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	<title>寄稿 &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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	<description>サンパウロ人文科学研究所 (Centro de Estudos Nipo-Brasileiros, CENB)はブラジルの日本人移民史、日系人・日系社会に関する調査研究を行う公益団体です。</description>
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	<title>寄稿 &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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		<title>トランスナショナリズムの視角から見た日本移民および日系ブラジル人研究の戦略的重要性：国際移動者の国境を横断する繋がりの歴史社会学に向けて</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 20 Jan 2015 18:18:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[柴田寛之 terça-feira, 20 de janeiro de 2015 はじめに　筆者は現在アメリカの大学院で社会学の視点から日系ブラジル人の国境を横断する繋がりの研究を行っている。本稿は、主に社会学を中心とした [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph">柴田寛之</p>



<p class="wp-block-paragraph">terça-feira, 20 de janeiro de 2015</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>はじめに</strong><br>　筆者は現在アメリカの大学院で社会学の視点から日系ブラジル人の国境を横断する繋がりの研究を行っている。本稿は、主に社会学を中心としたアメリカの移民研究の動向を背景として、ブラジルにおける日本移民および日系ブラジル人の移住過程が、近年急速に注目を集めているトランスナショナリズムという視角にとって戦略的重要性を有していることを指摘したい。そのために、本稿は第一にアメリカにおける移民研究の動向を同化論的パラダイムからトランスナショナルな視角の登場として整理し、第二に、トランスナショナルな視角が現在抱える課題を指摘した後に、第三に、ブラジルにおける日本移民の歴史、そして80年代以降盛んになった日本へのデカセギ現象を総合的に研究することが、そうしたトランスナショナルな視角の抱える課題を乗り越えるための研究上の戦略的重要性を有していることを指摘したい。最後に、試論として、トランスナショナルな繋がりの歴史社会学にむけて、３つの重要と考えられる要因をしてきしたい。本稿の試みは、研究の全体からすればほんの端緒に過ぎない。しかし、ここ20年で新たな研究動向として定着しつつあるトランスナショナルな視角の更なる発展にとって示唆を与えるものと期待する。<br><br><strong>アメリカ合衆国における同化論パラダイムとトランスナショナリズム</strong><br>　世界各地の国々からアメリカへの移民は、その建国の物語そのものといっても過言ではない。そうした歴史を反映し、移民研究は、アメリカの社会科学の中で基幹的な研究領域の1つとなってきた。しかし、その建国の物語は同時に、同国における移民研究の動向に特定の方向性をもたせてきた。すなわち、アメリカにやってきた移民たちがどのようにその社会の中に編入していくのかという点、いわゆる移民の同化過程に主要な関心を注いできたのである。<br>　このことは、同国の歴史に、人種的排除や移民排斥がなかったということではもちろんない。同国の歴史のもう1つの側面は、むしろ人種的、民族的排除によって特徴づけられる。20世紀中盤まで続いたアフリカ系アメリカ人の人種隔離はつとに有名であるし、20世紀初頭の黄禍論を背景とした日系移民を含むアジア系移民に対する排斥もアメリカの歴史を考える上で無視することはできない。したがって、自由民主主義を自負する同国は、規範的なレベルでは、こうした排除の側面をいかに乗り越えるかという課題に常に直面し続けてきた。すなわち、いかに移民たちがその社会の中に同化していくかという上に掲げた問い、また社会の側の視点からすれば、いかに移民たちの人種的・民族的多様性の中で統合を実現するかという問いは、規範的な課題としても同国にとって常に重要性を帯びてきたのである(Alba and Nee 2003)。<br>　こうした歴史的経緯を背景として、1920年代のシカゴ学派都市社会学以来、他者としてやってきた移民たちがアメリカの主流社会との間でその他者性・異質性を調停し、主流社会の中へと編入されていく過程が数多く記述され、分析されてきた。また、その諸理論の形成発展の中で、移民の同化自体も、主流社会の支配的な文化社会コードへの移民たちの編入といった単線的なプロセスとして理解されるのではなく、アメリカ社会の多様性、階層性の反映、ないしそうした性質に貢献するものとして捉えられるようになってきた(Portes and Zhou 1993; Alba and Nee 2003)。<br>　単線的な同化理解から複線的で多様な同化過程へと研究上の問題関心の焦点が移行していくのと並行して、1990年代以降、必ずしも同化や統合を移住過程の最終的な終着点と見ない研究枠組みが登場する。トランスナショナリズムである。グローバリゼーションの進展と共に、国境を越えて移動するヒト、モノ、カネは飛躍的に増加した。と同時に、移動技術の発展は、移動にともなうコストの低下をもたらした<sup><a href="https://cenb.org.br/articles/display/359#ref1">1</a></sup>。生まれた社会を離れ、一度移住先の社会へと移り住んだならば出身社会との繋がりは次第に弱まり、そして移住先社会に編入されていく。こうした単線的な同化の物語に代わって、ホスト社会に移動した後も出身地社会との繋がりを様々な形で維持し続けている事例が急速に注目を集めるようになったのである。<br>　トランスナショナルな視角からの移民研究の嚆矢を切ったグリック・シラーらによれば、移民のトランスナショナリズムは移民がその出身社会と居住先の社会とをつなぐ社会的領域を形成する過程として定義される(Glick Schiller et al. 1992)。そうした越境的社会ネットワークを形成維持するなかで、移民たちはどちらか一方の社会のみに固定されない重層的なアイデンティティを発展させ、また彼らの活動は領域的な社会の境界を越える。<br>　また、トランスナショナリズムは居住社会への同化ないし編入と必ずしも対立しない。編入の過程とトランスナショナルな過程は、互いに影響を与えあいながら移住プロセスを形作る(Levitt and Glick Schiller 2004; Tsuda 2012)。関係論(relationalism)の視点に立てば、編入のあり方の違いは移民のトランスナショナリズムに影響を与えるし、また逆にトランスナショナリズムのあり方の違いがホスト社会への編入に変化をもたらす。かくして、トランスナショナリズムの登場によって、単線的かつ同質的な同化からより多層的で多元的な移住過程の理解へと移民研究の課題は移行しつつある。<br><br><strong>トランスナショナルな視角の課題</strong><br>　支配的な同化パラダイムに対する批判として登場してきたトランスナショナルな視角は、しかし、それ自体に課題がないわけではない。それはこれまでの研究が採用する認識論的前提自体に関係する。トランスナショナルな視角は、同化パラダイムが領域的な社会を前提としてきたと批判する(Wimmer and Glick Schiller 2002)。これに対してトランスナショナリズムは、越境的な主体、すなわち移民の「下から」の実践に着目する(Smith and Guarnizo 1998; Portes et al. 1999)。グローバル企業などの越境的な活動を「上から」のトランスナショナリズムと捉えるならば、移民のトランスナショナリズムは、なによりもまず移民自身たちの手によって開始されまた実践される諸活動として理解されている。換言すれば、移民の行為主体性(agency)がトランスナショナルな社会ネットワークの何よりもの担い手とされるのである。<br>　ある社会的関係が構築され、維持され、あるいは変容するのは、行為主体が行う社会的行為によるのだから、移民の行為主体性への着目それ自体に異論はない。しかしながら、行為主体性はそれ自体、制度に媒介された社会的関係に埋め込まれている。そのため、主体の社会的行為は社会的関係に影響を与え、それを変容させていくとしても、そのとり得る社会的行為の幅は所与の社会的関係により制約される(Giddens 1984)。「下から」の実践を強調するトランスナショナルな視角に不足しているのは、その移民たちの実践を方向づける制度化された社会関係への視座である。<br>　もっとも、既存の研究が制度への視点を欠いてきたと断じるのは公平ではない。例えば、ポルテスとランバートは、様々な移民集団の編入様式の違いを説明する際に、各移民集団が置かれた制度的文脈の差異に着目している(Portes and Rumbaut 2001:46-9)。しかしながら、ここで見逃されているのはそうした制度的文脈の通時的変化である。そこから帰結するのは、制度的な文脈を安定した要素として分析の周辺に位置づけ、トランスナショナルな社会領域の形成と維持を移民の行為主体性から説明しようとする試みである。確かに、社会制度は一度それが構築されると、制度自体の安定性から、変化に対する耐性を発揮する。しかしこのことは社会制度が不変であることを意味しない。長期的な視点に立てば、いかに我々を取り囲む社会制度が変化してきたかは明白だろう。共時的な次元にとどまる限り、移民集団ごとのトランスナショナルな社会領域の編成の違い比較は行えても、そうした長期的な時間経過の中での変化のダイナミズムを分析することは難しい。トランスナショナルな視角をとる研究の多くが、さまざまな事例の発見にとどまり、事象の発生、維持、変容の説明にまでは至っていないのには、以上のような認識論上の前提があるように思われる。<br><br><strong>戦略的事例としてのブラジルにおける日本移民</strong><br>　なぜ移民のトランスナショナルな繋がりは発生し、発展維持され、そしてある場合には変化衰退するのか。こうした問いに応えるためには、移民の越境的なネットワーク形成を運送、コミュニケーション技術の発展の結果として現れた現代に特徴的な現象として捉えていてはこうした問いに答えられない。また同時に、過去にも同様の現象は存在したという指摘も上記の問いへの回答となり得ない。1990年代におけるトランスナショナルな視角の初期の定式化以来、そのような指摘はなされてきた(Foner 2000)。確かに19世紀にイタリアから世界各地に渡って行ったイタリア移民の事例など歴史の中のトランスナショナリズムは知られている(Gabaccia 2000; Choate 2008)。しかし、そうした事例の指摘からだけでは、なぜそうした事象が歴史のある時点において発生し、また衰退したのか、あるいは、過去のトランスナショナリズムと現在のそれとではどのような差異があり、またどの点において共通性を有しているのかという問いに答えられない。必要とされているのは、比較的長期的な歴史的経過の中での移民のトランスナショナリズムの発生、継続、そして変容を捉える視点である。<br>　同時に、分析される対象も比較的長期的な過程を備えていることが分析の条件となる。まさにこの点で、1908年の笠戸丸に始まる日系ブラジル人の歴史は、移民のトランスナショナリズムの長期的な経過の中での変容の分析にとって戦略的な重要性を有しているのである。<br>　日系ブラジル人の歴史100年を振り返ってみれば、大きく3期に区分できるだろう。すなわち、国策移民としての性格を持った戦前の日本からブラジルへの移住と定着、勝ち負け抗争を経てブラジルの日系社会を構築していく戦後期、そして1980年代以降のいわゆる日本へのデカセギ期である。それぞれの時期によって、日本とブラジルの日系人との、また逆にブラジルと日本の日系人とのトランスナショナルな関係は変化する。戦前期には、領事館、ブラタクをはじめとした日本の制度を中心にコロニア社会が形成された。そこでは、ブラジルの中で日本が再生産され維持されたという意味で、トランスナショナルな関係は遠隔地ナショナリズム(long-distance nationalism)として捉えられる<sup><a href="https://cenb.org.br/articles/display/359#ref2">2</a></sup>。これに対して戦後期は、トランスナショナルな繋がりの潜在化の時期として位置づけられるだろう。すなわち、日本からの制度的介入は著しく減少し、戦後移民を伴いながらも、ブラジル日系人はブラジルの「ニッケイ人」としてブラジル社会の中で社会上昇を果たしていく。とはいえ、このことは彼らの日本人性が消え去り、ブラジル社会へ同化していったということを意味しない。むしろエスニシティとしての日系性は彼らの互助ネットワークの鍵として機能していく。<br>　1980年代からのデカセギ現象は、大きく経済的理由に動機づけられていると言えよう。また、日本での就労は請負会社が大きく関与し、非正規労働者がその多くを占めるという意味で、ネオリベラルな情勢下でのトランスナショナリズムと捉えられよう。しかしながら、デカセギは経済的要因のみによって説明できるものではない。1980年代のブラジル経済のインフレ期には日系に限らず多くのブラジル人が国外へと移住した。そしてその多くは経済的機会を求めてアメリカ合衆国へと渡った(Margolis 1993; 2013)。しかしながらその中に日系ブラジル人はほとんど含まれていない。もし80年代以降の日系ブラジル人の出移民が、経済的現象に還元できるのならば、なぜアメリカへ渡ったものがほとんどいないことを説明できない。実はその直接の事実関係の説明はさほど難しくない。つとに指摘されているように、日本での1990年の入管法の改正によって、日系人に対する定住者ビザが認められたことがブラジルから日本へのデカセギの背景をなしている。しかし、法改正は、それに先立つ日系ブラジル人と日本との歴史的関係に照らして理解する必要がある。