど増加しないのに、江戸が18世紀末には136万余もあり、おそらく世界一の大都会であったといわれている。また、商業都市大坂は1843年(天明13年)総人口35万を数えた。
しかし、鎖国政策のためと、国民の大部分が貧しい零細農であるため国内の商品市場は狭く商業都市といっても、大坂以外には目ぼしいものはなく、マニュフアクチュアも発達が不充分で、農村から流出する貧民をことごとく吸収することはできなかった。都会に出た貧民は、多くは日雇人夫や奉公人となり、あるいは、その日暮しのしがない商売で生計を支えていたにすぎない。それもできないものは、浮浪人や乞食になったが、19世紀には、この浮浪人や乞食の数は相当目だった存在になっていた。
また農村では“窮乏にたえる術”をいろいろ工夫しなければならなかったが、もっとも悲惨なものは、最後の手段として、一家の口べらしのために、出生児を闇に葬る“間引”“やおろし”が全国的な風習になったことがある。この風習は、農民の間だけではなく、下層武士の間にも行われた。彼らも領主からの俸録が少なく生活は苦しく、家庭で種々の内職をやるものが多かった。ひとりかふたりの子供を育てるのがふつうで、生活の豊かな家でも、3~4人にすぎず、5人以上も子供を育てるのは稀であった。
そして、間引はふつう“女の子に多かった。たいていの村の男の人口にくらべて女は一割か二割は少く、なかには男3百人に、女2百人という比率のところもあった。”(残酷物語、第5部、P. 264)
徳川時代は、戦禍に苦しむことはなかったが、それに代って1732年、1784年の飢饉および1837年全国を襲った天保の飢饉はおびただしい犠牲者を出した。その結果、18世紀の初頭から明治維新までの約150年間の人口は、ほとんど停滞して“概算2800万から3000万の間を上下したものと見てさしつかえなかろう”といわれている。(本庄栄次郎、日本社会経済史、P. 496)
ヨーロッパにおいては、18世紀から激増し初めた人口は19世紀には驚異的に増加したが、日本では明治維新までは、ほとんど増加しなかった。
出生児の殺害や堕胎、および農村からの逃亡は、いわば無力な農村の消極的な抵抗であったが、窮余のあげくの積極的反抗を示す農民一撥も盛んになった。(19)
(19) “農民は規定の手続をへた詐願が容れられない場合、かれらは徒党をくみ、暴力によって、武士を脅迫し、あるいは村役人、富豪らに暴行をくわえて、その主張を強要しようとするのであった。竹槍、鍬、鎌などを武器とし、法螺貝で気勢をそえ、蓆旗を旗印とした。それは封建的支配に対して暴力をもって反抗するもっとも端的な斗争形態であった。
また逃散も初期においては一家族または数家族がひそかに逃亡したにすぎないものであったが、後には公然と徒党を組んで行われるようになり、一種の百姓一撥となった。”(楫西光速、日本経済史)
封建制をこのように崩壊にみちびいたものは、貨幣商品経済の発達であるが、このために苦境に立ったものは、農民ばかりでなく、封建領主も財政は困難をきわめた。そのために農民からの貢納はますますきびしくなったのであるが、後には、農民からの貢納だけではやりくりがつかなくなり、商人から借金という形式で、しばしば、過重な金額の援助を受けたが、多くの場合、これは返金されることはなかった。領主の苦しい財政は、多数の家臣を養い切れず、武士もまた貧乏生活をよぎなくさせられたが、そのために、領主を見すてて浪人となるものも多く、これらの中から農民一撥を指導するものも現われた。
商人は零細小作農を基礎とする封建制下においては、本源的蓄積もできず、産業資本への進転も不可で、封建制に対する不満は大商人ほど痛切に感じていた。
以上が明治維新が起きるまでの約150年間の日本の社会の状態であった。
1867年に、徳川幕府を倒した政治・社会革命は、急進的な下級武士や浪人の指導によって、有力商人の資金の援助をえて達成したもので、農民はこの革命には単なる傍観者であるにすぎなかった。貧しい農奴的な農民には、ごく狭い地域的な一撥を起すのがせいぜいで、フランス革命に立ちあがった自営農民のような力はなかった。
農民が明治の革命に参加できなかったことは農業における封建制を徹底的に改革することにならなかった。封建制が打破され新政権が樹立されて、身分制がなくなり、農地の売買、転居、職業の自由を与えられたにもかかわらず、地主対小作人という生産関係はもとのまま存続したので、農民の大部分を占める零細農や小作人の立場は根本的には変化しなかった。明治維新は、それゆえ、革命として政治的には成功したが、社会的には封建制を根こそぎくつがえすことができず、不徹底なものに終ったことは、イタリアの南部および島部の状態とにていた。明治維新後の10年間に190余の農民一撥が起きたことを見てても、この革命によって農民の不満が一掃されなかったことがよく判る。
前述したように、19世紀になってから都市にいや、農村にも浮浪人や乞食がうようよしていたが、明治になっても、これら無宿者の数はおびただしかった。
どこの国でも、近代移民のさきがけとなったものには、浮浪人、乞食、犯罪人などが多かったが、この現象は日本でも同じことであった。奴隷労働に代る安価な労力を探し求めていたものが、日本のおびただしい浮浪人や失業者群に目をつけたことは当然であった。
