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	<title>河合武夫 &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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	<description>サンパウロ人文科学研究所 (Centro de Estudos Nipo-Brasileiros, CENB)はブラジルの日本人移民史、日系人・日系社会に関する調査研究を行う公益団体です。</description>
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	<title>河合武夫 &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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		<title>人文研関係者の最近の受賞について</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Oct 2008 16:22:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[河合武夫]]></category>
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					<description><![CDATA[１０月、サンパウロ人文科学研究所の関係者や出版物が相次いで表彰を受けています。 まず、今年二月からニッケイ新聞紙上に掲載された連載記事『日伯友好の礎　大武和三郎　〜辞書編纂と数奇な生涯〜』（堀江剛史記者、サンパウロ人文科 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">１０月、サンパウロ人文科学研究所の関係者や出版物が相次いで表彰を受けています。</p>



<p class="wp-block-paragraph">まず、今年二月からニッケイ新聞紙上に掲載された連載記事『日伯友好の礎　大武和三郎　〜辞書編纂と数奇な生涯〜』（堀江剛史記者、サンパウロ人文科学研究所から土筒連載をまとめた小冊子を出版）が第九回海外日系新聞放送協会賞の大賞を受賞。</p>



<p class="wp-block-paragraph">また、鈴木正威氏（ サンパウロ人文科学研究所理事 ）による著書『鈴木悌一：ブラジル日系社会に生きた奇才の生涯』が、ブラジル日本文化福祉協会・コロニア文芸賞選考委員会による2008年度コロニア文芸賞を受賞しました。</p>



<p class="wp-block-paragraph">さらに、Instituto de Engnharia（サンパウロ工学研究所）で行われた式典「サンパウロで最初の日系工学学士100人の顕彰(Homenagem aos 100 primeiros engenheiros “nikkeis” formados em SP)」にて、サンパウロ人文科学研究所創設者の一人である故河合武夫氏が「ブラジル日系人初の工学学士」として顕彰を受けました。</p>
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		<title>Instituto de Engenhariaが故河合武夫を顕彰</title>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Oct 2008 16:19:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[河合武夫]]></category>
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					<description><![CDATA[　　10月18日（土）Instituto de Engnharia（サンパウロ工学研究所）で行われた式典「サンパウロで最初の日系工学学士100人の顕彰(Homenagem aos 100 primeiros engenh [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　　10月18日（土）Instituto de Engnharia（サンパウロ工学研究所）で行われた式典「サンパウロで最初の日系工学学士100人の顕彰(Homenagem aos 100 primeiros engenheiros “nikkeis” formados em SP)」にて、サンパウロ人文研創設者の一人である故河合武夫氏が「ブラジル日系人初の工学学士」として顕彰を受けました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="111" height="152" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/10/instituto_de_engenharia.png" alt="" class="wp-image-19257" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/10/instituto_de_engenharia.png 111w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/10/instituto_de_engenharia-9x12.png 9w" sizes="(max-width: 111px) 100vw, 111px" /></figure>