すなわち、笠戸丸以来の日系ブラジル人の歴史を現在のデカセギ現象を含めて総合的に捉えることで、トランスナショナルな繋がりの歴史として語り直すのである。<br>　この観点から重要なのは、トランスナショナルな繋がりの変容であり、その諸原因である。先に示した３期に渡るトランスナショナルな繋がりの変容はなぜどのように生じたのか。主意主義的に理解される当事者たちの行為ではなく、彼らを取り囲む制度的配置に注目することで、トランスナショナルな繋がりの歴史社会学を構想する機会を日系ブラジル人の事例は我々に与えるのである。<br><br><strong>経済、政治、社会：トランスナショナリズムの３つの側面</strong><br>　ではどのような要因が移民のトランスナショナルな繋がりに影響を与えていると考えられるのか。試論として、ここでは３つの要因を指摘したい。すなわち、国際および国民経済の展開、市民権と国民性をめぐる国家の政策と制度、そして移民の社会的ネットワークを支えるローカルな諸制度である。これら3つの要因は一般的な視点からは経済、政治、そして社会の各領域にそれぞれ対応する。<br>　第1には経済領域の展開である。国民経済および国際政治経済の展開は、移民のトランスナショナルな繋がりにとって構造的な条件となっている。第1に、国際政治経済の不均衡な発展は国際移民が生じる構造的な背景をなす。国際政治経済における変化はヒトの国際移動およびその定着過程のパターンに影響をあたえる。日系ブラジル人の事例で考えれば、20世紀初頭の日本からブラジルへの移民、戦後ブラジル社会での社会上昇、そして1980年代以降のデカセギ現象は国際政治経済のマクロな変化を背景にしている。第2に、ホスト国での国民経済の展開は、移住者が編入される労働市場内での位置を大幅に規定する。20世紀初頭のブラジルのプランテーション経済はサンパウロ内陸部での農業に日本移民を編入した。戦後ブラジルの工業化と都市化は都市部における雇用機会を生み出した。ひるがえって1980年代以降の日本経済は、日系ブラジル人たちの多くを製造業の非熟練労働者として吸収した。しかしながら、ヒトの国際移動のパターンもトランスナショナルな繋がりのどちらも経済的要因の直接の函数ではない。国家がその過程に介在するからである。このことは第2の要因、すなわち、市民権と国民性をめぐる国家の政策と制度へと我々の関心を向かわせる。<br>　国家は与えられた国際政治経済環境と国内の社会秩序に照らして自らの利益を促進、あるいは保護しようとする(Skocpol 1985: 8)。その試みの一環として、国家はその領域内外の人口に対して戦略的に政策を実行する。実際に、20世紀初頭の日本からブラジルへの移民は、両政府間の契約移民として行われた。しかし国家の関与はそれにとどまらない。「国際」移民は本質的に政治的な現象であり、国家はその過程に常に介在する(Waldinger and Soehl 2013)。問題となるのは、国家とその人口との関係である。移民の送り出し、受け入れ双方の国にとって、多くの場合、移民人口は潜在的な資源だからである。一方では、受け入れ国はある特定の人々の集団をその政体(body politic)に編入またはそこから排除しようとする(Hammer 1990; Torpey 2000; Zolberg 2008)。他方では、送り出し国もまた、その領土の外に居住する「国民」と一定の関係を保とうとする<sup><a href="https://cenb.org.br/articles/display/359#ref3">3</a></sup>。多くの場合、送り出し国は国民性の観念をその領域外に居住する「国民」を包摂する一様式として活用する。これは、市民権が領域的国家内部での構成員資格を規定するのに対して、国民および国民性の観念は必ずしも境界を共有しないからである。<br>　ここで市民権と国民性の分析的区別が重要である。近代の国民国家はその国家の構成員資格である市民権と国民性を記述的にも規範的にも同一視してきた。しかしながら、この想定された一致は理念型以上のものではない。近代的市民権が領域的な政治的単位の領域の内部でのみ効力を発揮するのに対して<sup><a href="https://cenb.org.br/articles/display/359#ref4">4</a></sup>、国民性とナショナリズムは国家の領域のサブレベルで、あるいは領域を跨いで作用する。いずれの場合も国民の境界は、国家の領域的境界と必ずしも一致しない。この乖離から、送り出し国は国外の移民人口の国民性をその領域を超えて制度化しようとする。と同時に受け入れ国はその同一の人口をその政体に組み入れようとする。このことは戦前戦後を通じた日本とブラジルの日系ブラジル人に対する対応に当てはまる。日本政府はブラジルの日本移民に対して戦略的に働きかけ、一種の飛び地(exclave)を制度化しようとした。あからさまな介入は戦後なくなるとしても、その影響は戦後の日系社会の形成に大きく影響を与えている。同時に、ブラジル政府も日本移民をブラジル社会に同化させようとした。特に1930年代には、ヴァルガス政権の国民化政策の下でそれは徹底された。日系ブラジル人のトランスナショナルな繋がりは、こうした２つの国家の国民化政策を背景として発展しまた衰退したと考えられる。<br>　このことに加えて、市民権と国民性のギャップは日本へのデカセギ還流が生じた際にも検討に価する。1990年、日本政府は民族性の共有の論理により3世までの日系人に対して定住者ビザの地位を認めた。しかしながら、このことは市民権制度の変容そのものを意味しない。むしろ、市民権取得のルールは彼らを依然として外国人として取り扱った。その結果として彼らは日本社会に包摂されると同時に排除されることとなった。これは80年代以降の日系ブラジル人のトランスナショナリズムを考える上での制度的背景となる。<br>　第３に考えたいのは、移民の社会的なネットワークを支えるローカルな諸制度である。移民たちの互助組織は、受け入れ社会への編入とトランスナショナルな繋がりの維持の双方に対して両義的な役割を果たすことが知られている。一方では、移民たちの組織はその成員たちに働きかけ、出身社会とのトランスナショナルな維持を促す(Smith 1998; 2006)。他方で、移民たちは、彼らの居住社会への編入のためにも互助組織を形成する(Jones-Correa 2013; Smith 2013)。移民たちの互助組織の形態とその密度はかれらのトランスナショナルな繋がりのあり方に影響を及ぼす。では、どのような要因が組織の方向性に影響を与えるのであろうか。上に述べたように、既存の多くの研究はトランスナショナルな繋がりは移民諸個人によって開始、維持されると想定してきた。こうした想定は、移民の社会的ネットワークに関する理論一般とその主張を同じくする。ポルテスは社会的ネットワークに接続された成員の強制力のある信頼関係(enforceable trust)が彼らをして当該ネットワークへの持続的な献身へと導くと論じる(Portes 1998:7-9)。コリアンアメリカンの間の講を例にとり、成員相互間の強制的な信頼がなければ、誰も講に貢献しないだろうし、誰も講の金融機能を活用できないだろうとポルテスはいう(1998: 13)。すなわち、成員間の互恵的な連帯が社会的ネットワークの制度化の原因だとするのである。<br>　しかしながら、移民の社会的ネットワークへ貢献はその成員間の互恵的紐帯からのみ発生するものではない。移民当人たちの貢献に加えて、他のアクターも社会的ネットワークの維持、発展に貢献しうる(Breton 1991)。戦前における日本の飛び地としてのコロニアの形成は日本政府と移民会社による移民の社会的ネットワークへの資源供給の事例として捉えることができるだろう。戦後期においてさえ、JAMICやJICAの社会ネットワークへの貢献は見逃せない。さらに、地方自治体やローカルなNPOもそれぞれの理由から移民の社会的ネットワークに資源を提供しうる(Tsuda 2006; Jones-Correa 2008; Marrow 2009)。こうしたローカルな制度から移民の社会的ネットワークへの資源供給は、その取り組みが十分とは言えないとしても、日本における日系ブラジル人コミュニティを考察する際に重要な要素となる。<br>　以上はほんの試論にすぎないが、上記３つの要因に着目して、日本移民そして日系ブラジル人の100年をトランスナショナルな視点から再検討するための概要を試みた。もちろん、これら３つの要因は、相互に関連しあい、その相互作用の中でトランスナショナルな繋がりは形作られると考えられる。したがって、これら3つの要因が具体的にどのように相互に影響を与えあい、結果としてトランスナショナルな繋がりを形成するのかが実証的に研究される必要がある。それは筆者にとっての今後の課題である。<br><br><strong>おわりに</strong><br>　本稿ではアメリカの社会学における移民研究の動向を概観し、その中で支配的な同化パラダイムを乗り越えようと新たな研究視角が生まれてきていること、しかし、その新たな研究視角にも制度的文脈に対する分析の弱さが存在すること、そして何より、日系ブラジル人の100年の歴史を総合的にトランスナショナルな視角から見直すことで、移民のトランナショナルな繋がりの歴史社会学の可能性が開けることを論じてきた。その際に着目できる３つのマクロな要因についても試論的にだが示そうと努めた。<br>北米はおろかヨーロッパ諸国、そしてアジアの国々で移民の問題は近年大きな注目を集めている。シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)の事件は、移民の問題が急速に政治化していることを悲劇的な形で示してしまった。しかし「今ここ」で起こっていることに反射的に対応していては問題の本質をつかみ損ねることになるだろう。長期的な歴史の中で移民の問題を理解しようと努めることで初めて「今ここ」で起こっていることの理解と解決への筋道が見えてくる。この意味で、日系ブラジル人の100年の歴史を検討することは移民研究そのものにとって戦略的重要性を有しているのである。<br><br><strong>注</strong><br>　<sup><a>1</a></sup>とはいえ、後に述べるように、運送技術の発展がトランスナショナルな社会関係の主要な原因であると結論付けるのは早計である。<br>　<sup><a>2</a></sup>無論、全てのコロニアを画一的に遠隔地ナショナリズムとして捉えられるわけではないし、「日本」の再生産も日本社会の完全なる複製としてのそれではない。何が遠隔地ナショナリズムを再生産する要因だったのかは、コロニアの比較を通じて分析されるだろう。<br>　<sup><a>3</a></sup>送り出し国が在外同邦に対して包摂的な政策をとる事例は地域、時代をまたがって広く存在する。その主要な事例は以下を参照のこと。Brubaker (1996); Ong (1999); 長崎(2004; Park and Chang (2005); Choate (2008)。<br>　<sup><a>4</a></sup>外交的保護のケースを除く。<br><br><strong>参考文献</strong><br>　Alba, Richard, and Victor Nee. 2003.&nbsp;<em>Rethinking American Mainstream: Assimilation and Contemporary Immigration.</em>&nbsp;Cambridge: Harvard University Press.<br>　Breton, Raymond. 1991.&nbsp;<em>The Governance of Ethnic Communities: Polítical Structures and Processes in Canada.</em>&nbsp;New York: Greenwood Press.<br>　Brubaker, Rogers. 1996.&nbsp;<em>Nationalism Reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe.</em>&nbsp;New York: Cambridge University Press.<br>　Choate, Mark. 2008.&nbsp;<em>Emigrant Nation: The Making of Italy Abroad.</em>&nbsp;Cambridge: Harvard University Press.<br>　Foner, Nancy. 2000.&nbsp;<em>From Ellis Island to JFK: New York’s Two Great Waves of Immigration.</em>&nbsp;New York: Russell Sage Foundation.<br>　Gabaccia, Donna R. 2000.&nbsp;<em>Italy’s Many Diasporas.</em>&nbsp;Seattle: University of Washington Press.<br>　Giddens, Anthony. 1984.&nbsp;<em>The Construction of Society: Outline of the Theory of Structuration.</em>&nbsp;Cambridge: Polity Press.<br>　Glick Schiller, Nina, Linda Bash, and Szanton Blanc, eds. 1992. “Toward a Transnational Perspective on Migration,”&nbsp;<em>Annals of the New York Academy of Science,</em>&nbsp;645.<br>　Jones-Correa, Michael. 2013. “Thru-Ways, By-Ways and Cul-de-Sacs of Immigrant Political Incorporation.” Pp.176-91, in Jennifer Hochschild, Jacqueline Chattopadhyay, Claudine Gay, and Michael Jones-Correa, eds.,&nbsp;<em>Outsiders No More? Models of Immigrant Political Incorporation,</em>&nbsp;New York: Oxford University Press.<br>　Jones-Correa, Michael. 