徳川時代に、莫大な貧窮農民が現われてもこれが移民となって国外へ出て行かなかったことの一つの原因は、鎖国政策によって諸外国との通商条約が結ばれず、外国に対して門戸がかたく閉められていたためであった。ところが、幕未になって、欧米の先進国から強要されて通商条約を結ぶことをよぎなくされたのだが、その結果、日本における近代移民のさきがけとなりドイツ領、グワム島の要塞の農作者となったものや、ハワイの砂糖農場行の契約労働移民が出たのが、1868年であった。この名誉ある先駆移民はグワム島行42名、ハワイ行153名で大部分が20代の独身者であった。そして、彼らはドイツおよびハワイ政府(当時は独立王国)の代理人が徳川幕府から許可をえて横浜でよせ集められた、失業者・浮浪人たちで農業者は極めて少く、いわゆる“食いつめ者”に類する者や飲酒とばくの悪習にそまり、けんか早いスレッカラシ者が相当多くまじっていたのも当然であった。
グアム島へ渡った農耕移民42名の中、契約の3年を終えて帰国したものは28名で、残りの14名は悪条件のもとでの酷使にたえずに死亡した。実に3分の1が3年間に生命を失ったのだが、辛じて逃げ帰った者のひとり宮村菊造が語ったことは、この当時の移民希望者がどんなものであったかをよく示している。
“私はこの宮村(甲府県)の百姓であったが、父母は先年死没し、妻ともども農業を営んでいた。ふしあわせのつづきで貧窮におちいり、いささか所持の畑は残らず質に入れ、活計たちかぬ、11年前、宮村を逃亡して無宿となった。駿州吉原宿辺をあれこれ日雇稼ぎをしていたが、はかばかしいこともなく、武州横浜には奉公口もある趣を知り、慶応4年(1868年)4月はじめ、かねて知人の駿州厚村百姓定兵衛と申し合せ、ともども横浜に出た。同月8日、入舟町奉公口入屋亀屋粂八方に参り、身分の世話相たのみしところ、その節神奈川奉行よりのお達しにて、ドイツ国へ農業人夫42人差遣わすことになっており、人選中のことであったので、是非行きたいとたのみこんだ。年期は3ヵ年で月給は4ドルになるという約束、翌9日、定兵衛ともども亀屋粂八に伴われて、元締屋半兵衛方に赴いたところ、私どものほかに38人の者追々相揃い、右のうち生国不存安五郎、勢州伊三郎は仲間世話人になり、右両人にて奉行所の証書(旅券)三通を半兵衛より渡されました”(日本残酷物語、第4部、第4章)
(20) なお、“日本残酷物”には、世界各地へ出稼した初期日本移民の悲惨な事情が詳細に記述してある。
また、1869年(明治2年)には東京で集めた浮浪人5百名を北海道の開拓に送っている。1872年(明治5年)にロシア皇子アレクセイが日本を訪れたとき、主要な場所の乞食を収容して皇子の目につかぬようにしたこともある。とにかく、明治になっても、このような極貧者は各地に充ちていた。それゆえ、“クーリー貿易”業者はしきりに、これらをほしがったが、日本からはクーリー奴隷ににた海外出稼がほとんど出なかったことは、新しい日本政府が断呼として奴隷貿易に反対したからであった。
グアム島行の契約労働移民の出発につづいて、ハワイ行移民をのせた船も出帆すべく準備中だったが、このときすでに徳川幕府から政権を奪っていた新政府は、奴隷貿易に反対の立場からハワイ行移民の出国許可を取消してしまった。ところが出稼人153名をのせた船は、夜にまぎれて無断で出港してハワイに向ってしまった。
また、言論界も、ハワイ出稼にはきびしい攻撃を与えた。1868年閏4月3日の中外新聞はハワイ行移民は“いわゆる黒奴売買の所業にひとしき事にて、此の如き所業は万国の法例にもとり、且つ無辜の邦人、狡猾の外国人に欺かれ、利益はことごとく彼らに奪われ、憐むべし日本人は酷暑の気候と辛労煩苦に堪えずして疾病にかかるのみならず、万一如何ほどの惨酷の処置に逢うとも訴える処なく、たとい死すとも期限中は故郷へ帰る路なく不祭の鬼となるに至らん。嘆惜すべきの甚しきにあらずや……”と論じたている。
日本政府は、この不法行為に憤慨してハワイ政府に対し、不法に連れだされた日本人民を移民と認めて上陸させたことにきびしく抗議をし、移民全部を即時送り返すよう要求したが、結局、帰国希望者41名だけを即時帰国させ、その他は契約満期後ハワイ政府の費用で帰国させるということで、この事件は解決した。
このいわゆる“元年者”移民は、輸送中も就働耕地でも奴隷とあまり変らない悪条件で酷使された。佐久間米吉という移民が書いた渡般日記を見ると、喫煙禁止の規則を破って手錠をはめられた者もあり、理由は明記してないが“二人召捕り手錠をはめられ候”ともあって、ささいなことで手錠をはめたものらしい。彼らはハワイの四つの島に分散就働したが、その中のマウイ島では、働きが悪いとて3人が牢に入れられた。その他に首をくくって死んだものがひとりあった。これらのことを見ても、少くともクーリーなみの取扱いであったことが分る。(ハワイ日本人移民史より)
新しい建国の理想に燃えた明治政府が、浮浪人や無宿者でも、“クーリー貿易”の食いものにされることを傍観しなかった態度はさすがに堂々たるものであった。
