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人文研ライブラリー:近代移民の社会的性格(3)、(4)

3.近代移民のさきがけ

 新大陸の発見は、いろいろな意味で画期的な影響をヨーロッパに与えたが、その一つは、スペイン領アメリカで莫大な金銀とくに、銀が無尽蔵と思われるほどに採掘されたことである。その結果16世紀中ごろからヨーロッパに価格革命とよばれたほどのものすごい物価騰貴を招来した。(10)
 金銀は原住民インジオを奴隷のように酷使して採掘されたので生産費は安かった。それに銀の量は全く莫大であった。この銀がどしどしヨーロッパに流れこんでいったのに、消費生産物の量は少しづつしかふえていかないので物価は上るばかり“16世紀から約一世紀の間に、ヨーロッパ物価水準は少くとも三倍以上に高騰するに至った。因みにこの価格騰貴はヨーロッパ諸国の経済に深刻な影響を与えることになる。”(大塚久雄、近代欧州経済史序説・上ノ一)

 (10) 1545年に当時のペルーのポトシ、Potosi銀山が発見されたが、まもなくメキシコでもサカテカス、Zacatecas、グアナフアト、Guanajuato、などの銀山が開発された。16世紀末には新大陸が当時の世界の金生産額の約6割、銀生産額の約9割を産出し、これらの貴金属がスペインを介してヨーロッパへ流入して価格革命をおこした。

 かくして“1600年の商品価格は1500年の2倍半以上だったが、1700年の商品価格はいっそう高かった。すなわち価格革命が始まった時期の3倍半以上だった。”
 “1495年にはイギリス農民は15週間働けば家族が一年間生活してゆくのに充分な生活資料をえられたが、1610年には、たとえ日曜をのぞく一年中の全週間を通じて働いても、同じ生活資料をかせぎだすことはできなかった!”(レオ・ヒューバーマン、資本主義経済の歩み、岩波新書、小林・雪山訳)そして、生活難は都会の労働者の場合も同じようにきびしくなった。したがって、農民も労働者も生活難を切りぬけるためには、身を粉にして長時間働かねばならなかったが、それでもおいつかぬものは乞食に転落して浮浪人になった。
 レオ・ヒューバーマンは、彼の“資本主義経済の歩み”の中で、“フッガー家(11)の時代は同時に「乞食の時代」だった。16世紀と17世紀の乞食の数は驚くべきものだった。17世紀の30年代には、パリの人口の4分の1は乞食だった。農村地方でも乞食の数は同じくらい多かった。イギリスでも条件は同じように悪かった。オランダは乞食でいっぱいだった。16世紀のスイスでは家々をとりまいたり、組をくんで森や道路をうろつきまわったりする乞食をなくするために、他に手段がなかったので、金持たちは、このようなみじめな故郷を失った人たちを狩りたてるための部隊を組織さえした。”と述べている。

 (11) フッガーは、西南ドイツの豪商で、彼が経営する銀鉱からとった銀で羊毛と香料を取引して巨大な利益をえていた。各国の商人や国王、大諸侯はもとより、法王までも彼から借金をしていたほどであった。“16世紀には何らかの仕方で同世紀の上に投げられているフッガー家の影なしには、どんなチッポケな事件でも進行しなかった。”それゆえ“この時代を国王誰々の治世として示すよりも「フッガー家の時代」として示す歴史上の時代区分の方がはるかに真実に近い”(レオ・ヒューバーマン、資本主義経済の歩み・上・P.139)

 この“乞食の時代”はドイツでは30年戦争(1618~48年)のため、いっそう悲惨な状態にあった。(12)

 (12) 三十年戦争は1618年ボヘミアの新教徒の乱に端を発し、ドイツにおける新旧両教徒の大争乱となった。デンマーク、スエーデン、フランスは新教徒を援けてドイツ皇帝と30年間戦った。この結果、ドイツ国内は荒廃しきってしまった。「数千の放逐された飢えた人々が森の中をさまよい歩き、あたかも骨の上に真黒な黄色い皮をかぶった野獣のようであった。至るところ飢餓、困窮、病気、死。ただ狼のみが繁殖し村々にしのびこみ、棄てられた病人や死人を食いつくした」(ゲルデス、ドイツ農民小史・飯沼二郎訳)
 この戦争でドイツ人口は、1618年に1600万ないし1700万だったのが、戦後たった400万になったといわれている。

 銀の流入によって貨幣の流通が盛んになり、商品経済が急激に発達したので、土地所有者である領主や貴族は、貨幣に対する欲求が強くなって、できるだけ、商品として価値のあるものを栽培させるようになった。
 16世紀から、毛織物の新大陸への輸出が次第に増大して羊毛の値段が高くなってきた。イギリスはもともと羊毛の産地であったが、地主はその土地を農民の自由な耕作にまかせて貢物をとるよりも、羊毛をできるだけ多量にとるために、農場を牧場にして羊を飼う方が、農産物よりも貨幣収入がずっと大きいことに気づいた。そして、耕作地を羊牧場にするために柵をめぐらした。これがイギリスの経済史上有名な“囲込み”といわれるものである。“囲込み”をやらない地主は高率の地代を取りあげるので、生活費の騰貴と高利貸に吸いとられて土地をなげだすものもあった。
 “先祖代々その土地に定住していた農民たちは、こうして、むりやりに追いたてられ、あまつさえ、こうして出来上った広大な牧場は僅かな人数の羊飼を賃金労働者として雇用すればたりたため、彼らは永住の地から全くの浮浪者となってさまよい出ざるをえなくなった。このようにして、イギリス経済史上忘れることのできないあの大規模にして悲惨をきわめた“農民の流離” rural exodusが現出するにいたったのである。“(大塚久雄 “近代欧州経済史” 上ノ二)
 こうして生産手段を失った農民は、もはや農村で生活してゆけず、職を求めて都市に流れ出て一部のものは織物工場やその他のマニュフアクチュア(13)で賃労働者になったが、マニュフアクチュアはヨーロッパでいちばん発展していたけれども農村から流れ出るものを全部吸収することはとうていできず、仕事にありつけないものは浮浪人、乞食、盗人などに転落せざるをえなかった。