<p class="wp-block-paragraph"><br>河合武夫氏は、1906年三重県生まれ。19歳の時ブラジルに渡りました。1931年、マッケンジー大学を卒業、ブラジル日系人初の工学学士となりました。その後、日本での滞在を経て、サンパウロ州、パラナ州でブラ拓の植民事業に従事。コチア産業組合時代には理事会補佐を努めました。退職後には、サンパウロ人文科学研究所の創始メンバーとして、多くの活動に関わりました。<br><br>式典では、ご令息のセリア・カワイさんが代理で記念のメダルを授与されました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="172" height="164" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/10/takeo_kawai2.jpg" alt="" class="wp-image-19258" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/10/takeo_kawai2.jpg 172w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/10/takeo_kawai2-13x12.jpg 13w" sizes="(max-width: 172px) 100vw, 172px" /></figure>
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		<title>河合日記・巡回治療に同行して（２）</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080602/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 02 Jun 2008 17:18:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[河合武夫]]></category>
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					<description><![CDATA[　７月9日　　サンタマリア耕地、同航海の林さんと会うことが出来た。入耕当時の悲惨な体験を聞かされるのは辛い。空想が幻滅となり、悲嘆となり、やがて絶望からあきらめ、そして初めて再び起たなければならぬ事を悟る。この決った道を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　７月9日　　サンタマリア耕地、同航海の林さんと会うことが出来た。入耕当時の悲惨な体験を聞かされるのは辛い。空想が幻滅となり、悲嘆となり、やがて絶望からあきらめ、そして初めて再び起たなければならぬ事を悟る。この決った道をたどって行く人々の姿をみて深い悲しみをもつ。サンパウロ在住の所謂知識階級に対する一般植民者の（特に古い我利我利連の中に）敵意を感ずる事が時々ある。今日も同仁会入会の事でもめたらしい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　７月11日　　朝9時半、カンバラ出発、オウリーニョスに向かう。バルボーザの耕地を通る度に癪に障る。誰かあって痛快にあの悪辣な一族を家諸共にダイナマイトで吹き上げてやらないか。オウリーニョスで昼食後ソブラに行く。このあたり数年前マラリア猖獗し、高岡氏の治療を受けてようやく死をまぬがれた地なれば、その接待すべて真情があふれて傍にみるも嬉しい。―略―</p>