また、1872年(明治5年)に、中国の禁令をくぐってポルトガル領マカオで買いとった中国人クーリー230人をのせたペルー船が、ペルーへ向う途中横浜へ入港したが、そのとき、虐待にたえかねたひとりのクーリーが脱船して投錨中のイギリス軍艦に救いを求めたことがある。日本政府はその艦長の要請によって奴隷売買は国際法違反であるとして、ペルー船にいたクーリー全部を解放して中国へ帰らせたことがある。
しかし、ペルー政府は、日本政府の処置に対し、日本にも人身売買の事実があることを指摘して不当をなじってきた。そこで、虚をつかれた形であったが、日本政府は、ただちに(1872年10月)“人身売買の禁令を出し、娼妓などの年期奉公人を解放し、農工商の徒弟奉公の年期も7年をすぎてはならぬと命じた。吉原の娼妓はいっせいに車に荷物をつんで帰郷したため、一時火の消え寂しさになったと新聞記事に出ている。”(“日本の歴史”第10巻、P. 193、読売新聞社版)
日本政府は、国内における人身売買を禁じるとともに、移民がクーリー貿易の喰いものにされるのを防止するため、“帝国外ヘ移送スル目的ヲ以ッテ人ヲ略取マタハ誘拐シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス”という人身売買国外移送罪を刑法で規定したほどである。しかし、奴隷にあらざる外国への出稼ぎは、その雇用期間を1年に限定して出国を許可することにした。それゆえ、その後、オランダ、オーストラリア、ハワイ、アメリカ、ロシアなどから大量の日本人労働者を勧誘して来たが、いずれも契約期間が1年以上であったので出国を許可しなかった。こういうわけで、外国への出稼ぎは事実上禁止状態にあった。
とにかく、明治政府の移民に対する人道的な考慮にもとづく処置は、浮浪人や極貧者が“クーリー貿易”によって海外へ流出することを防止したが、その反面、国内の過剰人口をいやがうえに増大させ、農民は封建制から解放されても貧困からは依然として解放されなかった。その結果、貧民は国内においてクーリー的存在となり“インド以下的賃金”という劣悪な労働条件の下で生活することをよぎなくさせられた。
日本が明治維新の革命によって封建制を倒し近代国家として出発した1867年には、イギリス、アメリカ、フランスなどでは、資本主義的発展はすでに帝国主義の段階に達しており、近代国家としての機構を整備していた。明治政府は、これら先進資本主義国にならって、中央集権国家としての組織を確定するために“富国強兵”および“殖産興業”の旗印しのもとに、近代的軍隊の創設やそのために必要な軍事工業を中心に近代的工業および鉱山業を国営で興し、鉄道敷設、船舶建造、通信機関の設備、さらに諸官庁、警察の整備を全力をかたむけて遂行した。政府はこのために必要とした莫大な経費の収入源を確保するために1873年(明治6年)断行したのが地租改正であった。この改正は維新以後における農民層の分解を決定的にする契機となったもので、近代日本史において、あるいは日本資本主義発達史において特筆さるべきことである。
封建制時代の地租はいうまでもなく物納であった。それが金納に改められた。このことは資本主義を標望する国家として当然のことであったが、農村には、まだ商品経済が確立されていなかったとき、すなわち、農産物の商品化が充分に行われておらず、自給的家内工業の原料となるような自給的作物の栽培が、盛んに行われていた時代に、いっきょに金納地租になり、しかも、その税率が苛重であったということが、農民をうちのめした。
次の表は、明治政府が新国家の基礎を築くための資金源を国民の80%を占めた農民の地租にいかに依存したかを示している。
| 地租 | 商工税その他 | 計 | |
| 1875~1880 | 80.5 | 19.5 | 100 |
| 1880~1884 | 65.6 | 34.4 | 100 |
| 1884~1889 | 69.4 | 30.6 | 100 |
(E. H. Norman, “日本における近代国家の成立”P、126の表を要約した。)
農民は主要作物の米を売って辛じて苛重な税金を支払ってきたが、1880年(明治13年)から始まった不換紙幣整理によるデフレーションで、1881年に11円20銭だった米価が、1884年(明治17年)には半分以下の5円14銭に暴落して全農村を絶望的な悲劇にまきこみ、金納地租による農民の分解に追討ちをかけた。
このため“1883年(明治16年)より1890年(明治23年)までに地租滞納のため強制処分をうけた者は36万7千人もあり、1884年から1886年の3年間だけで全耕地の7分の1が負債のために抵当流れになった。かくして多数の小農経営者が解体して小作人に転落したり、都会へ出て貧民層の中にとけこんで行った。そして、競売にされた土地は、ほとんど富農や高利貸商人の手に落ちて、ほとんどが小作地になった。1883年から1890年まで8年間が日本における農民層分解のもっとも激烈な時期であった。”
不幸なことは、離村する農民を吸収するマニュフアクチュアの発達が不充分であったし、政府によって設立される各種工場の収容力もまだ弱少で(19)いったん都会へ出たものでも失望して再び農村にもどり、猫の額ほどの小作地にでも争ってすがるという有様であった。
(21) 1885年(明治18年)の全国工場調査によれば、民間工場の職工数は、わずかに2万余でこのうち半分以上は女子と子供であった。官営工場、鉱山、交通などの労働者数は不明である。(大内力、“日本資本主義の農業問題”P. 168)