 (13) マニュフアクチュア 工場制手工場ともいわれるもので、初期資本主義の産業経済様式である。家内工業では熟練した技術をもつ徒弟職人によって製造の全過程をひとりで行ったが、マニュフアクチュアでは、十数人あるいは20~30人もの賃金労働者の“分業による協業”によって、労働の社会的生産力を大きく発展させた。すなわち、マニュフアクチュア的分業によって、手工業的活動が分解され、労働要具が特殊化された。しかし、マニュフアクチュアは道具を使用する手工業生産であるために、労働者に多かれ少かれ技術的熟練が要求された。イギリスでは16世紀の中葉から産業革命の始まる18世紀の70年代までがマニュフアクチュア時代であった。
 また、イギリスには救貧を目的とした国立、王立のマニュフアクチュアが各地にあった。そこでは数百人、数千人という多数の浮浪人や孤児を檻禁して主に織物の製造が行なわれていた。

 この“囲込み”は、年を追ってイギリ中に広まっていったが、18世紀から19世紀にかけては、法令によって農民の立退きを合法化して農民の追出はいっそう盛んに行われた。17~18世紀に北アメリカへ強制的に、あるいは誘拐して連れて行かれて契約奉公人に売られた極貧者は、こういう事情でイギリスの都市に充満していたのだ。
 この“囲込み”は、羊の牧場をつくるためばかりではなく、18世紀になって、穀物の需要が人口の増加と輸出の激増のために有利な商品になると、領主や地主は、いちおう自己の土地から農民を追い出して、低賃金の労働者を使用する資本主義的経営の農場に切りかえてしまった。
 こうして、イギリスでは農業の封建的な経営が崩れて資本主義的な経営に次第に発展していく過程で農民層の分解が完全に行われて「1750年ごろにはヨーマンリイ(14)が消滅し、18世紀の最後の数十年間には農耕民の共同地の最後の痕跡もなくなった。」(マルクス、資本論、第24章、P.1105、長谷部訳)

 (14) ヨーマンリ イギリスの独立自営農民をいう。イギリスでは農奴は15世紀中ごろにはほとんど消滅して、多くの農民は自作または、比較的軽微な金納地代を支払うにすぎないヨーマンリ(独立自営農民)に転化をとげていた。

 また、農村人口の激減は農村で生活していた半農半工の手工業職人をも失業させて、農村から都市へ追いたてることになったが、かれらの多くは、都市のマニュフアクチュアで賃金労働者となるよりも、むしろ北アメリカへ渡って、新天地で独立した職人となる方を望んだ。だから、旅費が工面できるものは、自由移民として移住したが、旅費ができないものは、自発的に契約奉公移民となるものが多かった。たとえ、契約奉公人になっても、数ヵ年の契約期間を終えれば独立できるという希望がもてた。
 このような失業職人をたくさんのせた移民船がアメリカの港へつくと、移民周旋業者または船長は、彼らを必要とする者に、船賃を支払わせて売り渡すために、広告を新聞に出したものである。
 フイラデルフイアで出されていた「アメリカン・ウイークリー・マーキュリー」の1728年11月7日号には次のような広告があった。
 「ただいま、ロンドンからボーデン号とウイリアム・ハーバート号とコマンダー号で、百姓や建具屋や靴工や織物工や鍛冶工や煉瓦積工や煉瓦焼工や木びきや仕立工やコルセット製造工や肉屋や椅子製造工やその他各種の職人をふくむ奉公人にはあつらえむきの若者の一団が到着した。フイラデルフイアのエドワード・ホーンはこれらの若者を現金か小麦粉とひきかえに適当な値段で売却するはず」(レオ・ヒューバーマン、アメリカ人民の歴史・上、P、5)
 以上述べたような封建制から資本主義への移行期における農民没落の現象は、世界でイギリスがもっとも早く、しかも、15世紀後半から18世紀にかけて300年もの長い期間にわたって徹底的に行なわれたのである。
 イギリスの状態がこのようなときに、アイルランドでは1845年から3年間、大飢饉に襲われて、そのころ800万の人口であったが飢餓と疾病で死亡したものが150万もあった。これが有名なジャガイモ飢饉である。
 そもそもアイルランドはイギリスの植民地であって、土地の80%をイギリス人の不在地主によって所有され、多額の小作料をとられた上、工業の発展をおさえられていたために、住民の大部分が貧民でジャガイモを常食とし泥づくりの粗末な家に住んでいた。そのジャガイモが病気にかかって飢饉になったのである。
 その結果、難民はどしどしイギリスへ移住した。アイルランドはその前にも1782~84年および1821~23年の飢饉で多数の難民がイギリスに逃れた。これらは、低賃金で、1日の労働時間15~6時間というマニュフアクチュアへ吸収されたが、仕事にあぶれたものは乞食、浮浪者、アメリカ行の契約奉公移民になった。そのため、イングランドやスコットランドでは、土地を失った多数の農民は都市へ出ても工場労働者は低賃金に甘んじるアイルランド人に占められて働き口がなく、アメリカ行の移民の群に投じた。1851年からイギリスからアメリカへの移住は激増し、毎年10万をこえた。
 そして、1870年から始まった産業革命によって、新発明の機械を採用した工場制工業が現われると、道具を使っていたマニュフアクチュアはひとたまりもなく圧しつぶされてしまった。マニュフアクチュアの経営者には熟練工である“親方”とよばれた職人がたくさんいたが、これらの親方や職人の中には熟練を必要としない、女子供でもやれる機械制工場の賃金労働者になりさがることを好まず、アメリカへの移住をえらんだものが多かった。それで、産業革命後には、貧窮者の契約奉公移民の外に、多少資金をもち、新天地で独立して再起する目的をもった自由移民もかなり出るようになった。
 17世紀中は、イギリス(アイルランドを含む)から新大陸へ渡航した移住者はわずかに25万くらいであったが、18世紀には推定150万(うち55万人がアイルランドから)に達する移民が出て行った。
 これらの北アメリカへ渡った技術をもった職人や親方たちの大部分は奴隷制度のプランテーションで栄えていた南部をさけて、はやくから民主主義的な社会が発達した北部のニュー・イングランドへ主として落ちついた。そのためにこの地方でははやくから手工業が発生し、18世紀の20年代には造船業が、30年代以後には醸造業が繁栄した。そして植民地時代の終りには製鉄業、羊毛業等のマニュフアクチュアが発生した。(宮川実、社会発達史・P.160)

