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	<title>半田知雄 &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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	<description>サンパウロ人文科学研究所 (Centro de Estudos Nipo-Brasileiros, CENB)はブラジルの日本人移民史、日系人・日系社会に関する調査研究を行う公益団体です。</description>
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	<title>半田知雄 &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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		<title>時代 第二号（1947） 巻頭言</title>
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		<pubDate>Fri, 18 Jan 2008 18:25:19 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
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					<description><![CDATA[　1947年に発刊された「土曜会」の同人誌「時代」第二号から、「巻頭言」をそのまま転載する。 第二号で初めて挿入された巻頭言の執筆は半田知雄が担当し、その上には半田による椰子の木と思われる挿絵が描かれていた。 　「この社 [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　1947年に発刊された「土曜会」の同人誌「時代」第二号から、「巻頭言」をそのまま転載する。 第二号で初めて挿入された巻頭言の執筆は半田知雄が担当し、その上には半田による椰子の木と思われる挿絵が描かれていた。<br><br>　「この社会に何ものかを貢献せんとするとき医者が患者の病状をさぐるが如く、現実を分析しその進転の方向をさぐらねばならぬ」「いかなる誠意も愛情も認識に先立たれたものでなかったら、主観におぼれた独善の行為たるをまぬかれぬ」との言葉に、その後の「土曜会」から「人文科学研究所」への展開が既に予告されている。ただし、後半の言葉には、単なる「現状」認識を越えて、「来るべき」文化運動を意識した半田の態度が表現されていることも、見逃してはならない。<br><br><br>巻頭言<br><br>時局の認識は必然的に時代の認識を要求する。<br>人類の社会は巨大なる生体の如く、その進むべき方向へ自転すると見るのが現代人の常識である。我らはこの社会に何ものかを貢献せんとするとき医者が患者の病状をさぐるが如く、現実を分析しその進転の方向をさぐらねばならぬ。いかなる誠意も愛情も認識に先立たれたものでなかったら、主観におぼれた独善の行為たるをまぬかれぬであろう。<br>我らはすべて「時代」の子だ。<br>やがてすぎ去るべき運命にありながら、この世におのが足跡をとどめんとねがうもの。新たに芽生え、のびゆく生命の力となってこそ、過ぎゆく時代を、真に生きぬくものといわれるであろう。<br><br><br>（旧字体・旧仮名遣いは改めた。）</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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		<title>コロニアの良心 半田知雄</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 17 Jan 2008 18:48:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[人文研史]]></category>
		<category><![CDATA[半田知雄]]></category>
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					<description><![CDATA[田中慎二 自己の信念を貫き、コロニアと共に生き、共に悩んできた半田の存在を「コロニアの良心」と呼んだのは、彼と刎頚の交わりをもった河合武夫である。ブラジル日系コロニアの歴史における半田が果した功績の一つは、創立発起者の中 [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph"><strong>田中慎二</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">自己の信念を貫き、コロニアと共に生き、共に悩んできた半田の存在を「コロニアの良心」と呼んだのは、彼と刎頚の交わりをもった河合武夫である。ブラジル日系コロニアの歴史における半田が果した功績の一つは、創立発起者の中心人物として、日系コロニア最初の美術運動であるサンパウロ美術研究会（聖美会）を結成したことであろう。<br><br>　聖美会が「互いに勉強し合う」ことを目的に設立されたのは1935年。半田をはじめ高岡由也、玉木勇治、田中重人、富岡清治らは、作品を持ち寄っては互いの研鑚にはげみながら後進の指導にあたり、コロニア画壇の基礎をつくった。<br><br>　香山六郎編『移民四十年史』に「移住者の美術運動」を執筆した半田は、当初の様子を「自己の作品はまだまだ幼稚なものであっても、理想はかなりはっきりしていて進歩的な議論をする連中であった。だから自然新しい流れとなり、新しい時代のグループとなったのである」と記している。<br><br>　高岡、玉木が絵画への情熱をたぎらせて旅費がないままにリオへの道を歩き、当時リオ画壇に強い影響を与えたポーランド出身の画家ブルーノ・レホウスキーに師事したエピソードは語り草として伝えられているが、レホウスキーの筆になる半田25歳の肖像画（1931年）は、聡明な若者らしい凛呼とした面影を残している。</p>



<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="295" height="221" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa.jpg" alt="" class="wp-image-18263 size-full" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa.jpg 295w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa-205x154.jpg 205w" sizes="(max-width: 295px) 100vw, 295px" /></figure><div class="wp-block-media-text__content">
<p class="wp-block-paragraph">ヴィラ・ソニアのアトリエで、</p>



<p class="wp-block-paragraph">１９７５年</p>
</div></div>



<p class="wp-block-paragraph"><br><br>　人文研の研究レポートや邦字新聞紙上に発表された評論家としての深い思想に富んだ秀れた文章は多いが、その著書としては「今なお旅路にあり」（1966年）、「移民の生活の歴史」（1970年）がある。特に「移民の生活の歴史」は執筆に２年をかけた労作で、ポルトガル語にも翻訳されて出版され、ブラジル日本移民史研究には欠かせない名著である。<br><br>　この著書のエピローグを、移民60 年祭を8日後にひかえて書きあげた半田は、「われわれ移民六十年の歴史は、ブラジル国民形成の歴史の一面でもあるが、その過程には、移民受入国でなければみられない人間的悲劇がひめられていたのであった。」と結んでいる。この「われわれ移民六十年の歴史は」を「移民百年の歴史は」と書き替えても、移民60 年祭以後40年の経過をみるとき、「人間的悲劇」に差異はないように思われる。<br><br>　この移民史の執筆を半田に依頼しようと提案したのは、人文研創設当初から専任理事を務めた斎藤広志で、「その面での半田君の才能を見出した斎藤君の功績だが、これに対して、僅かな給与で書かせるのは彼の画業をさまたげるもの…との批判もあった。」と後に河合は述懐している。<br></p>



<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img decoding="async" width="285" height="232" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa2.jpg" alt="" class="wp-image-18264 size-full" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa2.jpg 285w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa2-15x12.jpg 15w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/tomoo_handa2-205x167.jpg 205w" sizes="(max-width: 285px) 100vw, 285px" /></figure><div class="wp-block-media-text__content">
<p class="wp-block-paragraph">オーロプレットの寺院</p>
</div></div>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>　また半田は1970 年代の初期から移民資料収集の必要性を提唱、人文研のメンバーを中心に広くコロニアに呼びかけ、その構想が発展してブラジル日本移民史料館が建設された。 1983年には、自らの体験をもとに制作した絵画シリーズ「移民の生活」45点を、移民史料館に寄贈、文協貴賓室でその展示会が開催された。ブラジルの大地に根をおろした移民画家として、ブラジルの風俗や移民の生活を描写したその絵画シリーズは、移民史料としても貴重な意味あいの作品群として評価は高い。<br><br>　両親とともに渡伯してノロエステ線のコーヒー園に配耕されたのは半田11 歳のときで、家族と各地の邦人植民地を転々とする。やがてブラジル時報社に活字拾いとして就職、日本語をマスターして地方植民地の日本語教師となるが、再び出聖して商業学校の聴講生となった。しかし商人には不向きな自分の性格を痛感して美術学校へ転校、以後絵の道一筋に生きた。<br><br>　「ぼくは絵を描きながら死にたい。それがぼくの最大の贅沢な夢だ」。その言葉とおりにアチバイアの閑静なアトリエで、最後まで絵を描きつづけて生涯を終えた。1996年8月1日逝去、享年90歳であった。<br><br><br></p>
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