野呂栄太郎の、“日本資本主義発達史”(三一書房版、P. 171)で、1886年(明治19年)から1889年に至る3ヵ年間に土地を収奪されて農村を去った農民およびその家族を、農村と都市との人口増加の割合から計算して、1.225.853人という数を出している。しかし、前述したように都市にとどまったものでも、満足な職にありついたものは少数で、大部分は貧民となって都会の底辺に沈んでいたであろうということは、1896年(明治29年)の日本の貧民の状態をつぶさに調査した横山源之助著“日本の下層社会”で充分想像できる。それによると、当時の東京の人口は136万余、貧民窟は至る所にあったが、本所、深川、浅草には最も多く、その職業は人足日傭を初め車夫、車力、土方、屑拾、人相見、らおのすげかえ、下駄の歯入、水まき、蛙取り、棒ふりとり、溝小便所掃除、古下駄買、あんま、大道講釈、かっぽれ、ちょぼくれ、かどづけ、盲乞食、盲手引などありとあらゆるものがあった。
こういう事情で、日本の農業は、このように農民が困窮しながら、農民層の分解が中途半端であったということである。すなわち、富農や高利貸商人が脱落して行く農民の土地をどしどし買いあげて、資本主義的な経営の大農場とせずに、半封建的な小作経営としたことである。これは、水田を主とする米作農業が当時の機械や技術、土地の利用形態上の悪条件から、資本主義的大農経営には不適当であったことであるが、それに、どんなせまい土地でも高い小作料を出して働きたい人間がうようよしていたということは、小作料に依存する寄生地主として農地を経営する方が有利であったためである。(22)
(22) 日本では高額地代の魅力にひかれた地主や高利貸は自ら農業経営を引きうけるために旧来の小作人ないし自作農をことごとく放逐しようとは思わなかった。(ノーマン、日本における近代国家の成立、P、216~7)
米田の小作料が収穫高の60%というように異常に高率であるため“地主たち 商人、高利貸、豪農は土地に投下した資本からかような高率の収益を期待しうるうちは、寄生地主から農業企業家に転身しない。”(ノーマン同上、P、222)
こうして、1883年(明治16年)から1908年(明治41年)にかけての約25年間に、小作地は全耕地の37%から45%に増大した。しかも、かれらは地主の土地を小作するだけでは、とうてい生計を維持することはできない貧農である。農業だけで生活のできないものは、小作人ばかりではなかった。
大内教授は土地の面積が「技術的に家族だけで経営できるが、経済的には農業だけで生活しえない農家、したがって、つねに農業外に労働力の消化を求めなければならない農家を過少農と名づけている。東北地方では二町以下、南西地方では1町5反以下が過少農に属し、日本の農家の90%はこの過少農であるといっている。(日本資本主義の農業問題、P、10~12)
それゆえ、1町歩以下の自作農になると、ほとんどが小作を兼るか、副業の炭焼、荷車ひき、わら工品作りなどをやるか、日雇、出稼をやるかしなければ食べていかれなかった。とくに生計の苦しい自作農家では、明治・大正時代でも堕胎はひそかに行われたし、女の子が働けるようになると前借りという名目で売られることは人身売買禁止令など無視されて当り前のように行われた。
政府は生活苦に悩む過剰人口のはけ口を海外よりも、むしろ北海道の開拓へ向けるべく、家ぐるみの彼の地への移住を契励した。そして、最初は防備の目的も兼て明治維新で失業した士族を募って移住させ、さらに、農民の移住も奨励したが、1891年(明治24年)までは東京と青森間の鉄道が開通しておらず、1884年までに、やっと8万6000人の移住者があったにすぎなかった。
こんな事情で、海外への出稼は禁止状態だし、北海道への移住も順調にのびず、このまま放置しておけば、全国的に社会状勢は憂慮すべき事態になることを恐れた政府は、農民の北海道移住を積極的に奨励し初めた。これに応じたものは、ほとんどが土地を持たない窮民で、そして、大部分が北海道に近い東北、北陸地方の農民であった。こうして北海道への移住は1885年(明治18年)から増加しだし、青森までの鉄道完成(1891年)から1920年(大正9年)ごろまでが北海道移住の全盛時代で、これまでに約160万余の移住があった。もっとも、単身の出稼者も多かったが、家族ぐるみ故郷の農村を去って移ったものも次のように莫大な数であった。
安田泰次郎は1896年(明治19年)から1896年(明治29年)間に北海道へ移住した者を、出身県別に算出し、数の多い順に第10位までを次のように示している。数は戸数である。
(1) 石川県 10.035、 (2) 青森県 9.943、 (3) 新潟県 9.135、 (4) 秋田県 6.949、 (5) 福井県 6.035、 (6) 富山県 5.405、 (7) 岩手県 4.136、 (8) 山形県 3.651、 (9) 徳島県 3.151、 (10) 香川県 2.841。
また、1886年から1922年までの通算では、順位は、青森、新潟、秋田、石川、富山、宮城、岩手、福井、福島となり、東北、北陸が圧倒的である。徳島と香川が一時10位以内に入ったのは、同地方の藍栽培がドイツのインジコ輸入のためにつぶれた結果である。