4.近代移民の流出期

 1814年にナポレオン戦争の跡片づけをしたウイーン会議が終り、ヨーロッパに平和と秩序が回復されるとイギリスはもちろんのこと その他の各国から移民の群が出始めたが、その数は次第に増加し、19世紀の中ごろからは、あたかも関を切った水のように激しく流出するようになった。かくて1815年から1930年までに全ヨーロッパから出た移民の数は6500万をこえた。またアジアでは中国およびインドから約1000万の移民が出た。そして最後に日本からも、同じ原因で農民の移住が盛んになった。
 しかし、各国の社会状態や特殊事情によって、また封建制の成熟の度合や、封建制の崩れる時期や崩れ方、また封建制か絶対制かの相異やマニュフアクチュア発達の程度などによって資本主義発展の速度も一様ではない。これらの相異から、移民の出始めた時期や量や、永住か出稼かという移住の仕方までちがっている。
 しかし、いずれにしても、近代移民というのは、初めは封建制から資本主義への移行期における農民層の分解によって農村を追われたものや、産業革命によって生産手段を失ったマニュフアクチュアの職人たちであったが、後には資本主義発展の結果による農業恐慌によって、また20世紀に入ってからは特に第一次大戦後の経済恐慌によって破産した商工業者、都市の失業者なども移民の群に投じるようになった。
 このように、近代移民は資本主義的発展による犠牲者の群であるといえる。したがって、彼らの出国の原因は、あくまで社会・経済的なものである。もちろん、社会経済的な原因による本流的な移民群の中には、種々雑多な原因動機によって、個人的または集団的に合流した支流的なものもあるが、これらは、社会経済史として巨視的に見る場合には、とくに取りあげる必要はない。
 近代移民がウイーン会議後にヨーロッパの各国から出始めたということは、ナポレオン戦争がヨーロッパの封建制の崩壊を促進する一つの契機となり、その結果、農民に移動の自由が与えられたということである。それと同時に、貨幣経済の発展で、ナポレオン戦争でうけた国家的な痛手の回復のために、各国とも重税を国民から搾りとらざるをえなかったが、そのために、ますます生計が苦しくなった農民や手工業者が移民となって海外へ逃げ出るようになった。
 フランスの農民解放は1789~93のフランス革命によって、ドイツその他の国よりも一足先に遂行された。しかも、民衆の革命によってかちえられた封建制からの解放であったのだから、農民は自由となっただけではなく、封建諸侯から奪いとった大土地を解放された農民が分割取得して、ことごとく(当時のフランスの全人口の3分の2にあたる農民の大部分)が自作農民、すなわち家族の者だけで、雇人を使わずに耕作できる面積の土地を所有する小農になった。したがって、革命後のフランスには農民の没落、プロレタリア化はほとんど見られなかったが、ナポレオン戦争の影響は、さすがにのがれることはできなかった。それに、19世紀になってからヨーロッパ全体の人口が急激にふえた。そのため、フランス農民は人口の増加と遺産分割によって、それでなくても、小農としてはギリギリの土地をさらに細分しなければならなくなった。そして“土地を求める農民間の競争は土地価格を異常につりあげたのである。”だから“今やフランスの農村には、革命前の土地貴族にかわって都市の高利貸が、封建的義務にかわって抵当が、領主的土地所有にかわって資本が支配するにいたった。”(大島清、農業問題序説、改訂版、P.55)
 土地の細分化は、生産を滅少して、自己の作物だけでは生活を保って行けず、余暇を他人の農場で賃働きする半プロレタリアを発生させた。しかし、農民はどこの国でも最も保守的な人間である。フランス革命をへたフランスの農民も、小さな土地にしがみついて土地を耕していただけに、依然として保守的であった。それだけにプロレタリア化して行くのを見ながら、故郷の土地をふりすてて、しかも危険な航海をあえてして、海外への移住へふみきることは容易でなかったが、それにしても、どうにか、貧乏しながらでも農村にふみとどまっていられたということの社会的な原因は、フランスでは資本主義の発展を促す産業革命が、イギリスの工業製品によって世界市場がおさえられていたために急激に進展せず、しかも小規模であったので農村の家内工業が絶滅されずに残っていたということである。かくて“農村プロレタリアは永い間農村工業によって生存することができた。すでに18世紀に、だがとりわけ19世紀前半において、わが小農民は半農半職人であった。”(デレアージュ、フランス農民小史 P.118)
 フランスでは、農地の相続による農地の零細化を防ぐために、2児制が次第に行われるようになった。こういう事情も原因となってフランスからの移民は、隣国ドイツにくらべてわずかに12分の1という小数にとどまっている。1820~1940年間にドイツから600万余人の移民が出たのにフランスからは、40万ほどしか出なかった。
 ドイツの農民の封建制からの解放は、ナポレオン戦争の影響で行われたもので、その時期はイギリスよりも300年もおくれたし、隣のフランスよりもおそかった。しかも、フランスでは民衆が起した革命によって、封建制をぶち破って獲得した解放であったが、ドイツでは政府によって種々の条件の下に行われたために、決して封建制からの完全な解放ではなかった。それにマニュフアクチュアの発展も広範に行きわたっていなかったことは18世紀末から19世紀にかけてイギリスからの技術の輸入によって産業革命にはいっても、イギリスとの競争に押えられて近代工業の発達は遅々として進まなかった。そのことが、いっそう解放後の農民層の分解を不徹底なものとした。そのため農民層からの移民の流出はまだ緩慢であった。しかし、ナポレオン戦争までに出たドイツの移民は小数ながら、大分部が農民出身者であったが、敗戦による社会的変動によって、零落してプロレタリア化したブルジョア階級のものがブラジルへ来るようになった。”(Emilio Willems, A Aculturação dos Alemães no Brasil. P. 60-61)
 ドイツでは農民層の分解が不徹底であったため、19世紀中の中ごろになっても、全人口の大半が農民で、しかも、大部分が貧農であった。1867年になってようやく48%まで低下したにすぎなかった。しかし、資本主義の影響は農村にひしひしとせまって、貧農をじりじりと圧迫する方法で、農民層の分解を進めて行ったことはフランスの場合とかわらなかった。
 しかし、ドイツの農民には一子相続制が習慣的に古くから行われていた。これも、フランスの二児制同様に小農の没落を防ぐためにできた方法であるが、これによると、次男以下は遺産の分配を現金でもらって、その金で別に土地を買うか、多くの場合は都会に出て職を求めるか、さらに移民となって海外へ出るかであった。