2008. “Race to the Top? The Politics of Immigrant Education in Suburbia.” Pp. 308-40, in Douglas Massey, ed.,&nbsp;<em>New Faces in New Places: The Changing Georraphy of American Immigration.</em>&nbsp;New York: Russell Sage.<br>　Levitt, Peggy, and Nina Glick Schiller. 2004. “Conceptualizing Simultaneity: A Transnational Social Field Perspective on Society,”&nbsp;<em>International Migration Review,</em>&nbsp;38(3): 1002-39.<br>　Margolis, Maxine L. 1993. 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Chang. 2005. “Contention in the Construction of a Global Korean Community: The Case of the Overseas Korean Act,”&nbsp;<em>The Journal of Korean Studies,</em>&nbsp;10(1): 1-27.<br>　Portes, Alejandro, and Min Zhou. 1993. “New Second Generation: Segmented Assimilation and Its Variants,”&nbsp;<em>Annals of the American Academy of Political and Social Science,</em>&nbsp;530: 74-96.<br>　Portes, Alejandro, Luis E. Guarnizo and Patricia Landolt. 1999. “The Study of Transnationalism: Pitfalls and Promise of an Emergent Research Field”,&nbsp;<em>Ethnic and Racial Studies.</em>&nbsp;22(2): 217-37.<br>　Portes, Alejandro, Rubén Rumbaut. 2001.&nbsp;<em>Legacies: The Story of Immigrant Second Generation.</em>&nbsp;Berkeley: University of California Press.<br>　Portes, Alejandro. 1998. “Social Capital: Its Origins and Applications in Modern Sociology,”&nbsp;<em>Annual Review of Sociology,</em>&nbsp;24: 1-24.<br>　Skocpol. Theda. 1985. “Bringing the State Back In: Strategies of Analysis in Current Research.” Pp.3-37 in Peter B. Evans, Dietrich Rueschmeyer, and Theda Skocpol, eds.,&nbsp;<em>Bringing the State Back In.</em>&nbsp;New York: Cambridge University Press.<br>　Smith, Michael Peter Smith, and Luis Eduardo Guarnizo, eds. 1999.&nbsp;<em>Transnationalism from Below,</em>&nbsp;New Brunswick: Transaction Publishers.<br>　Smith, Robert C. 1998. “Transnational Localities: Community, Technology and the Politics of Membership within the Context of México and U.S. Migration,” PP.196-238 in Michael Peter Smith and Luis Eduardo Guarnizo, eds.,&nbsp;<em>Transnationalism from Below.</em>&nbsp;New Brunswick: Transaction Publishers.<br>　Smith, Robert C. 2006.&nbsp;<em>Mexican New York: Transnational Lives of New Immigratns.</em>&nbsp;Berkeley: University of California Press.<br>　Smith, Robert C. 2013. “Mexians: Civic engagement, Education, and Progress Achieved and Inhibited.” Pp.246-66, in Nancy Foner, ed.,&nbsp;<em>One Out of Three: Immigrant New York in the Twenty First Century,</em>&nbsp;New York: Colombia University Press<br>　Tsuda, Takeyuki. 2012. “Whatever Happened to Simultaneity? Transnational Migration Theory and Dual Engagement in Sending and Receiving Countries,”&nbsp;<em>Journal of Ethnic and Migration Studies,</em>&nbsp;34(4): 631-49.<br>　Tsuda, Takeyuki. Tsuda, Takeyuki. 2006. “Localities and the Struggle for Immigrant Rights: The Significance of Local Citizenship in Recent Countries of Immigration.” Pp.3-36, in Takeyuki Tsuda, ed.,&nbsp;<em>Local Citizenship in Recent Countries of Immigration: Japan in Comparative Perspective,</em>&nbsp;Lanham: Lexington Books.<br>　Waldinger, Roger, and Thomas Soehl. 2013. “The Political Sociology of International Migration: Borders, Boundaries, Rights, and Politics.” Pp.334-44 in Steve Gold and Stephanie Nawn, eds.,&nbsp;<em>The Interenational Handbook of Migration Studies.</em>&nbsp;London: Routledge.<br>　Wimmer, Andreas, and Nina Glick Schiller. 2002. “Methodological Nationalism and Beyond: Nation-State Building, Migration, and the Social Science,”&nbsp;<em>Global Networks,</em>&nbsp;2(4): 301-34.</p>
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		<title>カンポ・グランデの沖縄そばについて</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Sep 2012 19:39:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[安井大輔（京都大学大学院文学研究科）（←記事掲載時肩書き。現在のプロフィールは名前をクリック） 　大学で社会学を学ぶわたしは、移民の食文化に関心を持って各地で調査を続けている。世界最大の日系コミュニティを有するブラジルで [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph"><strong><a href="https://researchmap.jp/read0155942" data-type="link" data-id="https://researchmap.jp/read0155942" target="_blank" rel="noopener">安井大輔</a>（京都大学大学院文学研究科）</strong>（←記事掲載時肩書き。現在のプロフィールは名前をクリック）</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　大学で社会学を学ぶわたしは、移民の食文化に関心を持って各地で調査を続けている。世界最大の日系コミュニティを有するブラジルでは、移民の出身地域から持ち込まれたり、入植先の文化とまじりあったりして作り上げられたさまざまな「日本食」が展開されている。全国的には寿司や刺身は有名だが、一方で地域特有のローカルフードとして根付いているものもある。そのような地元の味として特産品となっているカンポ・グランデの沖縄そば（以下、そばと表記）がある。いまだ研究途上ではあるが、今回の調査からわかったカンポ・グランデにおける移民とそばの歴史について、簡略ながら述べてみたい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　カンポ・グランデへの日本人の入植はノロエステ鉄道建設による。当時鉄道工夫として現地で働いた日本人の多くが沖縄県出身者であり、現在もなお日系人人口の60％が県出身者で占められるという。鉄道が開通した後、彼らの一部はコーヒーや野菜栽培をはじめ定住するようになった。悪天候で農作業不能な日や、誕生日の祝いの席などで主婦たちは手打ちのそばを作った。庭で放し飼いにしている鶏のスープで好みの味を作り、隣近所を招待して故郷の味を楽しんでいたという。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ここで沖縄そばについて紹介しておくと、沖縄における沖縄そばは、日本の他地域でそばと呼ばれるものとは異なる。蕎麦粉ではなく小麦粉を使用し、麺はかんすい（アルカリ塩水溶液）または灰汁を加えて打たれる。製法的には中華麺と似ているが、中華麺よりやや太めの麺や薄い出汁の味などうどんに近いところもある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　沖縄出身者たちは故郷で覚えたそばの味を再現していたが、戦前のそれはあくまで家庭内の食として消費されていた。外食としてそばが売り出されるのは戦後である。1954年、沖縄県人会の書記でもあった友寄英芳氏によりアントニオ・マリア・コエリョ街に開かれたバールではそばを提供していたという。その後、1960年に勝連ひろし氏が産業組合の一部にそば専門の店を開店した。当時、これらの店は人々の寄合どころとして親しまれたという。1965年、勝連氏はフェイラ（露天市場）に出店する。当時、戦後移住者の多くは経済的に困窮し生活は不安定だった。フェイラはそのような人々にとって情報交換の場所として機能した。人々は野菜を売りさばいた後、そば屋で故郷の料理を味わいながら、仕事の情報などを交換し合ったのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">市内老舗のそば屋「東京」創業者の源河隆子氏は、1958年に一五歳で家族で沖縄からボリビアに移住した「カッペン移民」の第一次入植者だった。しかし父はカッペン到着後、三週間の調査の末引き上げ、カンポ・グランデとの中間地点にあるカッセル耕地に居を構えた。親戚の家を転々とした彼女は1962年、19歳で結婚後、市郊外で夫の野菜作りを手伝い、両親もカッセル耕地を後にカンポ・グランデへ引越ししてきた。1966年に叔父がそば屋を始めたのに倣い、1967年に両親もソバ屋を始める。麺の作り方は父親が中国で働いていた時に覚えたという。そして彼女も1975年から父のソバ屋を手伝うようになった。最初は週二回だったが、三人の子どもの教育のために街に出ることを決意。1980年、友人の勧めでフェイラに現在の場所を購入、自身のソバ屋を始めた。レシピは父、叔父から譲り受けたものだが、自分でもブラジル人客の好みに合わせる工夫を重ねた。かんすいではなく灰汁を用い、出汁に豚だけでなく牛、鶏ガラ、野菜も用いる独自の味になっている。またイスラム教徒の客も多く、豚肉を食べない彼らのために牛と鶏だけで作ったスープのそばもメニューに挙げている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　露天市場に登場したそばの店では、カーテンで覆って、みな隠れるようにしてそばを食べていたという。フォークで静かに食べるのが普通の場所で、箸を使って音を立ててすするのが恥ずかしがられたからだといわれている。ところが、「日本人がおいしいものを隠れて食べている」という噂が広がり、逆に地元の人の好奇心をかきたてたという。結果、それまで沖縄系・日系に限られていたそばは非日系の住民にも急速に広がり、1980年代にはほとんどの顧客は非日系のブラジル人になった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　現在、市内でそばを出す店は100軒近くになる。2012年現在、フェイラは水・土の週二回、夕方から明け方まで開かれている。照明のついたアーケードの元に、組立式の陳列台に野菜・果物、菓子、土産物を並べた店が立ち並び、大勢の市民や観光客でにぎわう。その中でひときわ目立っているのがそばの店であり30軒を超す屋台がずらりと並ぶ。ほとんどの店の名前にBarraca（屋台）という言葉が含まれ、元々屋台で販売していた名残りがあるが、フェイラの敷地を各店で区切って使用しているため、店の外観だけ見ると屋台というよりもフードコートの店舗のようになっている。</p>