<p class="wp-block-paragraph">　7月12日　　オウリーニョスの町に帰ってみる。赫埃は濛々として、板屋の軒並みと殺風景な表情の行人は一見、新開植民地の気分をそのままに表している。「すべては未来だ。土地は広い、富は無尽蔵」等と掛け声の高いこの地帯では、テラローシャの空気を吸って、欲と金の餓鬼亡者の間をさまようこと句日。こんな所に生きるのは嫌だという外、何も頭よりまとまって出なかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　7月13日　　ガメロンほかもう一つ邦人集団地訪問。―略―どこへ来ても綿作地特有の殺風景な生活、自然、椰子の小屋に金々で、より外する事なしに暮す人々をみるのもあきあきした。植民者にもっと望みを託していた私には情けない感多し。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　7月14日　　朝9時オウリーニョス発、クワタ移住組合の植民地（注・バストス移住地＝当初はパウリスタ鉄道クワタ駅から入植した。）に向ふべく出発。濛々と立ちのぼる赫塵、ジリジリとギラツク太陽。顔も手もすっかり埃にまみれて実にひどい。途中、サルト・グランデの滝に一休みして昼食を喫す。<br>　アシスからパラグァスーに至る間、砂地に続く砂地、瘠せた地にひょろひょろのびた潅木と枯草のほか立木らしいものもない砂漠だ。道を訊ねるにも会う人もなく、住屋も見えぬ、実に淋しい処だ。日は落ちて車の明かりを頼りの、あやしい、いくつもの岐路を砂にめり込む自動車に注意しながら走る気持ちは、一寸形容できない。道に迷うてさまようこと３～40キロ。9時すぎ、やっとパラグァスーに出て泊まることにする。奥地にしてはやや開けた町だ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　7月15日　　ホテル・パウリスタに労を休めた昨夜は、洗面器の水が泥に化した程ひどい道だった。アメリカ廻りの連中の文化植民地の支配人・山田登幸氏に会う。挨拶位であっさり片づけてサペザールに向かう。割合にいい道だ。サペザールより有名なレトニア人（注・レトニア＝バルト３国のラトビア）の集団地ヴァルパ植民地に向う。サペザール駅より35キロ。この辺、矢張り砂地の瘠せた地帯だ。<br>　第1次大戦後の1922年に宗教の自由と安住の地を求めてレトニアから移住した、バチスタ派信者による移民團によって建設されたヴァルパ（Ｖarpa）植民地と、同地から４キロ離れたパルマ共同農場を訪問したときの強い印象を、日本人の植民地と比較して克明に記述している。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「兼ねてから聞いていたヴァルパの共産村には、相当な興味もあったし、予備知識ももっていた心算だが、至る道はまず地味の貧弱さ、地形の悪さは不思議の感を起さしめた。<br>　土地、標高、駅よりの距離が植民者の第一要件だとの観念が頭に沁み込んでいる我々には無理もない。カポエイラ、山、砂地、小川…… 実に遠い。ようやく植民地に入れば、高床、急傾斜の屋根、あたりの森と調和よく映える壁の色は、パルミッタの土人小屋にいつまでも暮す人々に飽き々して来た私には異様な刺激と喜びを与えた。<br>　瀟洒な事務所のあたりには、植え込みもあり、花壇あり、訪れる者をして住む人の奥床しさを思わせる。北欧人特有の善良さと遅鈍な愛嬌を多分に持ったここの主人は、この植民地開拓以来の在住者で、相当の資産をなしているのだそうだ。パン、バタ、鶏卵等で新鮮な昼食をすませて植民地本部に向かう。市街地に於ける数戸のアルマゼンの堂々たる、其処に売られる什器、雑貨の高級さには驚かされる他ない。以って植民者の生活程度が覗われる。医者の家に立寄って植民地に関する大体の説明を聞く。<br>　ここより4 キロ、パルマにおける例の共産村を訪ねることにした。よく手入れの行き届いた庭の奥、木の間がくれに見ゆるバンガローを羨ましく眺めて砂地の道を急ぐ。岡の下に見ゆる一連の共同住宅は、まるで病院の観だ。青年倶楽部、食堂、製材所、砂糖しぼり等見学。午後の太陽のもと黙々と働く彼等、女、子供、大人の團を見ていると修道院の清浄さを思わさせられる。<br>　宗教の人生に与える深刻な底力が共同社会の貌をかりて太く、強く浮き出されているではないか。私の心も腸（はらわた）も、清く洗われて行く気がする。深い喜びが湧く、これこそ植民地に求めているものだ。移住の理想であらねばならぬ。<br>　私は宗教を云々したくない。外人を矢鱈に崇拝するのも嫌だ。併しこの落ち付いた気分と清らかな生活は、我々の学ぶべき第一問題ではなかろうか。<br>　３時パルマを辞してクワタ日本人移住組合に向かう。至る所、森中にレトニア式の人家の点在するあり。一体、何を作っているのか、何から収益があるのか、日本人地帯を見た目には不可解なほど微々たる仕事のやり口である。それであの住宅のあの生活。『働くを知って、生活するを知らぬ』邦人と較べて、苦笑が浮かぶ。<br>　クワタ植民地に来て、その仕事の大規模なのに驚かされた。震災当時を思わせるバラックの集団。堂々たる事務所と自動車庫、どの面をみても日本直輸入の表情がおどっている。みんな新しいのだ。事務所に荷を下ろしてやっと落ち付いた。」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　前年の1928 年に海外移住組合連合会の現地代行機関としてのブラジル拓殖組合（ブラ拓）によって開設され、同年6月に第１回移民が入植して始まったばかりのバストス移住地で、測量技師として働いていた親友の亀山文冶郎（後年の土曜会同人）に出会い、「お互いあんまり世知に長けたり、出世の出来る方じゃない」という会話を交わしたと述べている箇所では、一面後年の両氏を彷彿させるようで笑いを誘われる。