 ドイツの農村は、前にも書いたように19世紀の中ごろまではまだ完全に農工の分離が行なわれず、熟練職人による家内工業が盛んであったが、1850年ごろから資本主義の発展が本格になり出し、1870年代には綿織物、鉄鋼業を中心として隆々と栄えてきた。貿易においても、1860年代には、なお農産物や家内工業製品が輸出の大きな部分をしめ、綿糸や銑鉄が重要な輸入品になっている。(大内 力、農業問題、P.34)
 このように農村には、まだ、家内工業が支配的であるときに、都市において急激に、しかも、マニュフアクチュアの発展の段階をとびこえて、産業革命による機械制の大工業が勃興した結果、農村の手工業は惨めにつぶれていった。だが、イギリスでもそうであったように、この時代の労働条件のきわめて劣悪な工場の労働者になるのは、極貧者が主で、自営農民や手工業の親方や熟練工などで、まだ完全にプロレタリアに転落していなかったものは、工場へ行くよりも、むしろ移民になって海外へ出た。
 “1859年に職人や労働者の数百家族がサクソーニアからブラジルへ移住した。彼らの中には、分益農、大工、製材工、裁縫師などがいた。これらはChemnitz市に住んでいたもので、その経済状態は困窮というほどではなかったが、彼らは工場労働者となることを好まなかった。そして、プロレタリアになりたくないという希望が多くの農民を移民に誘いこんだ。ドイツで農業または工業で生活するか、それとも土地が肥沃なブラジルへ移住するかのどちらかをえらぶことができたものは、ほとんどが移民となることを望んだ。”(Emilio Willems, A Aculturação dos Alemães no Brasil. P.60-61)
 1870年から90年にわたってヨーロッパの農業者をおびやかしたいわゆる農業恐慌ではドイツばかりでなく、その他の国々でも、多くの農民を窮地におとし入れ、海外移住者を激増させた。農業恐慌の原因は19世紀の中ごろから大洋航路に大型汽船が就航するようになって、アメリカやアルゼンチンから、大量の小麦その他の農産が安い値でヨーロッパへ輸入されだしたことによる。そのため、ドイツでは農産物の価格が実質的には“2分の1あるいは3分の1に下落し・・・” “1870年から1890年の間に多くの農民が没落し、農場は過重の負債のために破産するに至ったのである。”(ゲルデル、ドイツ農民小史、飯沼二郎訳)
 農業恐慌はイタリアの農業者にも大打撃を与えた。たとえば、小麦の平均値段は、1879-1880年に百キロにつき33.11リラであったのが、1882年から1885年の間に27.07~22.78リラに下落した。そして1869年にスエズ運河が完成し、アジアやオーストラリアからの海運が便利になって、日本から絹、オーストラリアから羊毛が安くはいり出して、イタリア産の値段が下落したため、農民はますます苦境におちいった。
 ポルトガルでもスペインでもイタリアでも穀物の値段が下落したばかりでなく、農業恐慌を防ぐために各国がとった保護輸入関税のため、主要産物のブドウ酒のフランスへの輸出が止ったことはぶどう酒輸出国の農業恐慌をいっそう深刻にした。その上ポルトガルでは害虫(phylloxera)のため、全国のぶどう樹が枯死したことが、移民流出の決定的な原因になった。(Oliveira Martins, Fomento Rural e Emigracao)
 農業恐慌の原因の一つとなったスエズ運河の開通がシリア・レバノンの如き産業的にもともと貧しい国の商業や農業に与える打撃は甚大であった。
“シリア・レバノンの伝統的な産業であった生糸・絹布とぶどう酒の生産は、前者は、スエズ運河の開通によって、日本から安価な絹がもたらされるようになって衰えだし、レーヨンの発明(1920年ごろ)で完全に農民の家内工業を絶滅させた。またぶどう酒は1890年にphyloxeraの害で全滅したが、それに代る農作物がなかった。そして、スエズ運河が開通するまでは、インド、ペルシアからの物産はキャラバン(隊商)によって、シリア レバノンを通過してヨーロッパへ輸送されていたのだが、運河の開通はキャラバンを追放してしまったので、その通路に栄えていた商業も衰微してしまった。ぶどう栽培もキャラバン通路の商業も、これに従事していたのは主にクリスト教徒であったが、永年回教徒に苦しめられた後で海外移住の道をえらんだ決定的な原因は、経済的に生計の道を失ったということである。”(Clark. S. Knowlton, Sirios e Libaneses)
 シリオ・レバノンは19世紀中はトルコの領土で、原住民の回教徒の外に多数のカトリック教徒が住んでいた。1860年に回教徒は封建領主の支持のもとに、シリオ・レバノン地方のクリスト教徒の大虐殺をやって1万人を殺害した。しかし、この結果、英仏その他の諸国の干渉によって、トルコ政府は、シリオ・レバノンの封建制を解体して農民の解放と土地の所有を許した。この宗教闘争から海外へ逃れたものも、もちろんあったが、近代移民の流出は前述のように、農業恐慌以後の現象である。そして、シリオ・レバノン移民は、ほとんどが出稼を目的とした移民で、何年か稼ぎためて帰国する者が多いことから見ても、彼らの移住を決定的にしたものは宗教的よりも経済的な原因によるといえる。ここに近代移民の特色がはっきりみとめられる。
 また、スペイン、ポルトガルのように、封建制度の崩壊も15~16世紀にかけて行われ、アメリカ大陸の広大な植民地へは、発見以来間断なく移住者が渡航したが、これらの移住者は前に述べたように、近代移民以前のものであった。スペイン、ポルトガルからも、近代移民の流出はイタリア同様19世紀の中ごろをすぎてから1880年以後であった。
 スペインもポルトガルも、15世紀中に国家統一を完了したが絶対王制が樹立されて、それがカトリック教の中世的な教義にわざわいされ、新興ブルジョジイの発展を阻んだため、資本主義的発達がおくれた。その結果、特にスペインの農業は貴族階級を地主とする巨大な封建的私有地(ラチフンジオ)が多く、人口の大部分を占めた農民は半ば農奴的存在で、生活水準は、アイルランドやイタリアの島部と同じく、ヨーロッパでは最も低く、大部分が極貧農であった。
 農業恐慌はスペイン、ポルトガルの農民をゆすぶり、ロシアの農民を没落させた。かくして1880年ごろから、ヨーロッパからの海外移住者の数を飛躍的に激増させることになったのである。次の表は、1871~80年間に出た移民の数と1881~1890年間に主要国から出たものとの比較である。

