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	<title>JICAボランティア &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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	<description>サンパウロ人文科学研究所 (Centro de Estudos Nipo-Brasileiros, CENB)はブラジルの日本人移民史、日系人・日系社会に関する調査研究を行う公益団体です。</description>
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	<title>JICAボランティア &#8211; サンパウロ人文科学研究所｜Centro de Estudos Nipo-Brasileiros</title>
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		<title>文書整理の流れと人文研の個人資料について</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20190828/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 28 Aug 2019 17:57:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[1. はじめに 2018年7月にJICA日系社会シニア海外協力隊として、サンパウロ人文科学研究所(以下、人文研とする)に学芸員として派遣されてから1年が経過しました。学芸員といっても文書整理を行うアーキビストです。そこで [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>1. はじめに<br><br>2018年7月にJICA日系社会シニア海外協力隊として、サンパウロ人文科学研究所(以下、人文研とする)に学芸員として派遣されてから1年が経過しました。学芸員といっても文書整理を行うアーキビストです。そこでアーキビストの仕事の内容を紹介します。<br><br>昨年の<a href="https://cenb.org.br/information/20180910/">着任の挨拶</a>のなかで、資料を歴史資料にすることが、アーカイブズという言葉の意味の一つであると書きました。歴史資料になるまでの具体的な作業は、主に①調査②選別・受け入れ③整理④各種目録の作成⑤公開⑥閲覧⑦保存・修復⑧配架の８つの工程があります。これらを飛ばさずに順番に行う必要があります。今回はこのうち③整理について取り上げます。<br><br>2. 4つの原則と概要目録・細目録<br><br>最初に、整理を行う上でICA(International Council on Archives:国際公文書館会議)が定めた4つの原則を紹介します。それらは、出所原則、原秩序尊重の原則、原形保存の原則、記録の原則です。<br><br>出所原則は、文書が発生した母体(組織)ごとに、ひとまとまりの文書群として整理しなければならなく、他の出所母体の文書を混ぜてはいけないということです。出所とは、本来の業務遂行の過程で記録を作成・蓄積し、保管・使用してきた組織や個人のことを言います。簡単に言うと、A団体とB団体それぞれで作成した文書を、混ぜてはいけないということです。<br><br>原秩序尊重の原則は、発生母体において、とられていた文書の配列方式(重なり・まとまり・ファイリング等)は、文書群の体系的な構造を解明する手がかりになるので、これをむやみに変更してはいけないということです。例えば、私たちは書類を整理する時、関連する書類をクリアファイルに挟んだり、ファイルに綴じたりします。書類に全く異なったタイトルが付いていても、関連する文書全体を見ることによって、どのような活動の基に文書が作成されたのかを知る手がかりになることが多いからです。<br><br>原形保存の原則は、文書の折り方や綴じ方、包み方等、物理的な原形をむやみに変更してはならない、特に整理する過程で、文書に新しい折り目や綴じ穴等をつけてはいけないということです。同時に付箋やセロテープ、シール類の貼付、押印(蔵書印や所有者の印)、書き込み等、文書自体に手を加えることをしてはいけないということです。要するに、そのままの状態で保存するということです。<br><br>記録の原則は、文書群の現状に変更を加える場合は、写真やメモ等で記録に残すということです。例えばファイル等で一括してある文書を、ファイルから外す場合は、記録をとらなければなりません。<br><br>以上の原則を踏まえて整理に取り掛かります。一口に整理と言っても2つの作業を行います。それらは物理的整理と情報的整理です。物理的整理とは、文書からクリップ等の金属製留め具を外したり、クリーニングしたり、封筒等に入れる等、文書そのものに対する整理のことをいいます。一方、情報的整理は、文書の記載内容やまとまり・ファイルごとの概要目録と、文書一点ごとの細目録を作成することです。概要目録とは、ファイルやまとまりごとに、いつ頃、どのような活動によって文書が作成されたのかを把握し、細目録は文書1点ごとにどのような内容が書かれているのか、いつ作成されたのか、誰から誰宛か等を、それぞれデータ化します。<br><br>3. 人文研の個人文書の整理<br><br>私が現在進めている人文研の個人資料の整理は、上記の4つの原則を遵守しながら、情報的整理のうち概要目録を作成する作業を行っています。概要目録の項目は、出所名・箱番号、一括表題・年代幅・形状・概数です。一括表題とあるように、主にファイルやまとまりを表した目録です。箱に番号を付し、箱ごとで項目に記述しています。概要目録は、何かの関係資料を検索する場合や、通覧して文書群の全体像を把握することには有効です。</p>