北海道への移住が、まだ僅少であったころ、1883年(明治16年)オーストラリアの木曜島から真珠採取の潜水夫を求めてきた。契約年限は3年であったが、“右は賎役を執る出稼の人夫とは性質をことにし、まったく潜水の技術をもって少数雇われ候事”という理由で、37名に渡航を許可したが、雇主が完全に義務を履行するように物的担保までとったほど慎重をきわめたものであった。けだし、木曜島の真珠取は、日本における技術移民の先駆者であった。しかし、農村の惨状は、こんな体裁のいいことをいって海外への出稼をあくまでも圧えているわけにはいかなかったほど、ますます深刻さをましてきた。背に腹はかえられなくなった政府は、ついに、ハワイ出稼移民を許可することに踏み切り、1884年(明治17年)出稼労働契約書に相当する“日布渡航条約”を結んで、国営事業として、その翌年から、18年ぶりにハワイ行移民の渡航を許可し、全国の県知事に対して移民を奨励するように命じたほどであった。日布渡航条約には、移民の契約年限は3年、往航の旅費はハワイ政府が支払う。給料は月12ドル50セントなどが規定されていた。この契約によって出た移民を両国政府の契約によるものであるということで、通俗に官約移民とよばれていた。
このようなすばらしい条件でハワイ行出稼ぎの道が開けたことは、日照りつづきにあえいでいた時に雨雲が現われたように、移民募集地(東北、北陸地方が北海道行移住者募集の縄張り地域のようになっていたので、ハワイ出稼人の募集は主に関東以西および四国、九州方面で行われた)をざわめかし、最初の渡航に応じた者は2万8千人に達したが、乗船できたものは944人だった。このうち、約半数は山口県から出たが、そのころ、“山口県大島郡では、日傭農の1日の賃金11~2銭、木工15銭、石工17~18銭、鍛工15~6銭、職工8銭、僕6~7銭、婢2~3銭、米価は1俵3円70~80もした。大島郡は当時約7万の人口で、1里4方に7千余人という押しあいへしあいの状態の上に、他郷に出稼ぎの男女も雇主がなくて帰郷するものが多いので「このままにて1両年を通さば餓死するものも出来るならんと思わる」と明治18年(1885年)9月5日付の防長新聞は報じている。”(ハワイ移民五十年史)
その他の地方もにたりよったりで“その第1回のとき渡航全員の所持金を洋銀に交換したところ、すべてで9百円しかなかったという。”ひとり当り1円に足りない貧しさだ。“その服装するまちまちで、明治元年渡航の者よりはみじめであった。なかには単衣の着流しに下駄というのもあり、印半纏に股引草鞋というのもあった。”(日本残酷物語、第4部、P、345~6)
ハワイ移民は、日本とハワイ両国政府の移民渡航条約によって送られたものだったが、かの地の農場における待遇は、やはりクーリー並で、きびしい重労働であった。この当時、日本移民はクーリーのつもりで求められていたのだ。じじつ、それほど惨めな人間であったのだから、金さえ儲かるのなら、2~3年の苦労は問題ではなく、出稼希望者は国内にあふれていた。そこで、この惨めな人間の出稼地を周旋する移民会社が1891年に創立されたが、その後1916年までに大小の移民取扱商社雨後のたけのこのように設立された。中には1回移民を輸送しただけでつぶれたようなのもあったが、創立された数は51社に及んだ。これらがしのぎをけずって、あちこち、出稼地を探し歩いて安価なクーリー労働を提供して、周旋料その他でかせいだのだった。
“「移民会社! 移民会社! 日清戦役後又は日露戦役後、一時事業界の人気を博したのは、この移民会社であった」と横山源之助が“明治富豪史”(明治43年)のなかで皮肉っているが(中略)その大多数が銀行や貿易会社と結託して、零細な移民から手数料をはねることによって経営されていた。”(日本残酷物語、第4部、P. 359)
ハワイ行移民が圧倒的に出た広島の“海外渡航株式会社”が出稼渡航希望者と取り交した契約書の第13条に“移民若シ契約期間中逃亡其他違約行為ヲナシ、雇主トノ契約ヲ履行セズ又ハ如何ナル事情アルモ取扱人ノ承諾ヲ経ズシテ契約ノ解除ヲナシタルモノハ、取扱人ガ耕主ヨリ得ベキ手数料ヲ合セテ男子ハ米貨35ドル、女子ハ30ドル、及ビ第4条ニ記スル消毒所ノ費用一切米貨12ドルヲ移民又ハ保証人ニ於テ弁償スルモノトス。”とある。(木原隆吉、布哇日本人史、P. 512)
このような規定の外に、契約期間中、保険金を会社に払う外、帰国旅費積立金として毎月2ドル50セントを会社へ渡さねばならなかった。そしてこの契約書には日本で保証人を2名たたせられた。会社はこのように、あの手この手で移民から汗のにじんだ金を搾りとっていた。それでも移民は出た。出稼の苦難は農村にいて餓えるよりはるかにましであった。じじつハワイやアメリカ合衆国へ渡ったもの(日本から直接渡航したものよりもハワイからの転住者が多かった)からの送金は郷里をうるおわせた。
こうして、日本移民が移民会社の周旋で出かけた先は、オーストラリアのクインスランド州の甘蔗耕地(1888年、明治21年)、フランス領ニュー・カレドニア島のニッケル鉱山(1892年、明治25年)、フランス領ガード・ルップ島の甘蔗耕地(1894年、明治29年)、ペルーの砂糖農場、ゴム採取(1899年、明治32年)、メキシコの砂糖農場(1899年)フイリッピンのベンゲット道路工事(1903年、明治36年)、カナダの漁業、炭坑(1900年、明治33年)などである。(年代は最初の移民が出た年で、1回だけで終ったのもあり、ペルー、メキシコ、カナダのように何年もつづいたのもある)