 イギリスアイルランドフランスドイツオーストリア
ハンガリ
スペインイタリアロシア
1871-801.674175666241111316858
1881-902.5597001191.342436572992288

 出移民数をヨーロッパ全体から見ると、1871~1880年間に約350万だったのが、1881~1890年間には750万弱となって2倍以上に増加した。
 この農業恐慌は19世紀の70年代から90年代の初めまで約20年という長期にわたったもので、この間にヨーロッパ各国の農民層の分解が広範囲に進み、多くの自営農民を半プロレタリア化した。

 (15)農業恐慌“農業恐慌というのは、けっして農業に原因をもつ恐慌という意味ではなく、農業に発現した恐慌という意味に理解されなければならない”。“恐慌はいうまでもなく資本主義経済特有の、かつ必然の現象であり、その発生の原因は資本主義経済の構造の矛盾の中に求められなければならない。”そして“一般に恐慌は、重商主義段階においては、主として商人資本の投機的活動が原因になって偶然的に発生するのに対して、資本主義が産業革命を経て確立されると、再生産構造に根ざしたものとして、必然的に、したがって周期的に発生するようになるものであるが、農業恐慌は、すくなくともそれが顕在的な形をとって現われるのは、資本主義がほぼ帝国主義段階に到達した19世紀末以降のことである。”(大内力、農業問題・改訂版 P.312-315)

 農業恐慌を起した原因の一つになる大洋航路船の大型化は、また、海外へ移住するものにとって、船賃が安くなったこと、航行日数がぐっと縮少したことで、移住を容易にさせ、移住者を激増させる原因ともなった。
 “1876年には、ほとんどすべての移民たちは大型汽船でやってきたが、この大型汽船は大西洋を横断するのにたった7日ないし12日しかかからなかった。ところが、これまでのような小型の帆船(300トンぐらい)では7週間ないし12週間かかったのだ。だがそれでも三等船客にとっては航海は決して愉快ではなかった。”(レオ・ヒューバーマン、アメリカ人民の歴史・上)
“イタリア移民が出始めたころの移民船は大部分が、かってアフリカから黒人奴隷の輸送に使用されたフランス船であった。船艙に4段に作られた寝台には、あかで汚れた敷布のないマトレスが一つだけで、毛布も少かった。そして、定員以上に積みこむから、実にきゅうくつであった。移民たちは船に乗ると、10人を一組にした班に分けられ、それぞれの班長は、ブリキ製の湯呑、皿10個づつと大きなブリキ製の鉢と杓子を一つづつを袋に入れて保管させられる。食事の合図の鐘がなると、各班長はそれぞれ鉢をかかえて並ぶと、班員のひとりが袋を持って、かびくさく味のかわったビスケットをとりにいく。班長のもっている鉢に、米が少しある。とてもスープなどといわれたものではない。汁が入れられる。それを班員に分けるのだ。
 それでも、初めの何日かは、移民たちは各自が持ちこんだ牛肉や豚肉の腸詰、羊の乳のチーズなどで、食事を補うため、喉がひどく渇くのだが、飲み水が大へんだ。ふつう移民船には鉛の飲み口のついた大きなうすぎたない水樽が二つあった。時には何百人もが列を作って順番にそのきたない呑み口からじかに水を飲むのだが、そんな時には番がくるまでに何時間も待たなければならなかった。とても乗客という名で呼ばれるものではなかった。”(Franco Cenni, Italianos no Brasil.)
 移民船はどこでも、こんなにひどいものだった。これが帆船になると死亡率はふつう10%ぐらいあった。ブラジルへ最初の外国移民としてきて、リオ・デ・ジャネイロ州のNova Friburgo植民地に入ったスイス移民の如きは、2.000の中400人が航海中に死んでいる。
“また歴史家Mariano del Rioの推定によれば、1860年から1870年に至る10年間に40.301名の苦力がシナ大陸からペルーへ向ったが、このうち上陸したのは38.648名であった。即ち、きわめて輸送条件が悪かったために航海中の死亡率が高かったことを示している。同じくdel Rioによれば、1862年には1.716名の苦力がペルーに向うべく乗船したが、航海中に死亡したものは713名に及んだ。”(斉藤広志、ペルー在住日系人の人口と家族・ラテンアメリカ協会誌“ラテンアメリカ研究”第2号)
 前述したように、近代移民といっても、国々によって、それが流出しだした時期はまちまちであるが、大体において、二つの時期に分けられる。19世紀前にすでに近代移民を出したイギリスを皮切りに、それにつづいたフランス、ドイツおよびスカンジナビア諸国からの移民の出初めは19世紀の初期であったが、イタリア、スペイン、ポルトガル、ロシア、ポーランド、中国および日本などは、19世紀の中ごろあるいは終りに近いころからであった。この相異は、主として農民の自由を束縛していた封建制の崩れた時期によるのである。しかし、封建制が廃止されても、イタリアの南部や島部およびスペインのように、ラチフンジオが支配的に残存しているところでは、農民の境遇は依然として隷農的で実質的には解放されたことにならなかった。それゆえ、彼らが移民として離村するためには、ずっと後に襲来した農業恐慌を待たなければならなかった。
  次の年表は主要出移民国の農民解放の年代を示す。
 移民の流出はこの後から始まる。

フランス1789年フランス大革命の結果
ドイツ1807年ただし実施は1810年から
中国1860年海外移住禁令廃止
ロシア1861年農奴解放
イタリア1861年イタリア統一によって封建制廃止
日本1868年明治維新によって、ただし流出期は1885年から

