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参考資料 1 日本語資料 アンドウ・ゼンパチ著 「コチア産業組合 30 年の歩み」、コチア産業組合、サン・パウロ市、1959 年 7 月 10 日。 池田重二著 「ブラジル同胞活躍の姿 – 無一文から大耕主・大実業家になるまで」、日伯文化出版社発行、サン・パウロ市、1961 年 5 月 20 日。 今井修一著 「ブラジルの農業」 海外植民學校出版部発行、東京市、1934 年 4 月 10 日。 移…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 7 章 生産販売方式の近代化 1 近郊農業と奥地農業 セアザというあたらしい卸売市場ができたことで、青果物の流通事情は大きく変わった。既述の道路網整備による産地の拡散とあいまって、サン・パウロ市の青果物集散機能も変わっていく。それまでの近郊農業、奥地農業といわれていた区分にも影響。「野菜は都市近郊で、穀物は奥地で」といえなくなってきた。 野菜果実産地が、遠方へと…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 6 章 野菜流通における日本人 1 日本人委託販売人の台頭 第二次世界大戦後にサン・パウロ市場で野菜需要が増大した背景には、委託販売人の増大という事情もある。とくに、日本人の進出がめざましい。同じことは、フェイランテについてもいえる。フェイラでは 1930 年代半ばから、日本人の野菜販売商が増えはじめていた。サン・パウロ郊外へむかって労働者階級の居住区域がひろが…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 5 章 野菜は食生活の必需品 1 工業化と生活様式の変化 リオ市とサン・パウロ市における野菜需要の増大は、生活様式の変化と関連する。生活が変わった背景には、市役所による都市化[注-46]と工業化[注-47]にかかわる政策があった。社会的、経済的発展をもたらしたふたつの現象は、市民の経済生活をレベルアップすると同時に、文化水準をも向上させた。こうした事情が素因とな…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 4 章 コチア組合対モジ組合の対立 1 モジ産業組合の経営事情 モジ産業組合は、1933 年 3 月 8 日、既存の「モジ・ダス・クルーゼス農産物出荷組合」( Grupo de Transporte Coletivo de Mogi das Cruzes 、1931 年 10 月 18 日設立の任意組合)を改組し、「モジ・ダス・クルーゼス日本人産業組合」 (So…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 3 章 日本人農家の生産活動 1 集団地づくりと協同組合 日本人がサン・パウロ郊外および近郊で野菜栽培をおこなうにあたり、規模の大小はあっても、集団地をつくる傾向にあった。短期間に 100 家族をこえる集団地を形成したのは、西のコチア村と、東のモジ・ダス・クルーゼス市だった。1920 年代には、ジュケリー、レジストロが大きな集団地となり、サン・パウロ郊外のサント…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 2 章 サン・パウロ近郊における野菜生産 1 20 世紀初めの野菜栽培事情 野菜需要が少なかったので、19 世紀末までの生産も低調だったことはすでに述べた。また、20 世紀になって、イタリア人移住者がサン・パウロ市へ流入したことにより、野菜消費をうながしたことも既述のとおりである。本章では、野菜園芸事情を生産および流通の両面から分析するとともに、日本人移住者の役…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 第 1 章 ブラジルにおける野菜普及前史 1 ポルトガル人による野菜の導入 日本人の間で、「ブラジル人の野菜摂取量は少ない」という話を聞く。ほんとうに少ないのかどうか。これは比較の問題である。今日の日本人とブラジル人を比較するなら、たしかにブラジル人の摂取量は少ないであろう。だが、19 世紀前半における状態は、かなりちがったものになる。日本人の大半にとって、野菜とい…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 目 次はじめに 1 日本人農家に対する誤解 2 日本人農業史の研究と資料 3 本レポートの意図するところと記述法 第 1 章 ブラジルにおける野菜普及前史 1 ポルトガル人による野菜の導入 2 植民地時代の農業 3 共和革命前後の野菜流通事情 4 サン・パウロの都市化と野菜需要 5 ヨーロッパ人がもたらす食文化 第 2 章 サン・パ…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 参考資料 日本語資料 (著者姓五十音順) 01 – 秋山桃水編 「高拓会会報」 第 1 号( 1958 年 10 月発行)~第 287 号( 2000 年 12 月 31 日発行)、高拓会発行、サン・パウロ州サン・パウロ市。 02 – アマゾニア産業株式会社ブラジル支社 「パラ州ブレーヴェス市ジュート試験場業務日誌」( 1938 年 9 月…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 3 ジュート産業の盛衰 3-1 強制接収された Ciasa ブラジルにおける日本人移民史のなかで、事業の挫折や計画が失敗に終わったケースはいくつもあった。原因について深く分析しないまま、たいがいは、「戦争のため」というひとことでかたづけようとする。はたして、そういえるであろうか。企業関係の場合、ブラジル政府による「資産凍結」[注 27]をあげることが多い。だが、凍結…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 2 アマゾンジュートの産業化 2-1 最初の量産で新聞が激賞 既述のとおり、尾山良太と中内義正は、1937 年 1 月から 3 月にかけて、商業生産目的の播種をおこなう。同年 3 月から 6 月にかけて収穫したジュートはすべて、長さ 3 メートルをこえる長繊維だった。尾山の収穫量は約 6 トン、中内は約 3 トン。Ciasa はこれをベレン市のマルチン・ジョルジェ商…
1 長繊維ジュートをえるまでの経緯 1-1 繊維植物としてのジュート ジュートはアオイ科ツナソ属の一年生草本で、学名はコルコラス・カプスラリス (Corchorus capsularis) 。和名はツナソ(綱麻)。英名ホワイトジュート (White jute) 。日本では一般に、中国名の黄麻(こうま)で知られていたが、1910 年代になって製麻工業の発達とともに、工業界では英語のジュート (Jut…
中野順夫(ブラジル農業研究者) 目 次はじめに 1 長繊維ジュートをえるまでの経緯 1-1 繊維植物としてのジュート 1-2 ジュート栽培の試み 1-3 辻小太郎のアイデア 1-4 荒木衛門による試験栽培 1-5 ジュート試作の中断 1-6 インド種ジュートの第四世代種子 1-7 長繊維種子の増殖 2 アマゾンジュートの産業化 2-1 最初の量産で新聞が激賞 …
1955年にコチア青年の第一陣が到着してから今年で60年を迎えます。その後の12年間に渡伯した2300名におよぶ農業青年たちは、ブラジルにおける日系農業にどんな役割を果たしたのでしょうか。この記念となる年に、第一回生として来られた黒木慧氏にコチア青年たちの足跡を辿っていただきます。 皆様お誘い合わせの上でご来聴下さること期待しております。 コロニア今昔物語『コチア青年がブラジル及び日系農業に果たし…