<figure class="wp-block-image"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="282" height="192" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2019/08/kunitoshi_shimizu2.jpg" alt="" class="wp-image-19514" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2019/08/kunitoshi_shimizu2.jpg 282w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2019/08/kunitoshi_shimizu2-18x12.jpg 18w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2019/08/kunitoshi_shimizu2-205x140.jpg 205w" sizes="(max-width: 282px) 100vw, 282px" /></figure>



<p>　その反面、短所は資料名で検索するには適していません。文書によっては、単独で、資料名で採録している場合もありますが、多くの場合ファイル単位やまとまりごとに採録しているため、具体的な文書名での検索はヒットしないことが多いです。この問題を解決するためには、次の段階である細目録を作成することです。概要目録・細目録を作成し、文書をマクロとミクロの視点の両方から、検索を可能にすることが望ましいと言えます。<br><br>また、概要目録の作成終了後に、個人資料ごとに資料ガイドを作成する所存です。資料ガイドとは、文書の年代幅、個人の簡単な履歴、活動内容と関係する文書、文書の伝来事情、概数等を文語体で記述したものです。このうち、活動内容や文書の伝来事情は、アーキビストが整理の過程で収集する情報のため、利用者はなかなか知りえない情報と言えるでしょう。したがって、利用者が資料ガイドを事前に読むことによって、一個人資料にどのような文書があるのか大まかなことを把握できます。その上で概要目録を利用することで、より深く文書群を理解することができると思います。<br><br>4. 終わりに<br><br>今回紹介した③整理で重要なことは、文書に記載されていない隠れた情報を失わないことです。文書に記載されていない情報とは、文書同士の関係性をいいます。ファイルにタイトルが付いておらず一見関係性が不明な場合も、ファイルされている文書全体を通して見ることで、どのような活動の基で作成されたか判明する場合が多々あります。1点の文書だけを見てもわからなかったことが、全体を通して見るとわかるということです。したがって、整理では、ファイルごとのまとまりや、文書の重なりを崩さないことが重要になってきます。私の今次作業では、時間的制約の関係から、細目録を作成するまでには至りません。細目録が完成するまで、この状態を崩さずに引き継ぎたいものです。<br><br>このように、文書に記述されていない隠れた情報を丹念に集めていくことが、やがて文書を公開した時、利用者に様々な情報を提供できるわけです。　　　　　　　　　　　　　　<br></p>
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		<item>
		<title>JICA日系社会シニアボランティア　清水邦俊氏着任のお知らせ</title>
		<link>https://cenb.org.br/information/20180910/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 10 Sep 2018 17:02:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[着任の御挨拶 初めまして。JICA日系社会シニアボランティアの清水邦俊(しみず　くにとし)と申します。2018年7月25日より約2年間、本研究所へ学芸員として配属になりました。職種は学芸員ですが、手書きの日本語文字資料の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p></p>



<p>着任の御挨拶</p>



<p>初めまして。JICA日系社会シニアボランティアの清水邦俊(しみず　くにとし)と申します。2018年7月25日より約2年間、本研究所へ学芸員として配属になりました。職種は学芸員ですが、手書きの日本語文字資料の整理を行うアーキビストです。私の生い立ちと研究テーマであるアーカイブズ学、アーカイブズ、アーキビストについて説明することで、着任の挨拶としたいと思います。</p>



<p>私は、千葉県佐倉市で生まれ育ちました。長嶋茂雄氏の出身地といえばピンとくる方も多いと思います。佐倉は、江戸時代は佐倉藩の城があり、幕末には同藩がオランダ医学を諸藩に先駆けて奨励したことにより設立された順天堂病院、明治から終戦までは佐倉城址が陸軍用地となり歩兵連隊が駐屯するなど、藩政の中心地・オランダ医学先駆の地、そして陸軍連隊の地という歴史がある街です。このような居住環境から、小学生の時から歴史、特に日本史が好きで、大学は國學院大學へ進学しました。大学では日本近世史を専攻し、卒業後は千葉県文書館という県の歴史資料保存施設で、主に江戸時代や明治時代の古文書の整理に関わってきました。一方で卒業後も自身の研究テーマが見いだせず、漠然とした年月を過ごしていましたが、次第に興味を持っていったのがアーカイブズ学でした。</p>