日本移民は、アメリカ合衆国へ行ったものを除いては、すべて契約労働者であった。すなわち、ふつう3年契約で渡航費は雇主もちだったが、その代り待遇はクーリーと少しも変らぬ半奴隷的なものだった。だから、どこでも人間らしい取扱はうけず、不潔な住宅を与えられて、苛酷な重労働に甘んじなければならなかった。それでも3年すぎたら、まとまった金を握って帰えれる希望に励まされて、悪条件の下で歯をくいしばって辛棒したものだが、たえきれずに年期を終えずに逃げるようにして帰ったものもあった。(フイージー島移民)
また、1894年(明治27年)ハワイからもうひと稼ぎと、周旋屋の甘い言葉にだまされて、132人が中央アメリカのグワテマラへ転じた。3年契約のコーヒー栽培だったが、奴隷時代そのまま、わずかなことで皮むちで叩かれ、足かせをされ、牢屋へ入れられた。
日本は日清戦争(1894~95)には勝った。そして、それ以来産業革命が急激に進展して近代工業の発達が著しくなっていったのだが農民の生活は少しも変らなかった。資本主義工業の発展は、賃銀労働者を増加した。かれらは、ほとんど農村から供給されたが、農民層分解が、貧農を作って彼らを農村にとどめてしまったため、分解は不徹底に終って、家族ぐるみの離村とならず、零細農家が生計補充のために、次三男や娘たちの余剰労力だけを放出するいわゆる“出稼型”労力提供になった。
しかし、日清戦争後における近代工業発展の中心は、絹および綿の繊維工業で、1900年(明治33年)当時の全国工場の職工数34万余の中繊維工場で働くものが21万2千で全体の6割余を占めているのを見ても分る。しかも、全職工数34万余の中22万余が女工であった。女工は契約年限(ふつう3年)を満了すると結婚のために帰郷するので次から次と、その補充の労力が需要されたし、また、家庭女中や旅館料亭の女中も娘たちの出稼には格好のもので、この数は、むしろ女工の数よりも多かった。しかし、男工の方は数も少い上に、勤続年数が長いため補充の需要も少く、工場に吸収されない大部分のものは、雑多の手工場の徒弟、人力車夫、雑役に従う日稼人足、雇人、下男など貧民層の仲間になるか農村にとどまって過剰人口を作った。
こういうわけで、日清戦争後も、農村は男子の潜在的失業者でいっぱいだった。だから彼らは儲けになる仕事があれば、なんでもいい、すぐとびついていった。
このころには、ハワイ出稼移民からの送金で、移民が出た村々では“だれそれのとこへは何百円金がきた”とか“だれそれかたでは、ハワイから送ってきた金で家を新築した”とかいう噂話が半失業状態の若いものの心を興奮させた。しかし、ハワイ行移民の募集人員は少かったし、ハワイよりもまだ儲けがいいというアメリカ合衆国へは、旅費がただになる契約移民は1885年から禁止されており、私費で渡航できたものは、ハワイからの転航者がほとんどで、日本の農村から出かけられるものはまれだった。そのうえ、アメリカ政府は、日本移民をクーリー並の下等労働者と見なして、極力、その入国を防止しようとしていた。1898年(明治31年)にアメリカは日本へ移民調査員を送ったが、その時の報告に“アメリカ合衆国に入国する日本移民は移民会社の力をかりなくては旅券を得ることさえできないほど劣等なもので、移民会社は移民勧誘員と旅館と、アメリカの大平洋沿岸における日本人旅館および周旋人との連絡によって移民を輸送しつつあるが、アメリカ移民法の精神は、この種々な移民会社によって全く蹂躙されているようにみえる。日本からアメリカに送る移民は、その9割余りは苦力(クーリー)階級に属する下等労働者である。それゆえ、日本人の数があまり多くない今日、これらの移民の侵入を防ぐのは、アメリカ労働者のために禍を未然に防ぐものということができる。”(日本残酷物語、第4部)と日本移民拒否の意向をはっきりと打ち出しているほどであった。
とにかく、日本の農村には渡航費を自弁する自由移民になれるようなものは、まずいなかった。無一文でも行ける契約労働移民になることだけが、彼らにとって救いの手であった。それも、ハワイ以外にはそうざらにはなかった。あっても募集人員が少かった。そんなときに(1903年、明治36年)アメリカ合衆国がフイリッピンの首都マニラから避暑地のバギオに通ずる海抜5000フイートの山缶地の断崖絶壁がつづくところに開いた全長45キロ道路工事の出稼人夫の募集があった。好条件の契約に勇躍して渡航したものは1903年と1904年(明治36~37年)の2ヵ年間に約4000人に達した。
ところが、この道路工事は言語に絶する難工事であった。重労働と劣悪な生活条件と熱帯病とで、工事に着手すると間もなく犠牲者が次々に出た。絶壁の中途にダイナマイトをしかけて逃げおくれたり、断崖に足をすべらして墜落したり、山くずれに生き埋にされたり、マラリアや赤痢にかかったりして、毎日のようにだれかが倒れ、死んでいった。工事は1905年1月に完成したが、それまでの約2年間あまりに三百数十名の犠牲者を出した。これが“50間ごとに1人の割合で日本人が死んでいる”といわれる有名なベンゲット道路で、日本人の出稼移民史の中でもっとも悲惨をきわめたものであった。