<figure class="wp-block-image"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="489" height="367" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba1.jpg" alt="" class="wp-image-19345" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba1.jpg 489w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba1-300x225.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba1-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba1-205x154.jpg 205w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba1-480x360.jpg 480w" sizes="(max-width: 489px) 100vw, 489px" /><figcaption class="wp-element-caption">Exif_JPEG_PICTURE</figcaption></figure>



<p class="wp-block-paragraph">　中央フェイラを運営するカンポ・グランデ観光中央フェイラ協会は2006年5月から、“sobá de campo grande”の商標でフランチャイズ店を同地以外で開店するプロジェクトを開始している。プロジェクトを指揮するのは、同協会の歴史で初めて女性会長になったアルビーラ・アッペル・ソアレス・デ・メロス氏。</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="240" height="320" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba2.jpg" alt="" class="wp-image-19346" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba2.jpg 240w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba2-225x300.jpg 225w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba2-9x12.jpg 9w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba2-205x273.jpg 205w" sizes="(max-width: 240px) 100vw, 240px" /><figcaption class="wp-element-caption">Exif_JPEG_PICTURE</figcaption></figure>



<p class="wp-block-paragraph">メロス会長が就任した同年7月にはそばが市の文化遺産に指定され、以降毎年8月に同協会主催でそばの食べ比べなどを含む「そば祭り」が開催されている。フェイラの入り口にはそばを模した巨大なモニュメントが備え付けられており、そばを中心とした地域振興がはかられているのがわかる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ただこれらのそばは日本で食べられる沖縄そばとは異なる。そばの上に載せられるのは三枚肉やソーキではなく少し硬めの牛肉である。切り刻んだ卵とネギがたっぷり添えられたものが販売されている。スープはカツオや昆布を用いた和風の出汁ではなくて、豚や牛の肉を煮込んでとった出汁が用いられる。麺についてはかんすい・灰汁付加の有無など店や製造業者によって違いがみられるものの、どちらかというと軟らかいパスタのような印象を受ける。実際にそば屋経営者へ尋ねたところ、麺類を食べる習慣のない非日系ブラジル人たちに「スープの多いマカロン（パスタ）」として宣伝してきたという。</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="489" height="367" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba3.jpg" alt="" class="wp-image-19344" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba3.jpg 489w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba3-300x225.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba3-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba3-205x154.jpg 205w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2012/09/campo_grande_soba3-480x360.jpg 480w" sizes="(max-width: 489px) 100vw, 489px" /><figcaption class="wp-element-caption">Exif_JPEG_PICTURE</figcaption></figure>



<p class="wp-block-paragraph">　移民たちが故郷を思い作り食してきた「沖縄そば」は、今ではカンポ・グランデの名物として多くの人々に楽しまれている。また、市内のある麺製造業メーカーは最近ロンドリーナの店にも毎週麺を卸しており、そばの味は各地に広まりつつある。さらに二世三世たちは自分たちの食べているSobáが沖縄由来のものであることを知らず地元の味として食している場合もある。もともと沖縄のシンボルであったそばが今ではカンポ・グランデのシンボルへと変化している。一方で同市観光協会では、本場のそばを学ぶために沖縄に研修生を派遣することが計画されており、混淆するだけでなく正統的なそばを求める動きもみられる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　このようにカンポ・グランデのそばに注目することで、文化の広がりとその混淆する様子がみえてくる。今後、研究をさらに深め、ブラジルにおける日系・沖縄系移民の食を通して移民の文化を考えていきたい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">参考文献<br>移民史刊行委員会編『ブラジル沖縄県人移民史―笠戸丸から90年』ブラジル沖縄県人会、2000年<br>「カンポ・グランデ日系コロニアの歩み」刊行委員会編『カンポ・グランデ日系コロニアの歩み』カンポ・グランデ日伯体育文化協会、2005年<br>サンパウロ新聞社編『100年 ブラジルへ渡った100人の女性の物語』サンパウロ新聞社、2009年</p>



<p class="wp-block-paragraph">著者プロフィール：<br>京都大学大学院文学研究科　博士後期課程<br>主な研究テーマはエスニシティと食文化<br>この8月6日より23日まで人文研を拠点として、ブラジルでの研究活動をされました。</p>
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		<title>レジストロに客死した世界徒歩旅行家 —岡田芳太郎　下</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 20:14:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[鈴木正威（サンパウロ人文科学研究所） 帰らぬ人となる　 　さて、最初の日伯新聞の記事に戻ろう。記事はさらに一年後の三三年年二月一六日のもので、ウルグアイよりサントスに着いて、レジストロで客死する岡田の消息を伝えるものであ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>鈴木正威（サンパウロ人文科学研究所）</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">帰らぬ人となる　</p>



<p class="wp-block-paragraph">　さて、最初の日伯新聞の記事に戻ろう。記事はさらに一年後の三三年年二月一六日のもので、ウルグアイよりサントスに着いて、レジストロで客死する岡田の消息を伝えるものである。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="437" height="240" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-1.jpg" alt="" class="wp-image-19203" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-1.jpg 437w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-1-300x165.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-1-18x10.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-1-205x113.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 437px) 100vw, 437px" /></figure>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　 — 旧臘（きゅうろう—昨年の１２月）ウルグワイ方面より北上して正月サントスに着いた世界徒歩旅行家岡田芳太郎氏は、一月十日徒歩ジュキア線からレヂストロ方面目指して出発したが予想外の暑熱に体弱り、途中ペドロバーロスより汽車に乗り、去る六日レヂストロ市街地小松旅館へ辿り着いたが、衰弱甚だしく旅館主人の看護も効なく翌七日午前十時半遂に心臓麻痺を起こして死去八日同地の人々の間で共同墓地に葬られた。享年五十七—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　サントスからジュキア方面へ続く鉄道ジュキア沿線は、サンパウロ州でも酷熱炎暑の地として知られている。まして夏場になるとその暑熱はたえがたい。長年に及ぶ徒歩旅行で、そのとき岡田の体はかなり衰弱していたのではなかったか。それが暑熱によって一気に悪化したのであろう。五十七才という年齢は戦前でも早死にといえるのではないか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">だが、岡田についてころろ打たれるのは、かれが肌身はなさず身につけていた遺書の内容である。一年中、ひとり旅の空にある身を思ってか、万が一のために遺書を認めていた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">—氏は今日あるを期して日英西三国語より成る悲壮なる左の遺言状を所持していた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　　　　　　　遺言状</p>



<p class="wp-block-paragraph">一．致命の災難叉は頓死などにより遺言をなすべき余裕なき時の用意に書き記す<br>一．着用の下股引きの内側に縫込みある米貨紙幣００弗は余の死骸取方づけの費用（即ち葬式費並に墓場料）として〇〇弗、残余の００弗は立会の牧師或は僧侶の謝礼に使用されたし、かかる場合に遭遇したるとき色々手数を煩はしたる当人（人種を問　　はず）へ対し些か謝恩の印までに其当時携帯したる金員並に物品は悉皆贈与するものなり、但し各国にて苦心蒐集したる各種の金貨のみは東京上野博物館に寄贈せらるべきこと<br>一.　余の旅行券並に戸籍謄本及び総ての書類は之の地駐拶箚帝国大公使館叉は領事館迄お届けあらんことを乞ふ</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　　　　　　　　　　世界徒歩旅行家岡田芳太郎</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="437" height="292" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-2.jpg" alt="" class="wp-image-19202" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-2.jpg 437w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-2-300x200.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-2-18x12.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada3-2-205x137.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 437px) 100vw, 437px" /></figure>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　岡田はかねてから客死することをも想定していたのであろう、その覚悟のほどが偲ばれる遺書である。とくに不慮の死に遭遇した際、近隣の人々の蒙る迷惑を察していたのか、その用意たるや周到なものがあったといえる。まさに明治人の心意気を感じさせるものがある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">同胞愛</p>



<p class="wp-block-paragraph">これについては後日談がある。同日伯新聞四月二十九日付けによれば、岡田の遺骸は小松旅館主や同植民地同胞によって手厚く葬られた旨の記事があり、小松氏は後始末のためにサントス、サンパウロに二回も足を運んで奔走したあと、新聞社に来訪したときの談話を次のように伝えている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">— 遺品は海興の中野氏立会の上、夫々遺言通りに処分し、旅券其他の書類は領事館に、三十八ヶ国の金貨は領事館を介して上野博物館に送って貰ひ、私に遺された品物や各国紙幣（一八カ国）は既に陳列棚を設けて記念として納めておくことにしました。墓石も御影石を選び碑文は内山総領事が引き受けてくれました。未だサントスの潮旅館にカバン其他があるので、これ丈は未だ片付いていませんが先づ大体を終えやっと重荷が下りた気がします。レヂストロへ来たら記念品を見て行って下さい、云々—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　小松旅館主をはじめ当時の在留民の心温まる同胞愛を感じさせる話である。岡田も死に際が立派だったが、遺言に応えたレジストロの人々も死者を葬る礼を尽くしたというべきか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　非業の死といってもよい最後であったが、岡田にとっては覚悟の死であったかもしれない。生涯を世界の徒歩旅行に費やす、というこころざしを実践したという意味では、本懐を遂げたとでもいえようか。ともあれ、従容として不帰のひととなった岡田の最後には、粛然ひとの襟を正すものがあるようである。(おわり)</p>