 もちろん、どの国からも少数ではあるが、封建制崩壊前にすでに移民は出ていた。しかし、それらは特殊の場合を除いて農村から直接に出たものではなく、農村で土地を失って貧窮したものが都市に逃れて浮浪化したものが多かった。
 農村からの移民が大量に出始めるのは、封建制が破れて、農民が解放され、そして、農民層の分解がはげしくなり出してからであるが、農村からの移民流出にさきがけて、出かけたものの中には都市にいた失業貧民や浮浪人が多かった。浮浪人や乞食は本源的蓄積の過程における農民層分解によって生産手段を奪われて都市に出た多くの貧農によって過剰人口が生ずるときに特に多く出るもので、労働能力をかくために浮浪化したものではない。
 イギリスでは前述したように船賃が無料で行ける契約奉公移民になった。ブラジルでは1808年から国土開発のため外国移民に門戸を開き、旅費を全額負担し、土地をほとんど無料で与えるなどして、ヨーロッパからの移民を誘致したが、この時に農民にまじって浮浪的な人間がかなりやってきた。
 1818年ブラジルに最初に契約労働移民としてきたシシリア島(イタリア)からの移民2000名は、ほとんどが監獄から釈放されたものや浮浪人で、ブラジルへ到着するとまもなく、昔の悪習に染まって農場主を手こずらせ、外国移民に対する悪評が生じた。(Lemos Brito, Pontos de Partida Para a Historia Economica do Brasil.)
 また、同じころ、ブラジル政府が船賃を負担してリオ州に植民地を開設させるためにスイスから誘致した移民も、大部分は浮浪人や無頼の徒たちであった。
 “初期のドイツ移民の中にはハンブルグやメックレンブルグから来た乞食や衛戍監獄の囚人たちがいた。1911年のあるドイツの雑誌に次のようなことが書いてある。“メックレンブルグからきた移民の子孫達は、だれも、祖先の出身地を明らさまにいうのを好まなかった。なぜなら、ここに住んでいる大部分のものは、1824年にブラジルへ追いやられた犯罪人や無頼の徒の子孫であったのだ。”(Emilio Willems, A Aculturação das Alemães.)
 後期近代移民は、たんに流出の時代がおくれたというばかりでなく、このころから、以前とはちがった性格の移民が大量に出るようになったということに特色がある。それは、これまでの永住を目的とし、自営の農業や商工業を経営するために渡航したものとちがって、大部分が一時的の金もうけ、それも一攫千金をねらうような冒検的、山師的なものではなく、僅かに貧困を防ぎ、あるいは貧しいゆえにできた借金を返済する程度の金額をためて帰ろうといういわゆる出稼移民だということである。
 この出稼移民の代表的なものは、ヨーロッパではイタリア移民を筆頭に、シリア・レバノン移民、ポルトガル移民などであるが、アジアでは、中国、インドそれに日本も加えて、すべてが出稼移民であるといってよい。
 出稼を目的とする移民が出るのは、俗にいう出稼根性というようなけちくさい考えからでは断じてない。それには、こういう型が出る社会経済的な原因が移民の出る国にどこでも同じように存在するのである。
 まず、出稼移民国として有名なイタリアについて見よう。イタリア移民の流出はかのリソルジメント(国家再興)を成就した1860年代からであるが、同じイタリア移民といっても農業的にも工業的にも、その当時すでに資本主義的になっていた北部と極端に封建的な南部およびシシリア島などから出るものとは同一ではない。
 ルネッサンスを興した北イタリアは12~14世紀の間にいち早く封建制を解体し、ヴエネチアやゼノヴアなどの自由都市は東邦物産の貿易で繁栄し、フイレエチエその他では毛織物、絹織物その他のマニュフアクチュアが発展したが、東邦貿易を陸路はトルコに阻まれ、海路はポルトガルに独占されたため、貿易もマニュフアクチュアも、その後は振わなかった。
 そのため、産業革命を自らの力で達成することができなかったことは、スペインの状態とよく似ている。
 イタリア工業の近代化はリソルジメント以後、急速に進展して数世紀にわたって存続してきたマニュフアクチュアを亡すと同時に、北イタリアでは農業面においても資本主義化は著しく発展した。ポー河流域の麦や米の主要食糧品のほとんど半分を生産する肥沃な農業地帯は農民層分解も早く行われて資本主義的大農経営が盛んになった。その結果、貧農は小作人や日雇労働者に転落していったことはいうまでもない。
 リソルジメント以後急速に近代化していった北部に対して、法王領以南の南部およびシシリア島ではリソルジメントによって、一応封建的土地所有は廃止されたのだが、もともと貧農の多かった地方だから、封建的領地はいちどは零細な土地に分割されても彼らは、それだけでは高い税金を払って生計をたてることができず、結局、ほとんどがその土地を次第にもとの領主に、捨値で買いとってもらうか、借金のかたにとられるかして、またも封建領土にひとしいラチフンジオの小作人や日雇労働者になった。ことにシシリア島は、イギリスの植民地であったアイルランドと同様に、全島が不在地主の大土地所有となり、島民は農奴にひとしい境遇におかれていた。
 イタリア北部と南部は、その近代化の差が極端に対蹠的で、北部に発達した工業は、資本主義化に逆行的におくれている南部を、しゃにむに、その商品の市場として圧迫したため、南部の家内工業はいうまでもなく、中部のマニュフアクチュアも、その圧力によってつぶされてしまった。
 イタリア工業の近代化は、フランスやドイツにも立ちおくれたために、国外に工業製品の市場をもたず、市場が国内だけに限られた上に、貧農が充満している南部や島部では市場の開拓は限定されていた結果、勃興した工業の発展もまもなく壁にぶつかってしまった。
 このような悪条件は、農村から出る過剰人口を工業面で吸収することをほとんど不可能にした。そこへ1880年から激化した農業恐慌が農民の海外移住を決定的にした。

Fukuhaku-mura出移民数 19世紀中は北部の資本主義的に発展した地方からの移民が断然多かった。
1861~187027.000
1871~1880168.000 1876年から1886年にかけては、Veneto, Piemonte, Lombardia (北部の諸県)から出るものが圧倒的で、この3県から出たものがイタリア全体から出た数の約3分の2を占めた。
1881~1890992.000
1891~19001.580.000
1901~19103.615.000
1911~19202.194.000
(Woytinosky の計算から引用“人口大事典”より)