日清戦争後における日本の産業革命の進展は目覚ましいものであった。そして、わずか10年後の日露戦争における勝利によって、日本資本主義は、はや独占資本の形成期を迎えて帝国主義の段階へ進んでいった。(23)
(23)“明治以降こんにちまで、日本の資本主義は、やはり三つの発展段階を経過して発展してきたのであるが、そのばあい重商主義段階は――徳川中期以降事実上始まりつつあった過程をしばらくおけば――ほぼ1880年代末まで、自由主義段階はほぼ1907年の恐慌までというふうに、いちじるしく短期に経過しており、1907年以降はやくも帝国主義段階への移行をはじめ、第一次大戦後には、すでに世界の帝国主義国の一環を形成するにいたっている。”(大内力、農業問題、改訂版、P. 55)
しかし、工業面のすばらしい発展にもかかわらず、農業面における近代化は依然として進まず、十年一日の如き停滞ぶりであった。もちろん農業経済そのものは、維新以来、資本主義経済の発展の影響をうけて長足の進歩をとげてきたことは否定できないが、工業面が帝国主義段階に進もうという態勢をととのえようとしている時になっても、農業面の地主対小作という生産関係は、半封建的なまま存続して頑として資本主義的生産関係に発展せず、ますます貧農と小作地を増加させるだけであった。それゆえ、農民層の分解はイギリスのように農民を農村から追い出してしまうという形をとらなかったから、貧農や小作人になったものは、猫額大の土地でも、とにかく土地にしがみついて“飢餓にたえる術”で生きて行くことに必死になった。農村にはこのような人間が充満して、自分の耕地をもたない小作農と、小作を兼ねる過少農が約90%もあり、小作料は総収穫の半分あるいはそれ以上という高額なものであった。
(24) 小農、過貧農、小農制の概念を大内教授の説を要約して規定すると、“自分の家族だけで経営でき、農業だけで生活できるもの”を小農といい、“小農より経営が零細で農業だけで生活できず、何らかの形で、他に労働力を売って生活しているもの”を過小農または貧農とする。そして、小農や過小農が支配的な農業を小農制という。
そして、これを農地面積によって地域的に見ると、北海道では、5町以下が、東北では2町以下、南西では1町5反以下が過小農である。小農は北海道で10町以下、東北で5町以下、南西で3町以下になる。(日本資本主義の農業問題、改訂版)
このように、日本の農村には極めて零細な過小農が圧倒的に多かったのだが、こういう状態になった原因について、大内力教授は次のように説明している。
“日本の資本主義はその後進性のゆえに、外国市場においてはもとより国内市場においてさえ、先進諸国の資本と競争しなければならなかったから、資本の蓄積が、相対的にはともかくも絶対的には、つねに低位におしとどめられざるをえなかったばかりでなく、資本主義が発達しえた限りでは、それは初から資本構成の高い、機械的生産として発達せざるをえなかった。このことはいずれも日本の資本主義の側における農業人口の吸収力を絶対的に小ならしめる原因であったばかりでなく、とくに後者は、農村から吸収される人口を主として女子や子供にかぎる原因となった。”(“日本の農業の論理”P. 178)
こういう事情から、農村の人口は常に飽和状態をこえて、溢れていた。よく使われる言葉だが農村は“水がいっぱいになっている水槽”であった。そして、溢れた分だけが外へ流れ出ていっていた。この流出数は年平均40万ぐらいで、農村の人口は1872年(明治5年)以来ほとんど減少しなかった。しかも、溢れて流出するものは、大部分が単身の次三男や娘たちで、挙家離村すなわち、一家ぐるみ、農業と縁を切っての都市への転住ではなかった。イギリスの“囲い込み運動”時代の農民の流出は、同じ水槽でも、水槽の底に近い部分に割れ目ができて、水は溢れ出たのではなく、その割れ目からじゃんじゃん流れて出て行ったのだ。だから家族ぐるみの離村が徹底的に行なわれたのだが、日本の農村という水槽は上の縁まで溜まるだけ溜って、表面に浮動している、ひとり者の次三男や娘たちだけが流れて出たのである。それゆえ、年に40万ぐらい流れ出ても、農村の潜在的過剰人口は少しも緩和されなかった。
こうして出ていった次三男たちは主に食いぶちへらしのためであったが、娘たちは、家元に送金するために、過労と栄養失調で病気になる可能性の多い紡績女工になるものが圧倒的に多かった。また、娼妓や酌婦に前借で売られて行くものや、女中・小守などの家庭奉公人になるものも多かった。
1910年(明治43年)の職工数は、農務省の調査によれば、総数694.171のうち、女工は381.273で半数以上を占めていた。そして家庭や旅館などの女中の数は女工のそれよりもはるかに多かった。
明治の中ごろの茨城県の惨めな小作人の生活を描写した長塚節の“土”に出てくる小作人堪次の妻のお品は、百姓の仕事を終えると夕方から、村で豆腐を仕入れ、それを入れた手桶を天秤棒でかついで2~3ヶ村を売り歩いた。勘次は利根川の土木工事に出かけていたが、それでも、米のめしを腹いっぱい食べることはできなかった。お品は3人目の子どもができたとき、思いあまって4ヵ月の胎児をほおづきの根でおろしてしまったが、それが原因で病気になって惨めに死んでしまう。