<br>　ちなみに、開設当初のバストスから、亀山が河合宛に出した書簡が残っているが、第１回移民が入植した直後の６月28 日付では「この手紙が着く頃は冬休みだろう。ゴヤス行きか、ソロカバに来るか、それとも踏み止まって、甘い恋の悩みに思う存分浸るか…。20日ほど前、第 1回移民が来た。第2回移住者が明日か明後日着く。にぎやかにも、うるさい人々が勝手な期待、勝手な駄法螺の下に、働いたり遊んだりしている。」と、いかにも青年期らしい交友ぶりが覗えて面白い。<br>　「三重県の人もここの収容所に大分いる。今日は萩原村の人に会って、お兄さんの噂など聞いた。兄のことをよく言われるのは本当に嬉しい、私もしっかりしよう。」と記された7月16日付けでこの随行記は終わっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（注）バストス移住地の入植が始まった当時、出生届や死亡届、婚姻届など、すべてヴァルパの町で行なっており、パルマ共同農場も、製材所やその他建設資材の購入などで、バストス移住地の補給基地的役割を果たした。ヴァルパ植民地、パルマ共同農場とレトニア移民については、阿部五郎著・香山栄一編『レトニア移民の隆盛と衰退』と題した小冊子に詳しい。現在、パルマ村は同村出身の人たちによって、「この村の施設を永久文化財として残す運動を始めているそうである」と、同著で阿部氏は記している。　</p>



<p class="wp-block-paragraph">　終わり</p>



<p class="wp-block-paragraph">（たなか・しんじ　サンパウロ人文科学研究所）</p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>河合日記・巡回治療に同行して</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080527-3/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 27 May 2008 17:15:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[河合武夫]]></category>
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					<description><![CDATA[　ニッケイ新聞（2008 年4月25、26日）に連載された『ブラジルの東北人―移民100年』（「河北新報」2008年1月６、7日より転載）に、ブラジル日本移民史で広く知られているマラリアの流行での平野植民地の悲劇と、そう [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">　ニッケイ新聞（2008 年4月25、26日）に連載された『ブラジルの東北人―移民100年』（「河北新報」2008年1月６、7日より転載）に、ブラジル日本移民史で広く知られているマラリアの流行での平野植民地の悲劇と、そうした実情を知った同仁会の医師・高岡専太郎がマラリア研究に取り組み、1925年からサンパウロ州奥地の日本人入植地におけるマラリア対策や治療にあたった活動が、「移民の赤ひげ」として紹介されている。<br>　初回の巡回から4 年後の1929年6月、同仁会活動の一環としてサンパウロ州奥地（ソロカバナ線）から北パラナ各地の巡回治療を行なった高岡専太郎、古関徳弥（当時、同仁会と海外移住組合連合会嘱託を兼ね、移住地の選定、測量に当たり、高岡医師の助手として「マラリア予防の地勢的研究」を行なった。後ブラジル拓殖組合チエテ移住地支配人）と共に、視察旅行に同行した河合武夫の随行記がある。<br>　『1929 年6月23日よりソロカバナ線に同仁会視察旅行をなす古関、高岡両氏に随行するの記』と表書きされた小型のノートは、7月16日に建設当初のバストス移住地に至るまでの記録で、自筆の巡回地略図と主要地点までの走行距離、各地域の日本人耕地を視察した様子と行程の厳しさが、着伯後４年目、23歳の若い河合の眼を通して、かなり克明に記されている。旅のつれづれに書かれた内容は、短期間のものにせよ、河合の性格の一端と、初期日本移民の農村生活を覗うことができる貴重な記録と思われる。以下その一部を抄出して紹介する。<br><br><br>　6月23日の午後1時に高岡邸を出発した一行は、コチア、サン･ロッケ、ソロカバ、イツーを経過して、翌日ボツカツに着き、ファゼンダ・モンテ・セルヴァーゼン（農場主はドイツ人）を訪ね、同農場の支配人・北村政吉氏と同耕地で働く数家族を視察した後、同農場に泊まって歓待を受けている。<br><br>　6月25日　　ファゼンダの朝鐘を久しぶりに懐かしい気持ちでうつつに聞いた。トースト･パン等田舎にはめずらしいご馳走を受けて、ゆっくりと出発。ボツカツから先は道がぐっと落ちる。茫漠たるカンポ、瘠せ地つづきの牧場地帯、追分に来ても道を聞くすべもない。走ること35キロ、イタチンガに着く。これより先45キロ、アヴァレ迄もまたほとんど同様の地勢。地質も悪く、ほとんど耕地らしいものもない。―略―<br><br>　「アヴァレよりモンソン植民地、リオ・ノーボ迄32キロ。