 イギリス、フランス、ドイツに立ちおくれた北イタリアの資本主義的発展は、前述のように、産業革命がきわめて不徹底であったことによる国内市場の貧弱さのために、工業の発展は頭打ちとなってしまった。そこで、イタリアの資本主義は、しゃにむに帝国主義の段階に突入して、植民地利潤の獲得をねらうようになった。そして“イタリアの資本は、人民大衆の生活資料およびそのための生産資材よりも、国家的軍事的大量消費の資材とくにその戦争を目的とする軍需品の生産において巨大の利潤をえることに集中した。” “かくて、1900~1901年の間に、イタリアの国家支出が教育において4900万から8500万へ、公共事業において7900万から1億1700万へ、農業において1300万から2700万にふえた。そのとき、イタリアの陸軍のための国家の支出は、実に2億8100万から3億7600万へ、海軍のためのそれは1億3560万から1億6700万へと増大していった”(羽仁五郎、イタリア社会史)。この大膨張支出はすべて国民への、しかも、国民の大半を占める貧窮農民への重税によってまかなわれたのである。
 “1873年と1881年の間に、61.831名より少くない小農が税金が払えなかったためにその土地を差押えられた。その税金の金額は数リラをこえない程度のものさえあった。そして1884年と1901年の間では、同じ理由で土地を失ったものは215.759名に達した。さらに、個人的な借金のために低当に入れた土地を売ったものが、1886~1900年間に70.774もあった。
 帝国主義政策のためのこのような重税に骨までしゃぶられた農民はついに立ちあがった。“1901年から1904年にかけてイタリア全土に広まった烈しい農民争議は1.105件に達したがほとんどが農民側の敗北に終った。そして南部の農民は北部のように組合組織を持たなかったので、争議に敗れた農民は、移民となって出て行くしか生きる道がなかった。1901~1905年間の平均の出国者数は、ついに50万を突破して554.050に達した。
 そして、苛酷な労働条件に反抗した工場労働者の争議も19世紀末から北部の工業都市トリノ市を始め各地で頻発し、1901年だけで1.402件もあったほどで、彼らもまた、多くのものが移民になった。
 このころからイタリア南部からの農民の海外流出が盛んになってきた。1905年には全イタリアからアメリカ各国へ出た368.154名の移民のうち南部からのものが244.055人におよんだ。
 そして、この時期には、ほとんどが海外へ出た。それまでには、アルプスを越えてヨーロッパ諸国へ短期出稼に行ったものも多かったが、それだけではもう、どうにもならなくなったのだ。そして、海外への出国者は、第1次大戦が始まるまで次のように増加していった。
  1906~1910の年平均   611.351
  1911~1915の年平均   548.611
 このうち1913年の如きは、872.596名の出国者があり、実にイタリア人口1000人について24.8人のものが出たことになったほど大量の流出であった。
 イタリア移民が出始めた1869年から1962年の96年間に、かくして、出国者総数は2.400万に達する。この数はアルプスを越えてヨーロッパ諸国へ季節労働に出たものも含んでいるが、海外へ出た莫大な人数もその大半は出稼である。
 イタリア移民は、北アメリカでは“birds of passage”(渡り鳥)の名で呼ばれているとうり、儲けたら帰える出稼移民として知られている。そして、年によって出ていくものよりも帰ってくるものの方が多いことがある。1908年北米の景気が悪かった年には、出国者100に対し、帰国者は179の割合であった。また1914~1918年の大戦中には出国者100に対し帰国者456であった。1933年までにブラジルに入国したイタリア移民は約150万であったが、このうち3分の1は帰国している。そして、最近になっても帰国はたえない。1956年から1961年には100万をこえる数が外国からイタリアへ帰ってきた。”(Constantino Ianni, Homen Sem Paz)
 しかし、国外への出稼はイタリア人だけではない。ブラジルへ渡るポルトガル人も出稼が多い。シリア・レバノン人も同じこと。また、アジアでは中国の華僑、それに日本人も、もともと出稼目的の移民であった。
 カール・カウッキーは彼の有名な著書“農業問題”の中で、ヨーロッパにおける農民の出稼について詳細に書いている。その一節に、
“かのイタリアの労働者の出稼隊は、きわめて大規模なひろがりをもつにいたっている。彼らは夏にはヨーロッパで働き、冬期は南半球が夏となるのでアルゼンチンへ渡ってここで農作業に従事する。もっとも大がかりなのは中国人の出稼隊である。彼らは―季節のあいだどころではなく数年にわたって――一生ということはけっしてないが――アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、西インド諸島、オーストラリア、スンダ列島(ジャワ、スマトラ、その他)に移住している。”
“季節労働者は定期的に故郷にもどり、その賃労働でかせいだものを農業経営につぎこむ。これらの、たいていは未婚の者たちで必ずしも皆が皆帰ってくるわけではない。多くの者は新しい活動領域のうちへ同化してしまう。それにもかかわらず、彼らのうちの大部分は、その節約した蓄えを家へ送金し、農業だけでは食っていけないその家族の暮しを支える。アイルランドについてはその零細小作人の小作料はアメリカにいるアイルランド人の女中の蓄えから支払われているといわれている。そして多くのドイツ人の税金についても事態はこれとたいして変りはしない。そして、また少からざる者が、農村が困窮しているにもかかわらず、自分が生れた故郷の土地に儲けた金をもってまた帰ってくる。これは多くの破産した経営をしばらくの間ふたたび救けおこし、新しい土地を買い、一頭の牝牛を調達し、くずれかかった小屋を建てなおす。”(カール・カウッキー、“農業問題”山崎・崎山訳・第1冊・P.310)
 イタリアはレソルジメントによって農業革命をやった。しかし、そのやり方は不徹底であったために、独立した小農となっても、自分の土地を耕すだけでは生計を保持できないほどの零細農民をたくさん作ることになった。自分の農地だけで食べて行けなければ、その外に何かで儲けなければならない。そのために、農閑期や仕事のない日に賃労働に出て行くのは、どこの貧農でもやることである。ところが、それだけでも、まだ家計の赤字が消えなければ、家族のうちの誰かが、大ていは元気な若い息子や娘たちが、さらに遠い所へ出稼に行かなければならなくなる。いいもけになると聞けば、外国へでも出て行く。