もう一つ、広島県の山奥の小作人茂市一家のことを書いた山代巴の“荷車の歌”では、明治末期から大正へかけての貧農の状態がうかがわれる。茂市夫婦は農閑期には一台づつ荷車を引いて運送屋になったが、山道の荷車引は女には激しい重労働だった。そんな生活をしていたころ、長女が四つの夏、二度目の妊娠をした。
「おろそうか知らん」と夫に相談したが、もし、男だったらおしいと言ったので、おろさずに産んだのは、女の子だった。
「またビク(女の子)か、借金のもとか」と夫は機嫌が悪く、姑も「くそビク、げどうビク」とにくしげに言った。
そして、小さいときは、いつもじゃま者扱いされたビクが、長女も次女も小学校を終えると紡績工場の女工へ、つぎつぎに出稼に行くようになってから、月々仕送してくれる僅かな金額のおかげで、苦しい暮しがどうにか救われたのだった。
横山源之助の“日本の下層社会”にも小作人の生活を詳細に調べてあるが、北陸地方から、そのころ(19世紀末ごろ)北海道への移住者が盛んになりだしたときのことについて次のように述べている。
“移住に至りては数を加えたりしは漸く近年の事のみ、赴く処はいずれも北海道なりとす。皆これ生活の窮鬼にかられて万止むをえざるより移住せる者、余は一面においては之を決したるその勇気を喜ぶというといえども、移住するに至りたる一個の事情が示せる その消息を思えばひそかに暗涙なき能わず。”
“春もしくは秋、かの地よりはるばる事務係出張し、あたかも東京大阪の都会より工女を募集に来る如し、町村の宿屋に「北海道移住人募集」の看板を張り、さらに当地の“口利”をそそのかして小作人を説得し、表面より裏面より移住の可なることを寸小を棒大にして奨め、かくて五十人百人の移住者を拉し去る。”
ハワイを皮切りとする日本移民はこのような状態の農村から出た次三男が主であった。したがって20~30才の者が大部分で、独身者が多かった。
日本移民の海外渡航は、最初から郷里への送金を目的とした出稼であった。それゆえ、中には若い妻や幼児を親にあずけて、しばしの別れのつもりで出かけたものもあった。そして、ハワイやアメリカに着くとまもなく、ぎりぎりに切りつめた生活で、がむしゃらに蓄えた金を郷里へ送ってきた。たかが3年の契約だと思えばこそ、クーリーでさえ堪えられぬような苛酷な労働を歯をくいしばってやり通したのだ。
ハワイ移民が昼はつらい仕事を唱いながらまぎらすため、夜は疲れをいやすため酒をのんで歌った“ホレホレ”節の一つに
“一回二回で帰らぬものは未はハワイのきび(甘蔗)の肥”
というのがあった。一回二回というのは、契約年限を一回ですまして帰るか、2回やって帰るかというのだが、とにかく、1回か2回で、金をためて帰ろうとて頑張った気持がよく分る。またフイリッピンのベンゲット道路作りをやったものの間で、歌われた数え歌の一つに次の句がある。
“五つには、いつかマニラで大金儲けて、日本に送らんせ、思えば軽きネ、身の難儀、いかな辛苦も苦にならぬ。サノサ”
しかし、このような出稼精神は、ついに、出稼地の労働賃金を引下げ、ストライキ破りさえあえてさせることになる。アメリカに出稼ぎした日本移民は、アメリカの労働組合から、排斤をくったのは当然であった。人種的偏見からではなく、社会問題からであった。その結果が1907年(明治40年)の日本移民の入国制限を規定した日米紳士条約である。
そして、すでにアメリカ領になっていたハワイも、またカナダもこれにつづいて、その翌年の1908年に日本移民の入国を制限して門戸を狭めた。
1885年、日本政府が契約移民の海外渡航を許してから23年間に、ハワイ、アメリカその他へ出たものを全部合せても20万そこそこという貧弱な数であった。農村から1年間に流出する数のわずか2分の1にすぎなかった。
日本移民の出稼先が、しかも主要なところが門戸を閉じたことは、なによりも移民会社をうろたえさせた。そのときまでに、幾多の移民会社ができたり、つぶれたりしたが、この当時残存したものは、わずかに数社であった。これらの会社は、周旋業を営んでいたのだがら、何かの方法で周旋料がとれない移民、すなわち、自分の費用で渡航するいわゆる自由移民は会社の利益にならない。これは船会社が儲けるだけである。移民会社にとっては、旅費は雇主がもち、年期契約で働かせる移民を募集して渡航させて雇主に引渡すことによって、雇主からも船会社からも、また移民からも周旋料をとり、その他に、移民が契約を終えて帰国してから支払うという条件で、給料の何分の一かを会社、または会社の手をへて銀行に預金させたり、保検に加入させたり、あの手この手で利益をえていたのだった。それが、いちばん利益の上ったハワイ行契約移民が1900年に禁止されて自由移民だけになったことは、移民会社にとって大きな打撃であった。移民会社はつねに、契約労働移民の新しい売りこみ先をあちこち探し歩いていたのだが、かねてから目星をつけて移民売りこみ運動をやっていた当時世界最大の契約移民の誘入国ブラジルのサンパウロ州政府と皇国移民会社というのが、1907年に移民契約を取りきめることに成功した。かくしてブラジル行移民は1908年から始った。