茫々たるカンポ、その間に大洋の浮島の如き疎林の群、大原野に来た感だ。」という地帯を経て、途中リオ・ノーボで数家族の綿作農家を診察してセルケイラ・セーザルからモンソン植民地に到着。<br>　「輪湖、香山、岸本諸氏の入植地。日本人植民地として最初のものならん。」と記されたモンソン植民地（『香山六郎回想録』サンパウロ人文科学研究所・1976 年―に、同植民地初期の様子が克明に記されている。）についての6月26日付では「最初に当地方の有力者、蔵力氏の宅に赴く。既に相当の人よりがあった。種痘・トラホーム検査あり。アルモッソ後付近の病家訪問。後、隣接植民地の小池氏宅に至り、付近集団邦人の診察あり。日暮れ、市街地に帰り平田氏のもとに泊まる。夜、高岡氏の一般植民者に対する衛生講話あり。」と巡回診療の様子を述べ、当時の一般的ともいえる日本人綿作農家の生活状況を次のように評している。<br><br>　「この辺、綿作地方の植民地を歩いて最もひどいのは、その生活の殺風景なことだ。お座なり的なやり方、１年、２年本位の計画仕事は実に惨めな生活をもたらす。彼等が如何にしてあの境遇に平然としていられるを思うと、全く驚かされる。何の為の植民か。」<br>　と記し、28日付きの日記では、<br>　「もうこの地方を歩いて嫌になった。こんな生活をする位なら、日本で百姓をした方がずっと気が利いていると思う。勿論、将来はあるかもしれないし又、彼等もそれを夢見ているんだろう。慰安も娯楽も教育もすべて、あらゆる文化の恵みによるもの一物もないこの地で、この生活で、ただ将来の金儲けに一縷の望みをいだいて総ての犠牲を平然と払うところ、あまりにも大胆なる賭け事よ。」<br>　と批判する一方、経済的に何の苦労もない、資産家の坊ちゃん的一面を感じさせる青年らしい自己考察も行なっている。<br>「僕は結局どこまでも非実際的に出来た人間らしい。いくら考えても、こんな植民地の経済問題等に興味を起こすことは出来ない― 略―煎じ詰めると、気候がよくて、景色清らかに、読書などにも事かかぬ、相当文化の開けた地にゆっくりと暮して行きたいという以外何もないらしい。金がどうあろうと、大したことはなかろうという調子だ。実生活を知らないからだとも言えようが、兎に角、私は金儲けはとても駄目だとは、いつも特に旅行の時、痛切に感じる。―略―要するに私は好きなことをやる、もっと勉強する。そして若し経済問題と金の光が私に第一義のことになってきたら、その時はそれでいいではないか。こんなことをぼんやり考えながら、自動車の陰に寝そべって暇をつぶす。―略―」<br><br>　オウリーニョスを過ぎて、ヴィラ・ジャポネーザ、カッポンの両日本人植民地では、綿作地帯と異なり（カフェー栽培地か）、よい落ち着きをみせて、訪ねる者にも嬉しいことだ…と記し、ここでは入植者たちと「談論風発、夜の一時まで語り続けた」とあるように、入植者と栽培作物の違いで、植民地の気風が違ってくることが読み取れる。<br><br>　7 月に入って、北パラナ植民地、平和植民地訪問では、「こうして生活のすべて全く始めからたてあげようとする試みをみて、色々の事を考えさせられる。前に私は如何にしてこんな生活にあこがれ得たかを怪しむ。」と述べ、野村農場では、「ファゼンダのパトロン連、目下実習中の学生、我等一行、夕食後集まって、文学談あり社会問題論あり。生意気な言かも知れぬが、これが現代の日本知識階級の一部代表を以って任じているのだと思えば、つい苦笑も浮かぶ。」と書いているのも、批評精神旺盛な河合らしい。<br><br><br>つづく<br><br>（たなか・しんじ　サンパウロ人文科学研究所）</p>
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		<title>随想</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080319/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Mar 2008 19:23:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[河合武夫]]></category>
		<category><![CDATA[研究員]]></category>
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					<description><![CDATA[河合武夫 1947年1月に発刊された「土曜会」の同人誌「時代」第一号から、河合武夫の「随想」をそのまま転載する。手書き・謄写版印刷の第一号は80部ほど配布されたとのことだが、現在では非常に希少な資料となっている。その後の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><strong>河合武夫</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">1947年1月に発刊された「土曜会」の同人誌「時代」第一号から、<a href="https://cenb.org.br/column/20080115-19/" data-type="link" data-id="https://cenb.org.br/column/20080115-19/">河合武夫</a>の「随想」をそのまま転載する。