<p class="wp-block-paragraph">写真提供：山中三郎記念バストス地域史料館</p>



<p class="wp-block-paragraph">　付記：本稿を書き上げた後、ブラジル日本移民史料館のＪＩＣＡ・シニアボランティア小笠原公衛氏により、史料館には岡田の日記が所蔵されている旨を聞いたので、後日機会があれば紹介したい。さらに、山中三郎記念バストス地域史料館からは、岡田の葬儀の写真などを提供していただいた。</p>
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		<title>レジストロに客死した世界徒歩旅行家 —岡田芳太郎　中</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 20:12:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[鈴木正威（サンパウロ人文科学研究所） アルゼンチン　ミシオネス州にて 　さて、話を岡田の大陸行脚に戻そう。岡田がひょっこりボルト・アレグレに姿を現わす一年前、一九三一年には隣国のアルゼンチン、ミシオネス州にやってきた記録 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>鈴木正威（サンパウロ人文科学研究所）</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">アルゼンチン　ミシオネス州にて</p>



<p class="wp-block-paragraph">　さて、話を岡田の大陸行脚に戻そう。岡田がひょっこりボルト・アレグレに姿を現わす一年前、一九三一年には隣国のアルゼンチン、ミシオネス州にやってきた記録が、アルゼンチン日本人移住史（第一巻　戦前編）にある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　これによると、１９３０年代初頭に岡田芳太郎なる世界徒歩旅行家がアルゼンチンをまわり、日本人の暮らしぶりを亜爾然丁（アルゼンチン）時報に寄稿していた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ミシオネスについては、同時報一九三一年八月の二二日号と二九日号、さらに九月五日号に「ジェルバ・ヴィエホ視察の記」として掲載されている。（同誌２５１ページ）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ミシオネスという州は隣のパラグアイやブラジルとの間に、ちょうど亀が頭をもたげたような形で突出している。州都ポルト・アレグレのあるリオ･グランデ・ド・スール州に隣接しているから、岡田はこのミシオネスを歩いたあとでブラジルに入り、ポルト・アレグレにやってきたのだろうか。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="311" height="233" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-1.jpg" alt="" class="wp-image-19198" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-1.jpg 311w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-1-300x225.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-1-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-1-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 311px) 100vw, 311px" /></figure>



<p class="wp-block-paragraph">　同移住史によれば、早くも一九一五年にはミシオネスは日本人の理想郷として、移住地造成の夢を抱いた田中誠之助という先覚者がいて、その理想に共鳴した移民がその後入植し、豊穣な赤土を利用して、オーロ・ベルデ（緑の金）と呼ばれ、マテ茶の原料となるジェルバ・マテを栽培するようになる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　おもしろいのは、のちに御三家のひとつ、ブラジル海外興業の代表となる宮腰千葉太がそのころアルゼンチンの日本公使館の書記官をしていて、一九三一年、ミシオネスの日本人の動静について報告をしていることである。それによると州内で暮らす日本人は三二家族一四六人、「日本人全員が永住の決意をいだき、異口同音に子孫百年の大計をたてると称して、焦らず騒がず着実にその業務に従事していた」とある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　コーヒーでひともうけをしたら日本に帰るという、錦衣帰郷の一旗組みが大半を占めていたわがブラジルとはだいぶ異なっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ミシオネス邦人見聞記</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="282" height="177" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-2.jpg" alt="" class="wp-image-19197" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-2.jpg 282w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-2-18x12.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-2-205x129.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 282px) 100vw, 282px" /></figure>



<p class="wp-block-paragraph">　同史には、前期のアルゼンチン時報に掲載された岡田の文の要約が載っているので、それを引用しよう。（P２５１）</p>



<p class="wp-block-paragraph">—世話好きの首藤氏は、土地局に六百町歩の土地の払い下げを申請してすでにその地域には縄張りして移住者の来るのを待っておられる。小資本で入植希望者は首藤氏へ問い合わせば、喜んで犬馬の労を辞さないことは受合いである。中略</p>



<p class="wp-block-paragraph">　お話好きの首藤氏のチャカラ（農園）に着く。他人の世話で東奔西走しているご本人の畑には雑草が茫々として生えている・・・</p>



<p class="wp-block-paragraph">　首藤氏は武市（ブエノス・アイレス）に住んでいた時は、自動車の運転士として渡世していたのであるが、おいおい家族が殖えるにしたがって生活難という厄介なものがつきまとう。そこで大いに悟るところがあって、一昨年翻然として首府を引き払い家族を連れて入植したのである。約六町歩の開墾が終わると同時に、ジェルバ・マテ樹が植え付けられた。昨年はタバコの栽培でかなりな収入が上がったそうである。養鶏、養豚、自家用の野菜もあり、今では馬が一頭いる。立派なお百姓ぶりを発揮して、布切れのあたったシャツにパンタロン（ズボン）、日本製の足袋靴をはき、あごの下には二寸ばかりのびたヒゲが十七、八本さがっているところはやや仙人じみている。この人が首府にいたときはメカシ込んで自動車のハンドルをにぎる運転手であったのかと想像すると、今昔の感に打たれる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　同氏の述懐に「自分はもう少し早く目覚めていたら今ごろは立派なジェルバ・マテ園主で、年々収穫を上げていたのであろうが、目覚め方が少し遅れたのは残念である。しかし遅まきながら首府に愚図ついていずに入植を断行したことをいささか満足に思っている。現時は間作のみで十分生計が立っていくからマテ樹の生長するのを楽しみにしている」と。未来に希望をいだいて楽しく愉快に働く人は実に幸福である。私は現在の首藤氏の境遇を衷心よりうらやむものである。それと同時に同じ事業を同じ都会に何十軒、何百軒と開業して、果ては互いに無謀な競争をやるなどは愚の骨頂である—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　そののち、岡田は首藤の案内で二軒ほどの移民の家を訪ねたあと、「入植者として一番奥地に入り込んで、なかば仙人になりかけたという静岡県人渡辺雄二」の家を訪ねる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">—約七キロあるそうな、車は通わないが、馬は通う、泥濘の多い薄暗い坂道だ。五キロばかり歩行すると、やっと人の通れるだけの路幅に切り開かれてある森林中の小径となる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">首藤氏の説明にいわく「ここから先をハポネス・ピカダ（日本人の森の小径）と一般に呼んでいる。渡辺氏のジェルバ園はここから未だ二キロほど奥に入らねばなりませんが、この道なども渡辺氏と私とで三日がかりで切り開いたものです」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　なるほど首藤氏は世話好きだけにこんなところにも加勢に来ているのだ。どこにも世話焼きは必要であるが特に植民地などには欠くべからざるものである。サン・イグナシオの山口氏やジェルバ・ヴィエホの首藤氏がおられるので入植者はどれほど助かることかわからない。民族発展のために大いに努力してもらわねばならぬ。いつかは酬いられる日が来るであろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　渡辺氏の・・・現に切り開かれてあるのは十町歩にすぎない。そこには全部ジェルバ・マテ樹を植え付ける計画で、植付け済みのところも大分ある。仮小屋はまだ完成していない。周囲が開け放してあるから横降りの時は閉口しますといっておられる。故国に妻子があるが、ここにはただ一人で野良の仕事から女房役までせねばならぬ。首藤氏の子分だけに二十本ばかり薄いヒゲを長くのばしているところはまったく半仙人らしい。・・・・</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="320" height="221" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-3.jpg" alt="" class="wp-image-19195" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-3.jpg 320w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-3-300x207.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-3-18x12.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/01/okada2-3-205x142.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 320px) 100vw, 320px" /></figure>



<p class="wp-block-paragraph">　三羽しかいない鶏を一羽すでに屠られていた。牛肉はなかなか手に入らないから移住者は鶏をぜひ飼わねばならない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　渡辺氏の容貌といい態度といい、女性のような柔和さであるが、どうしてどうしてその剛毅なる気象は万人の敬服するところである。たいていの男子が、逃げ出しそうな大森林のただなかに、虎もいるであろう、野猪もいるであろう、山猫も飛びだすであろうに、たったひとり囲いもない仮小屋に住んで泰然として起伏しておられるところはただただ感嘆するのほかはない。これでこそ欧米人と伍して殖民事業について、いささか気焔も吐けるのである。私はいたずらに奇を好むものではないが、渡辺氏のごとき希望に輝き、勇気にみちみちたる入植者の同朋間より続々出現せんことを切望するものである。—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　戦前アルゼンチンに渡った移民も、ブラジル移民とおなじように、未開地の原始林を伐採・開墾する、という苦難を経た上で殖民地を造成していったのだろう。その労苦が偲ばれるルポであるが、それにしても三羽しかいない鶏の一羽を締めて馳走に供するとあるのは泣かされる。それだけまだ貧しかったのだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　岡田の手記は、だいたいこうした入植者の苦闘と現況を淡々と即物的に綴ったものである。ただ、要約であるために、原文の雰囲気が伝わらないのがすこし残念であるが・・・・。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ポルト・アレグレに姿を見せたのは翌年の七月であるから、岡田はそれまでの一年ほどをどこかの地で彷徨を続けていたことになる。（つづく）</p>



<p class="wp-block-paragraph">（本ページ掲載写真は全て山中三郎記念バストス地域史料館提供）</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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		<title>レジストロに客死した世界徒歩旅行家 —岡田芳太郎　上</title>
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		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 20:09:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[鈴木正威（サンパウロ人文科学研究所） マテ茶をすする老いたる旅行家 　世界徒歩旅行家—といわれても、いまではあまり聞きなれないことばだが、そのご当人がブラジルにも足を運んでいることを知ったのは、まったくひよんなことからだ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>鈴木正威（サンパウロ人文科学研究所）</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">マテ茶をすする老いたる旅行家</p>



<p class="wp-block-paragraph">　世界徒歩旅行家—といわれても、いまではあまり聞きなれないことばだが、そのご当人がブラジルにも足を運んでいることを知ったのは、まったくひよんなことからだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　実は鈴木悌一の評伝を書くことを思いたち、かれのポルト・アレグレ時代の青春日誌—「山庵実録」なるものを難儀して“解読”しているときである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　かれの日誌は興に任せて自在に書きなぐったり、横から注釈が闖入したり、書いたあとをばっさり消したり、やたら横文字が羅列したりの乱暴をきわめたもので、まさにかれの青春を象徴するような疾風怒涛のおもむきだから、それを読むには文字通り“解読”ということがふさわしい。</p>



<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img loading="lazy" decoding="async" width="171" height="221" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada1.jpg" alt="" class="wp-image-18185 size-full" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada1.jpg 171w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada1-9x12.jpg 9w" sizes="auto, (max-width: 171px) 100vw, 171px" /></figure><div class="wp-block-media-text__content">
<p class="wp-block-paragraph">『アルゼンチン日本人移民史第一巻　戦前編』より</p>
</div></div>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">一九三二年七月二十八日</p>