 要するに、出稼をする農民は、貧農とはいえ、それこそ猫の額ほどでも土地を持っているのだ。イギリスの農民のように“囲い込み”で徹底的に土地を収奪されて農業をやる生産手段というものをまるで失ってしまえば、農村にとどまるにしても小作か日雇労者になるわけだが、そうでなければ家族ぐるみ農村を去らねばならない。こんな所では出稼などやりようがない。農民の出稼は農業改革が不徹底で、農民層の分解がひまどり、農民は自分の土地がじりじりと小さくなっていても、貧窮にたえながら、その土地にかじりついていられる間カウッキーのいう“飢餓にたえる術”で農民として生きていく。この“飢餓にたえる術”の一つが、そもそも出稼であった。
 出稼は貧農だけがやったばかりではない。都市の労働者でも出稼を目的に、海外へ移民となって出ていくものは多い。しかし、この場合も、都市におけるプロレタリア化が不徹底なところほど多い。だから大都市よりも農村に依存した地方の小都市の小さな商工業経営者たちで、まだ完全にプロレタリア化していないものが、不況や生活の苦境を切りぬけるために、何がしかの金を儲けてきて行きづまった苦境を打開し、商売をもり返すことができるという希望がもてる所がなくてはならなかった。
 アメリカでは独立戦争後、西部地方の開拓植民が盛んになり、新しい土地を求めて、東南部から西部へ移るものが陸続として絶えることがなく、ヨーロッパから流入した幾百万の移民もこの「西漸運動」とよばれた移動に加った。この結果農業は画期的な発展をとげた。
 また、工業も、産業革命と技術革命との結果、農業よりも、もっとすばらしい大発展をした。そして、1860年には世界で第4位だった工業が第1位にのしあがった。“1860年には、アメリカの勤労者は10おれば、そのうち7人は農民だった。ところが1870年には10人のうちわずか5人が農民で、1900年には、この数3人半に下ってしまった。”(レオ・ヒューバーマン、アメリカ人民の歴史・下・小林・雪山訳)
 しかし、アメリカには、欧州におけるような農民収奪によって創出された厖大な賃労働者群が存在しなかったので、賃金労働者として働く移民がぜひとも必要だったし、それに、いくらきても足りなかった。
 賃金労働者となる移民、これこそ出稼を目的とするものにとって最適の仕事であった。それに、賃金はすばらしく良かった。“イタリアで1日の労賃が1リラか半リラという時に、アメリカでは7リラ取れるという報知の結果を考えて見るがいい。とにかくCalabria県の如きは、1900年の農業労働者の労賃が1790年のときの労賃と同じだったのだ。”
 それゆえ、旅費が工面できるものは、どしどしアメリカ行の船に乗りこんだ。ほとんどが、若い独身者や妻子を家に残した単身者たちで、みんな工業の盛んな大都市で賃金労働者になった。
 “1900年にはアメリカ合衆国にいた全イタリア移民の74.7%が工業都市に住んでいた。”(F. Cenni, Itarianos no Brasil. P.169)
 ブラジルでは1888年に奴隷制度を廃止した。この当時の主要産業はサンパウロ州のコーヒー栽培であった。それで、奴隷労働に代るものをヨーロッパからの移民に求めたのだが、12才以上の労働力3人以上ある家族者を、州政府とコーヒー農場主が旅費を全額負担して誘入するようになった。旅費を工面する必要がないことは、イタリア南部および島部の貧農にとって、すばらしい魅力で、このころから、南部からの移住者が激増しだした。
 アメリカやブラジルへ行ったものからの送金が出身郷里の出稼熱をあおったことはものすごかった。そして“郷里では、海外からの通信が、国内からの手紙よりも待ちこがれられた。Salerno県Castellabata郡の郵便局では、日によると、海外から着く郵便物の方が国内からのよりも多かった。”そして、小金を蓄めて帰ってくるものも年々増加し、それがまた出稼熱をあおった。
 南イタリアの町や村では、ローマのことよりも、São PauloやNew Yorkのことの方がもっと話題にされ、会話の中に、英語やポルトガル語のかたことを交えてアメリカやブラジルの事情を語るものが、どこでも見られた。そして、出稼移民がたくさん出ている町村の宗教祭は、彼らの送金のおかげで、小さな町でも賑やかに行われたが、移民に出ているものが少い町村の祭は、それに比べて淋しいものだった。”また、出稼が盛んになって“農村の労力が不足になり、労賃が高くなって農地の経営が困難になったところでは、やむをえず、農地を小さくして分割して売り出すようになった。こういうことは、以前は見られなかった。これらの土地は、出稼ぎで若干の金を持って帰った者が買ったが、中には、出稼もどりから借金をして買ってその借金を返すために海外へ出て行くものもあった。”(Constantino Ianni Homens Sem Paz)
 ブラジルへシリア・レバノン移民が出稼ぎに出ていく有様をT. Quounは、次のように書いている。“私は金儲けを目的とした多くの同胞が、1~2年後には、少しまとまった金を握って帰ろうと、抵当を入れてブラジルへ渡る旅費を借金して出かけることが分ってきた。彼ら願望は100ポンド(英貨)を持ちかえることだった。これだけあれば、つましく暮せば月1ポンドあればいい国では、利子だけでも食べていかれる。しかし、多くのものは、菜園を買ったり、住居を建てたりするのに使ったが、計画をまちがえて金が足りなくなると、それを補うために、すぐまた出かけて行くものもある。また、あるものは、当時、屋根を瓦ぶきにすることが流行していたので、その金を稼ぐために、再び出かせたものもあった。”(T. Quoun, A Emigração Sirio-Libanesa as Tarras de Promissão.)
 スペイン人、ポルトガル人も、だいたい出稼型であるが、ポルトガルは、歴史的にブラジルとは縁の近い国であることや言葉が同じであることが、出稼ぎをひじょうに気軽にさせた。
 “だから、ポルトガル人はアメリカ合衆国におけるイタリア人と同様に単なる“birbs of passagen”(渡り鳥)であった。しかし、ただイタリア人と異る点は、イタリア人はブラジルに人種的な痕跡を残さずに帰って行くが、ポルトガル人はブラジルにいる間は黒人の女と同棲して子供を作り、それを残してポルトガルへ帰って行く。なかには、そのために身動きができなくなり、やむをえず、ポルトガルとの縁を切って、そのまま永住するものも少くない。”“またポルトガルの女性も単身でやってきて、ほとんどが女中奉公か、小川の流れのある側で洗濯女になる。”と半世紀ほど前のポルトガル移民のことをAlfred Ellis Juniorはこんなふうに書いている。(“Populações Paulistas”P, 171と172)

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