<br>手書き・謄写版印刷の第一号は80部ほど配布されたとのことだが、現在では非常に希少な資料となっている。その後の日系社会に少なからぬ影響を与えることになる「土曜会」のメンバーが、太平洋戦争終結直後の混乱の中で、いかなる運動を指向していたのか。その思索の一端を理解する手がかりとなろう。<br>河合は「日本の戦前戰前抱懐した」方法論を根底から是正すべきだと述べ、「根本的に人生の問題を扱ふ宗教や哲学や科学、藝術等が基礎的に重大な役割を演ずる」のではないか、と論じている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">今度は單なる敗戦といふよりも、日本の忌憚ない評價が一応卋界の前に示された訳だが、日本の戦前抱懐した理想や目的を否定する、しないは別として、少[少は旧字体]くともその方法論（最も原論的な意味での）に於いて、根底から是正さるべきものがあると考へられる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">一に日本人の特性を誇張し過ぎ、期待をかけすぎた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">日本人は自らの國籍を忘却することによって、人間[間は旧字]性を失ふが如き雰囲気をつくり上げて吾身を金縛りにしてきたのである。そして無批判に権威の前に屈従する様な社会的環境が幾多もあって、要するに封建性を脱し切って居なかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　物理現象にも似た歴史的必然を以って展開[開は旧字]して行く人類社会に於て、未だ過去の形態を脱しきれない過程にあるものが、総てに於て遅れをとるのは当然である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そして何物にもまして日本の科学が貧困であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">も一度くどく云へば西欧人がフランス革命の血を以って贖った人間性の解放、これを基本づけ発展せしめた近代科学精神とその汗の結晶を日本人はあまりにも安易にとり入れ、教へられて、因って来る根本精神には本当に徹してゐなかった。さらに換言すれば、明治維新が一部指導者によってあまりに手ぎはよく先手を打って行はれた為、血と汗を以って自ら産み出す程に徹して居なかったことである。今から彼らに追ひつかねばならぬし、更に先んじ度いものであるが、こんなに考へると、吾等の再出発にはまことに深い反省を要する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">仮令それが一見まどろっこく廻り道に見えても、我々は根本的なものから、みんなも一度検討しなほして始めねばならぬのではなからうか。それには表面の産業や技術よりも、もっと根本的に人生の問題を扱ふ宗教や哲学や科学、藝術等が基礎的に重大な役割を演ずるのではなかろらうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">おそらく原子彈が実利を度外視した深奥な眞理探究に対する逞しい文明人の努力の副産物であるが如く、今后の人類文明から言って、國際間のあらゆる意味に於ける競争に先んずるものは、單なる滅私奉公とか必死の訓練とかいふ様な実践道徳に基準を置いた人間の協力ではなくして、さらに高い、仮りに呼べば、㐧一義的な人生の問題から出発した深いものが、究極に於て現卋的な社会をも貫くことになるのではなからうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これはずゐ分ひどい言葉ではあるが、現在の悲しむべき日本の現状を以ってしても、あまりに賢しく手際よく難関[関は旧字]切り抜けつゝあることは、一応喜ばしいとともに、一面牛を馬に乗り換えたやうな物足りなさがある。又弥縫に堕して根本的な革新がないとすれば、新しく今後の卋界をリードするやうなものを生まず、結局後塵を拝する安直な道を再び歩み出すこととなるのではなからうかとも考へられる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">レーニンが、新しいものを造るには先づ旧きものを徹底的に壊せと言ったさうだが、この時局を大した変革もなしに手際よく拾収してゐることが、（これは実に深刻極まる努力であらうけれど）却って、何時までもうだつの上らぬ新日本をつくる所以にならぬことを希望して止まぬ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">時代1, p.39-41.</p>
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