<p class="wp-block-paragraph">　夜、世界徒歩旅行家岡田芳太郎を訪問する。同行K、Si、汚い陰惨なホテルの一室に暗い電灯を掲げて、老いたる旅行家はマテ茶をすひながら語る。とにかく彼の忍従には一目おく。三十一年＊＊＊＊年来を、足にまかして歩いて、彼は果たして何の感慨をや。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ああ彼に吾人らの教養と活眼さへあるならば、もっと飄々のみち、絢爛たる旅行の思ひ出にふけり得たろうが。（原文のまま、＊＊＊＊は解読不能の文字数）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　悌一はこのとき弱冠二一才、ポルト・アレグレの神学校でポルトガル語を学ぶ学生の身であったが、異国と異人との慣れない環境のなかで周囲との違和感に苦しみながら、むしろその違和に自分の優越を感じるといった、青年期にありがちな客気にみちた生意気盛りのころである。孤独、憂悶、そして重なる失恋からすこし神経過敏になっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　汚いホテルの暗い電灯の一室でマテ茶を吸う、老いたる旅行家の疲れた流離の姿が眼に浮かぶようだが、それにしても悌一は、なにが気に入らなくてこの旅行家に噛みついているのだろうか。よほど虫の居所が悪かったのか、旅行話が期待はずれだったのか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　だが、思えばいまから七四年も昔に、三〇年来、足に任せて世界を歩いていた風変わりな旅行家がいた。かれはなんと二〇世紀のはじめから徒歩旅行をしている勘定になる。ポルト・アレグレに来ているからには、サンパウロにも立ち寄っているのではないか。</p>



<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img loading="lazy" decoding="async" width="361" height="235" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada2.jpg" alt="" class="wp-image-18186 size-full" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada2.jpg 361w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada2-300x195.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada2-18x12.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/okada2-205x133.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 361px) 100vw, 361px" /></figure><div class="wp-block-media-text__content">
<p class="wp-block-paragraph">山中三郎記念バストス地域史料館提供</p>
</div></div>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　<br>その経歴</p>



<p class="wp-block-paragraph">　なんとなくこの人物に興味がそそられて、一九三二年から三年の日伯新聞をめくっていると、はたせるかな三三年二月一六日づけ同紙三面のトップに、</p>



<p class="wp-block-paragraph">　徒歩旅行家岡田氏　レヂストロで客死<br>　 足跡南北米に普く　行程実に十六万キロ</p>



<p class="wp-block-paragraph">とのショッキングな見出しで、岡田のことを報じているのをみつけた。以下原文のまま同紙記事を援用する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">— 氏は広島県生まれ、明治３４年（１９０１年）七月苦学を志して布哇（ハワイ）に渡り次いで加州（カリフォルニア）に入ったが、時あたかも日露戦争当時でアメリカ人の侮日甚だしく、ために東部に出たが、最初に受けた民族的屈辱に対する義憤抑ふるに由なく、遂に学業を抛（なげう）ち、一切の物質欲を去って世界徒歩旅行に志した—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　これは、よく見られる明治青年のロマンチシズムとその海外雄飛であろうが、アメリカの排日機運に嫌気がさして、以後立身出世の夢をいっさい捨てて徒歩旅行に志すという動機は尋常ではない。いったいどういう覚悟で、岡田はあえてこの困難な途を自分に課したのだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　以下、同記事は岡田の徒歩旅行範囲などについて、イギリス経由でヨーロッパ諸国を遍歴し、一九〇六年四月に南米に渡り、リオよりサンパウロを踏破、サントスから船でアルゼンチンに渡った、と伝えているから、最初の笠戸丸移民に先立つこと二年に、かれはすでにブラジルに足を踏み入れていたわけである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　記事は続く。</p>



<p class="wp-block-paragraph">—爾来三十有二年、南はチェーラ・デ・フェーゴ島より北は加奈陀（カナダ）アラスカの端まで、南北米を隈なく踏破、五十キロの全財産を蝸牛（かたつむり）の如く背負って行程実に十六万キロに及んだ—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　これによると、岡田の行程は主として南北アメリカ大陸の縦断に費やされたのだが、それにしても三〇年とはよくも歩いたものである。いったいどんな内的な欲求がかれの延々と続く徒歩行を支えたのだろうか。交通も通信も発達していないその当時、ひとりでテクテク歩いて大陸を踏破するということは、ずいぶん根気もいるし難儀もしたことだろう。その間、かれはどうやって糊口をしのいだのだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">新聞は記す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">—其間氏は徒歩旅行者に有り勝ちの物乞ひをするでなく健筆を振るって母国の新聞雑誌に投書し、其所得を旅費に充てたもので、此の大旅行中人類学、考古学上に貴重な参考資料を得、こころある人から他日の発表を期待されていた—</p>



<p class="wp-block-paragraph">　いま、岡田芳太郎のひととなりを知るに、この日伯新聞の記事しか頼るものがなく比較できる資料がないのが残念だが、徒歩による世界旅行記なぞ当時でもめずらしかっただろうから、投書すれば幾ばくかの謝礼はあっただろう。もとより潤沢なものは期待できないだろうから、岡田のふところはいつも素寒貧だったはずである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　人類学、考古学上の参考資料も、新聞記事ではそのごどうなったかはわからない。こころみにグーグルで検索してみたが、同姓同名のひとはごまんといるものの、残念ながら世界徒歩の岡田の名は見当たらなかったし、百科事典にも載っていなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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		<title>日系移民とことばー日本語の多様な姿・あり方ー</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 19:59:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[中東靖恵（岡山大学大学院准教授） 　「“む『ず』かしい”じゃなくて、“む『づ』かしい”でしょう？」 　 1998年8月、サンパウロ市の南西、サン・ミゲール・アルカンジョ市に住む高知県出身の山本万寿子さん（当時87歳）宅を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph">中東靖恵（岡山大学大学院准教授）<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　「“む『ず』かしい”じゃなくて、“む『づ』かしい”でしょう？」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　 1998年8月、サンパウロ市の南西、サン・ミゲール・アルカンジョ市に住む高知県出身の山本万寿子さん（当時87歳）宅を訪れた。26歳でブラジルに移住した万寿子さん。私がノートに記した「むずかしい」という字を見て、思わず発した一言だ。その日本語には高知方言の特徴がしっかりと現れる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　現代日本語の共通語では、『ず』と書いても『づ』と書いても発音に違いはない。だが、かつて『ず』は［ｚｕ］、『づ』は［ｄｕ］のように区別して発音されていた。「難しい」は、昔の仮名遣いでは『づ』を用いて「むづかしい」と書かれていた。万寿子さんはこれを［ｄｕ］と発音し、『ず』［ｚｕ］とは区別する。このような発音の区別は17世紀末ごろにはすでに一部の地域を除いてなくなっていたが、高知県や九州南部あたりの高年層話者には、今でも聞かれる場合がある。驚くべきことは、この発音の区別が、ブラジル生まれである万寿子さんのご子息に受け継がれていたことだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　かつて多くの日本人が海を越え異国へと渡ったが、とりわけ戦前期、移住先に持ち込まれた日本語は方言色の強いものだった。そして、移住先でのさまざまな言語接触により、日本の日本語とは違う独特の言語が形成されていった。例えばハワイの日系社会では次のような会話が聞かれたという。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　「アイテンキ、ヒムは来ないけぇ、ミーは一人で行く」　（たぶん彼は来ないだろうから、私は一人で行く）<br>　　「パパ、ハナ・ハナ。ハウスおらん」　（お父さんは仕事に行っていて、家にいない）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ここには、「来ないけぇ（＝来ないから）」「おらん（＝いない）」といった広島や山口を中心とする中国地方方言の特徴が現れ、「アイテンキ（＝I think）」「ヒム（＝him）」「ミー（＝me）」「パパ（＝papa）」「ハウス（＝house）」のような英語、そしてハワイ語（「ハナ（＝hana）」）が混在する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラジルへ移住したのは九州地方、中国地方を中心とする西日本地域出身者が多かった。移住者同士の接触、ブラジル人との接触により、ブラジルの日系社会でもまた独自の言語が形成されていった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　　「・・・（娘のうち）まだひとり、まだカーザせんでおるね。<br>　　　　バンコ、銀行に通っとるけどね。カーザせんって言いよるよ。・・・」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　これは2003年7月、サンパウロ州スザノ市で行った談話収録調査によって得られた談話の一部である。話者は戦前、4歳で移住した1世の女性（石川県出身）である。銀行に勤める娘がまだ結婚しないことを語っている場面であるが、「〜せん（＝〜しない）」「おる（＝いる）」「通っとる（＝通っている）」「言いよる（＝言っている）」といった西日本方言ベースの日本語に、「カーザ（＝casa：結婚する意のcasarより）」「バンコ（＝banco：銀行）」といったポルトガル語が混ざる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　このような日本語とポルトガル語とが接触・混交して生まれた言語は、かつて「日伯混合語」などと呼ばれていたが、戦後、ブラジルの日系社会を「コロニア」と呼び始めるようになった頃から、「コロニア語」と呼ばれるようになった。常にポルトガル語の影響下に置かれ、日本語の規範を持つことの難しかったブラジルの日本語は、結果的に日本の日本語と著しく乖離することとなった。そのため、これを“乱れた”“崩れた”日本語であるとして悲観する声もあったが、コロニアで生活をしていく中で必然的に生まれたコロニア語は、日本の日本語と違って当然であり、コロニア語の創生はブラジルで“生きていくうえでのストラテジー（戦術）”であると、その存在意義を訴えるものもあった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ことばは社会を映す鏡であり、時代の移り変わりとともに変化する。日本では、ここ30年あまりの間に急速に全国共通化が進み、かつて地域色豊かであった伝統方言は消滅の危機に瀕している。共通語がまだ十分に普及していなかった時代、方言は“汚い”“悪い”言葉であり、人前で方言を使うことは“恥ずかしい” とさえ思われていた。だが、全国に共通語が浸透した今、方言を記録・保存する活動が各地で盛んに行われ、若者たちは、方言を“温かい”“かわいい”などと好意的に評価し、友人らとの会話に積極的に方言を織り交ぜる。こうした若者たちの姿は、かつて共通語がうまく使えず悩んだ世代には信じがたい光景として映っているだろう。</p>



<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img loading="lazy" decoding="async" width="277" height="236" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/nikkei_imin_kotoba.jpg" alt="" class="wp-image-18179 size-full" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/nikkei_imin_kotoba.jpg 277w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/nikkei_imin_kotoba-14x12.jpg 14w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/nikkei_imin_kotoba-205x175.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 277px) 100vw, 277px" /></figure><div class="wp-block-media-text__content">
<p class="wp-block-paragraph">（写真：2006年8月、グアルーリョス国際空港にて筆者撮影。ポルトガル語、英語、スペイン語、フランス語に続き、手書き風の「ありがとう」の文字が印象的だった。）</p>
</div></div>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラジルへ渡った日本語は、世代交代が進む中、徐々に“生活言語”としての姿を消しつつある。しかしその一方で“学習言語”としての日本語の需要は増大し、ブラジルにおける日本語の位置づけは以前と大きく変化している。これまで日本語学習者のほとんどは日本語学校で学ぶ日系子弟であったが、近年、公教育機関での学習者数が飛躍的に増加し、その割合は学習者数全体の25%まで占めるようになった。しかもその大半は非日系ブラジル人である。そのほか、成人学習者の増加も見逃せない。いずれも1990年代以降顕著な傾向である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　今後、継承語としての日本語学習の需要はますます先細り、いずれ外国語としての日本語学習へと完全に移行するだろう。しかし、それを悲観するのではなく、むしろ時代の流れとして受け止め、時代にふさわしい日本語のあり方を模索すべきではなかろうか。「日本語」と一口に言っても、その姿はさまざまである。日本国内においても地域や世代によって日本語は多様な姿を呈し、またそのような多様な日本語のあり方は、広く社会に受け入れられるようになった。ブラジルの地で育まれたブラジルの日本語もまた日本語のひとつの姿であり、日本の日本語とは違う独自の道を歩んだブラジルの日本語は、まさにブラジルの日系社会で創り上げられた貴重な財産である。それが失われつつある今、単に人々の“記憶”に留めるのではなく“記録”に留め、次世代に継承すべきなのではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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		<title>戦前日本移民の読書傾向</title>
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		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 18:59:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[エドワード・マック Edward Mack （ワシントン大学シアトル校アジア言語・文学学科教授） ブラジルにおける第二次世界大戦以前の日本語による出版物の市場を調査している。まだ研究の途上ではあるが、現在までに明らかにな [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>エドワード・マック Edward Mack （ワシントン大学シアトル校アジア言語・文学学科教授）</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">ブラジルにおける第二次世界大戦以前の日本語による出版物の市場を調査している。まだ研究の途上ではあるが、現在までに明らかになっているのは次の通りである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ほとんどの移民が直面したであろう厳しい生活環境にもかかわらず、印刷の需要がすぐに生まれた。それらは、祖国の新聞であり、雑誌であり、また書籍であった。最初期の読者は、①日本から運ぶ　②友人から借りる　③出版社に直接注文する　④雑貨屋から購入する、おそらくこの4つのうちいずれかの方法により出版物を手に入れていた。書籍の広告で現在見つかっている中でもっとも早いものは、1918年2月1日、サンパウロにある木藤という書籍販売を行っていた雑貨屋によるものであった。いうまでもなく、書籍販売は工具、薬、袋、醤油を商っていた木藤の主要ビジネスではなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　第二次世界大戦以前にブラジルで手に入れることが出来た本については、遠藤商店（のちの遠藤書店）による新着在庫の広告により、おおよその見当をつけることができる。もちろん、このデータだけに頼ることは出来ない。しかし、これらの広告は書籍在庫が劇的に増えていったことを示していると言えるだろう。例えば1924年に15タイトルであったのが、1935年には400タイトルにのぼっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラジルの消費者が小説を買うとき、彼等は日本国内で流行していた作家を選んだ。例えば当時の流行作家であった佐々木邦（1883-1964）は、自身も日本の植民地である釜山に住み、教員として働き、そこで処女作『いたづら小僧日記』を執筆した（1909）が、1935年から1940年の間に、少なくとも佐々木の作品20作を書店広告に見いだすことができる。佐々木の作品を多く出版した講談社は、多くのブラジルで入手可能な本の出版元でもあった。講談社は定期的に雑誌広告を日本語新聞紙上に掲載しており、自ら市場の開拓をしていたように見受けられる。この事実は、なぜ設立者である野間清治（1878- 1938）の本が同時期の広告に少なくとも15回現れるのかを説明してくれるだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　野間に次ぐ頻度で現れた作家は鶴見祐輔（1885-1974）、菊池寛（1888-1948）、直木三十五（1891-1934）の三人で、それぞれ少なくとも13回以上広告に掲載された。政治家兼作家であった鶴見の作品は多岐に渡り、小説（『母』、『子』、『父』）や著名な欧米人に関する書籍（ディズレーリ、ナポレオン、バイロン、ビスマルク）がある。菊池の作品はこの三人の中でもっとも長い期間扱われた（1924-40）。反対に、直木の作品は彼の死（1934年2月24日）の直後にまとまって現れている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかし、それほど有名でない作家が掲載されなかったわけではない。一つの例として、ロシア人と日本人を両親にもつ大泉黒石（1894-1957）が1924年には現れていることが上げられる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　『太陽』『中央公論』『早稲田文学』『文芸倶楽部』その他の広告が掲載されていることから、書籍にくわえて、たくさんの雑誌もまた日本から運ばれ、すくなくとも1919 年には入手可能になっていたことがわかる。ブラジル・日本間の距離にかかわらず−当時は往復に50日も要したのだが−雑誌は出版後、おどろくほど早くブラジルに到着している。書籍とちがい、雑誌の読者像とその数はおぼろげにしか捉えることが出来ない。ブラジルへの移民の総数が17万人にのぼった1935年の新聞記事が、当時の日本語雑誌市場の規模を伝えている。その記事によれば、その8月に初めて1万冊以上の日本語雑誌がブラジルに輸入された。なかでも『キング』（日本で初めて100万部を超えた雑誌）はよく読まれており、全体の３５パーセントを占める3500部がこの雑誌であった。次によく読まれたのは日本一ポピュラーな女性雑誌であった『主婦の友』で、1200部を数える。それに対し、当時日本で影響力があった『改造』や『中央公論』はそれぞれ80 部、70部しか同月に輸入されなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　この問題を考慮するときに無視できないのが新聞である。日比嘉高は1913 年のカリフォルニアでは日本帝国内で流通していた膨大な種類の新聞が入手可能（定期購読に限る）であったことを示す広告を見つけた。この広告は、新聞販売を行っていた書店が東京堂のような主要な卸業者と協力関係にあったことを示す。ブラジルでも同様な状況にあったことを想像することができる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　広告等から得られる情報は、東京発の豊富な印刷物の供給を示す一方で、読者の広がりを明らかにすることはない。幸運なことに、上記の雑誌に関する情報の他に、当時の読書習慣に関する情報がすこし残されている。1939 年の日伯新聞の出版元による本には、サンパウロ内バウル地方の、主要な鉄道（ノロエステとパウリスタ）沿線の11500世帯の読書習慣に関する調査が掲載されている。対象となった世帯はサンパウロ市を含まない農村部であったが、その調査によれば、上記の世帯中1078世帯が子供用雑誌を、1908世帯が女性雑誌を、5967世帯が「男性用」と呼ばれた普通雑誌を、そして10154世帯が新聞を購入している。日本の新聞を読んでいる家庭は非常に少ない、というコメントもついている。読まれていた新聞の多くはブラジルで出版されたものだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラジル移民第一世代の間で、読む・書くという行為が生活の中でいかに重要な役割を果たしていたかということは驚くに値する。植民地において日本からの読み物を読んでいたばかりではなく、ブラジル移民によって書かれた作品も積極的に読んでいたのである。今後、この研究をさらに深め、日系ブラジル移民文学を通して「日本近代文学」をとらえなおしたいと考えている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　この場をお借りして、貴重な資料へのアクセスを可能にしてくださったブラジル日本移民資料館と人文科学研究所、とくに、数々の質問にいつも快く答えてくださった宮尾進様、脇坂勝則様、鈴木正威様、セリア・オイ様とスタッフの皆様への謝意を表したいと思います。</p>
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		<title>移民と住宅</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 18:36:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[熊谷広子（宮城高専助手） 　わが家は賃貸で築40年木造平屋の一軒家である。９畳のダイニングキッチンに６畳１部屋、４畳半２部屋にトイレとお風呂と２畳の玄関がついて、玄関の前には車２台分は駐車することのできる庭がある。そこに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>熊谷広子（宮城高専助手）</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　わが家は賃貸で築40年木造平屋の一軒家である。９畳のダイニングキッチンに６畳１部屋、４畳半２部屋にトイレとお風呂と２畳の玄関がついて、玄関の前には車２台分は駐車することのできる庭がある。そこに夫婦２人で住んでいる。<br><br>　去年の初夏、突然、梅干しを自分で漬けてみたいと思った。新聞をめくっていたら、瓶にはいった青梅の写真とやわらかそうにしぼんだ薄赤色の梅が竹ざるに干されている写真とが、目に入ってきたのがきっかけだった。よく見るとそれは「塩」の宣伝で、写真の脇に梅干しの作り方が書いてあった。「梅を水で一晩アク抜きし・・・焼酎でしっとりさせ、塩をふってよく混ぜる」と最初の行程には難はない。しかし、途中で「土用の頃、晴天の日光で梅やシソを干す。目安は４? ５日繰り返す」とでてきた。ちょっとまって。<br><br></p>



<div class="wp-block-media-text is-stacked-on-mobile"><figure class="wp-block-media-text__media"><img loading="lazy" decoding="async" width="234" height="175" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/imin_to_jutaku.jpg" alt="" class="wp-image-18258 size-full" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/imin_to_jutaku.jpg 234w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/imin_to_jutaku-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2025/02/imin_to_jutaku-205x153.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 234px) 100vw, 234px" /></figure><div class="wp-block-media-text__content">
<p class="wp-block-paragraph">明治村に移築されたレヂストロ入植者の２階建ての家（1919年築）</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
</div></div>



<p class="wp-block-paragraph">　そういえば、実家には梅の木があった。時期になると毎年、母が庭に新聞紙を敷いて梅を干していたっけ。ときどきひっくり返したり、日が陰ったときには、一時的に縁側にあげたりしながら、繰り返し天日に当てていた。でも、わが家ではどこに干そうか。庭はあるものの、平日昼間は夫婦共働きで留守のため、お天道様のある時間を見計らって、外に干しておくことはまず無理そうである。土日といえど、仕事のこともある。とりあえず、ずっとおきっぱなしにしてても大丈夫な縁側だってない。結局、自分が家を作るときには絶対に縁側のある家を設計しよう、と心に決めるだけで事は終わってしまった。すまいの空間は、そこに住む人間の行動を制限する、と思った。<br><br>　この梅干しの件だけではない。去年の元旦には、元朝参りの際にお札を買ってきた。しかし、わが家では神棚があるわけでもなく、それを置くための適当な場所がない。迷ったあげく、玄関の靴箱の上部に鎮座させておいたが、なんだかちょっと神様に申し訳ない気がした。それから１年が過ぎて、そのお札は、つい先月、どんと祭にもっていって焼いてもらい、今年は新たにお札を買うことはしなかった。<br><br>　私が生まれ育った家の２階には、10 畳ほどのカミサマの部屋と６畳の父母の寝室、そして３畳の小部屋と小さな納戸があった。カミサマの部屋は他の部屋より一段（30cmほど）高くなっており、年に数回来客が泊まることがあるほかには、普段はまったく使われていなかった。大晦日の日の夕方には、この部屋のカミサマとミタマヤサマ、それから１階のオホトケサマとにお神酒や食事をあげ、そしてカミサマ、ミタマヤサマ、オホトケサマの順に家族全員がそれぞれ１年の終わりの挨拶をして、それから年越しの御馳走をいただくのが実家での習わしだった。新年が明けると、また同様に挨拶をしてから最初の雑煮をいただく。他にも、小正月にはミズの木に団子をさすなど、季節に応じた家の行事がいくつかあった。それらをすべて踏襲しようという気はないが、最近めっきりそれらが懐かしい。そして、そういった習慣や行事のいくつかは絶やしてはいけないという思いが、年を経るごとに強くなってきている。<br><br>　ブラジルへ移住した人たちは住む上でどんな空間を必要とし、そして日々、どんな暮らしをしてきたのだろう。何を継承し、あるいは何を捨て、そして新たに何を受け入れてきたのか。<br><br>　トメ・アスーでは、1950ー 60年代に建てられた規模の大きな住宅において２階に大広間が設けれられるケースが多く見られた。しかし最近の住宅では、それにとって代わるように、住宅を取り巻くようにベランダが設けられるようになってきている。ミソ部屋を今でも必要とし、住宅を新築する際に設けるという家庭もある。1930-40年頃のバストスのある家庭では、客間（sala）は子供たちは入っては行けない場所だったという。レジストロでは1920年代に２階建ての家が随分たくさん建てられたが、それらのうちの何件かでは、一階を農作業のための空間や倉庫として使っていたと聞いた。<br><br>　移民の住宅はこうだったと一概には言えず、時代や地域によって違いがある。その特徴を確信を持って語るために、これからまだたくさんの人の話に耳を傾けたい。どんな住宅に住んで、各部屋をどんな風に使っていた（いる）か、そんな話を聞かせてくれる人がいたら、とても幸せである。<br><br><br><br>興味のある方は、以下を参照されたい。<br>　熊谷広子、森弘則、村上良太；生活環境条件から見たトメ・アスー日系農家住宅の変容?余裕空間を視座として?（日本建築学会計画系論文集,No.608,日本建築学会,pp.73-80 2006.10）<br>　熊谷広子、森弘則、坂口大洋、森幸一；ブラジルにおける日経移民の住空間の変遷について-パラ州トメ・アスー移住地を事例として-（住宅総合研究財団研究年報No.26,住宅総合研究財団,pp.95-106,2000.3）<br>　Hiroko Kumagai, Um estudo sobre a evolucao das moradias de imigrantes no BR -No caso da Colonia Tome-Acu, Para- (SNOPSIS 37, Universidade de Sao Paulo, Faculdade de Arquitetura e Urbanismo, pp.37-52 2002.4)<br>　熊谷広子、飯淵康一、永井康雄；ブラジルにおける日系移民の住空間の変遷に関する研究?戦前期における住宅改善の指針について?（日本建築学会東北支部研究報告集,第67号,pp.219-222,2004.6）</p>
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		<title>コーヒーで感じるブラジル</title>
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		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 18:15:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[山本裕美子（JICA 日系社会青年ボランティア） 暑くなると、アイスコーヒーが飲みたくなる。キンキンに冷えているコーヒーに氷が涼しげに入っているものが。 　でも、サンパウロであのキンキンに冷えたアイスコーヒーをお目にかか [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>山本裕美子（JICA 日系社会青年ボランティア）</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">暑くなると、アイスコーヒーが飲みたくなる。キンキンに冷えているコーヒーに氷が涼しげに入っているものが。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　でも、サンパウロであのキンキンに冷えたアイスコーヒーをお目にかかることは滅多にない。そもそもコーヒーは、小さなコップに濃いコーヒーと砂糖たっぷり入れる物だと確立されているこの国では、アイスコーヒーなんて邪道なのかもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　邪道と言われようが、飲みたいものは飲みたい！と思って先日家で作ってみた。コーヒーの香りは冷やしている分、温かい時よりは劣るけど十分おいしい。だけど、何かが足りない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　先日、ブラジル初のスターバックスコーヒーに行ってみた。日本のOL時代はよく昼食後、仕事後に飲んでいたなぁなんて思いだした。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　スターバックスポリシーは、ここブラジルでも揺らぐことなく存在していて。ちょっとした懐かしさを覚えてしまった。一部ニュースではコーヒー王国ブラジルで生き残れるのか？とまで言われていたが、そんな心配はご無用で大繁盛。しかし、値段はサンパウロで通常一杯1レアル少々で飲めるコーヒーが軽く3倍近い値段がしてしまう。これじゃあ、1日に何回も飲むブラジル人では中々手が出ない。そんなことを思いつつ、行列に並んだ末に飲んだコーヒーはなんだか味が薄く、正直何かが足りないと感じた。日本で好んで飲んでいた味なのに・・・。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　数日後バールで１レアルのコーヒーを頼んだ際、濃くて甘ったるいコーヒーを飲みながら見知らぬおじさんと会話をしていて、はっ！！とした。コーヒー1杯でカウンター越しの店員・他のお客さんとの他愛もない会話が繰り広げられるこの状況こそが、足りなかった何かなのかもしれないと。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　どうやら私の知らない間に、体の中に少しずつブラジル文化が入ってきているみたいだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　小さなコップの為、数口で飲み終わってしまうちょっと物足りないブラジルのコーヒーだが、心は大きく満たされるこれに魅力を感じる今日この頃。</p>
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		<title>コロニア文学への貢献−尾関興之助−</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 13:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[コロニア文学]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
		<category><![CDATA[研究員]]></category>
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					<description><![CDATA[田中慎二 ブラジル日本移民史料館の第３代館長・尾関興之助（1912─1994）が、コロニア文学振興に果した功績は大きく、人文研との関わりも人文研の前身である土曜会時代からのメンバーで活発な文筆活動を行っている。1950年 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="has-text-align-right wp-block-paragraph"><strong><a href="/recearcher/shinji-tanaka">田中慎二</a></strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">ブラジル日本移民史料館の第３代館長・尾関興之助（1912─1994）が、コロニア文学振興に果した功績は大きく、人文研との関わりも人文研の前身である土曜会時代からのメンバーで活発な文筆活動を行っている。1950年代に土曜会で刊行していた同人雑誌『時代』を見ると、執筆者には錚々たる顔ぶれが揃っており、内容の充実さはさすがである。参考までに1953年11月に刊行された『時代』15号の目次を紹介してみよう。<br></p>



<figure class="wp-block-table"><table><tbody><tr><td>ブラジルの日系人に関する最近の調査研究について</td><td>斎藤　広志</td></tr><tr><td>ブラジルにおける日本語の運命</td><td>半田　知雄</td></tr><tr><td>戦後邦人社会の精神状況</td><td>アンドウ・ゼンパチ</td></tr><tr><td>伯国近代文学展望</td><td>井関　譲治</td></tr><tr><td>ブラジル小史（二）</td><td>アンドウ・ゼンパチ</td></tr></tbody></table></figure>



<p class="wp-block-paragraph"><br>　編集後記で増田恒河は— 斎藤が書いた「日系人に関する研究について」、アンドウの筆になる「マカコ問題からみたコロニア的思惟」、半田が発表した「日本語の問題」、いずれもコロニアの生々しい問題と取り組んだ論文であり、井関の「ブラジルの近代文学」また、アンドウの「ブラジル史」ともにブラジル研究の好資料であって、本誌の面目躍如としている点は誇りとしてよかろう。—と記している。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="250" height="175" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2023/11/ozeki_kounosuke-1.jpg" alt="" class="wp-image-18020" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2023/11/ozeki_kounosuke-1.jpg 250w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2023/11/ozeki_kounosuke-1-18x12.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2023/11/ozeki_kounosuke-1-205x144.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 250px) 100vw, 250px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真：１９６２年頃、旧パスリスタ新聞社応接室で。左から武本由夫氏（歌人）、尾関興之助氏。</figcaption></figure>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">このブラジル近代文学について執筆している井関譲治は、尾関のペンネームで、ペンネームの由来を『ブラジル近代文学と私』（亜熱帯・43号）のなかで「なぜ本名を使わなかったかというと、私としては本名は専ら生業に用いるものであって、趣味やなんぞには使うべきでないというように、その頃は考えていたからである」と述べている。<br><br>　青年時代からバウルーの聖州新報に“紫雲”というペンネームで投稿をはじめ、ブラジル時報や戦前の日伯毎日などに翻訳・評論・映画批評・ブラジル文学史と精力的に発表。翻訳には小瀬毅、文学史の紹介などでは井関譲治という三つのペンネームを使っている。<br><br>　主な翻訳（日・ポ両語）では、1962 年にエジトーラ・クルトリックス社から出版された日本文学短編集のなかで、谷崎潤一郎の「刺青」の翻訳がオゼキ・コウノスケの実名で掲載され、1963年にはグラシリアーノ・ラーモスの原作を「ひからびた生活」という訳題で、12回にわたって小瀬毅のペンネームでコチア産業組合の機関誌『農業と協同』（宮尾進編集長）に連載された。<br><br>　また1960 年代から70年代にかけて、パウリスタ新聞社の『パウリスタ文学賞』、上記の『農業と協同』文学賞、ブラジル日本文化協会の『コロニア文学賞』の選者をつとめるなど、コロニア文学の振興に尽した。なお映画に関しての造詣も深く、1970年代にはブラジル映倫の審査員に選ばれている。<br><br>　交友関係では、晩年になって「僕の文学や映画への開眼は、木村のヨッちゃんのおかげなんだ」と兄事していたパウリスタ新聞編集長だった木村義臣（土曜会同人）の思い出話しがよく出たものだが、その木村も尾関を親しみをこめてコーちゃんと呼んでいた。そして同じくコーちゃんと呼んでいた人に河合武夫がいる。<br><br>　河合と尾関とは1925 年6月に神戸港を出帆した“しかご丸”の同船で、当時12歳で半ズボン姿だった子供の尾関から見れば、単身ブラジルに渡航する 19歳の河合は近寄り難い存在として映ったのではないだろうか…。土曜会や人文研での同じメンバーとしての付き合いがあったものの、そうした子供の時の印象が、河合にたいして終生抜けなかったのではないか…という印象を時たま受けたことがある。<br><br>　自活することを条件に、親元を離れて勉学のために出聖した尾関は、小林美登利の聖州義塾の寄宿舎に入り、総領事館のオフイスボーイをしながら夜学に通った。当時、同寄宿舎にはすでに河合、半田知雄両先輩がいて、後に連邦議員となる野村ジョウゴも寄宿していた。ちなみに河合がこの寄宿舎で、リンスから再出聖してきた生涯の盟友となる半田と知り合ったのは、1927年のことである。その頃からパイプを吹かしていた河合を「俺はどうも苦手だったよ」と後年、尾関は苦笑まじりに述懐している。<br><br>　その河合と斎藤広志との勧めで、尾関が新聞などに発表してきた評論をまとめて、人文研から刊行しようという話しが出たことがある。それが河合の発案だと知って、非常に喜んだ尾関は、史料館に通って古い新聞を調べ、かなり纏めたとは聞いていたが、一人での作業は容易なことではなく、体調を崩したこともあって実現しなかったことが惜しまれる。<br><br>　1994 年1月27日、81歳で他界した尾関の訃報を、京都で知った青年時代からの親友・古野菊生（土曜会同人）は、追悼文「残雪記」（日伯毎日新聞 12・03・94）で尾関との深い交友に触れ、「どんなに永く会わなくても、その人がこの地上の何処かにいる、と、思うだけで心の安らぐ人がいるものである。興之助もそのひとりであった」と愛惜のことばを記している。　（敬称略）<br><br>　　</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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