<p>アーカイブズ(archives)って何ですか、という質問をよく受けます。英語の辞書では、文字や映像等の資料そのものや、これらを記録した資料を保存する施設と二つの意味があります。最近ではウェブ上で使用することが多く、上記の意味以外の解釈も発生し混用の傾向にあるため、アーカイブズ学を研究している私に、前述の質問を投げかけてくるように思えます。私が考える三つ目の意味は、資料を歴史資料にすることです。紙等の媒体を整理し、利活用できる体制を整え、後世に伝えることで資料から歴史資料にすることを言います。少し詳しく説明しますと、書類や帳簿・手紙・写真・映像といった資料は、個人や団体により何らかの意図や目的・活動のもとに作成されます。このような資料には、人々の日常やさまざまな出来事、活動の計画・経緯・結果等が記されています。作成当時は、頻繁に利用されていた資料も、その後活動計画が遂行され終了したら、利用頻度も少なくなります。そのような時に、資料を整理・保存し、利活用の体制を整えることで、活動の証拠を記した歴史資料となります。そして、そこには活動に関わった人々の生きた証が、歴史に記憶されたとも言えます。したがって、資料を整理し、利活用が可能な体制を整え、適切な保存措置を施して、はじめて歴史資料となるわけです。これがアーカイブズの三つ目の意味であり、これらの作業を行う人をアーキビスト(archivist)、そしてアーカイブズを科学的に探求する学問がアーカイブズ学であるといえます。</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="230" height="186" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2018/09/kunitoshi_shimizu.jpg" alt="" class="wp-image-19492" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2018/09/kunitoshi_shimizu.jpg 230w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2018/09/kunitoshi_shimizu-15x12.jpg 15w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2018/09/kunitoshi_shimizu-205x166.jpg 205w" sizes="(max-width: 230px) 100vw, 230px" /></figure>



<p> ところで、ブラジルにおける日本人移民の歴史学研究が少ない理由の一つとして、資料、特に手書きの日本語文字資料が整理されていないことが挙げられます。日本人移民と言っても、国の事業としての移住の他に、個人渡航、キリスト教団体や移植民学校・移民会社等の民間組織による移住と様々です。またブラジルにも移民組織や植民地の団体等の受け入れ側の組織がありました。当然、送受両者の個人や団体で様々な資料が発生します。その資料の種類は、渡伯に際しての書類や個人の旅券、渡伯後の活動を記した日記、個人と受け入れ団体間のやりとり、日本にいる家族・親類・友人との往復書簡等、枚挙にいとまがありません。資料には、これまでの移民史でも知られていない多くの出来事や活動等が書かれています。これらをアーカイブズにすることが肝要です。これにより、歴史研究のみならず、先祖や家族の歴史を辿る資料、新たな活動を創造するために過去の活動を手掛かりに用いる、または記念誌の編さん等、様々なことに利用できます。すなわち、アーカイブズは、あらゆることの基幹となります。</p>



<p>本研究所では、創立当初から移民に関する文字資料の収集を行っています。しかし現在は、これらの資料が整理されていない状態にあります。私が赴任している約2年間でこれらの収集資料をアーカイブズとし、ブラジルの大地に生きた日本人移民・日系人の生きた証として、100年・200年先の未来に伝えていけるようにしたいと思います。</p>



<p></p>



<p>清水さんのJICA隊員日記はこちら→：<a href="https://world-diary.jica.go.jp/shimizukunitoshi/" data-type="link" data-id="https://world-diary.jica.go.jp/shimizukunitoshi/" target="_blank" rel="noopener">笠戸丸の風</a></p>



<p></p>
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		<title>人文研勉強会の実績とその展開について</title>
		<link>https://cenb.org.br/information/20120329/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Mar 2012 20:53:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
		<category><![CDATA[研究員]]></category>
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					<description><![CDATA[その沿革と現状 　人文研の勉強会は、２００７年、当時移民史料館のＪＩＣＡ派遣シニアボランティアとして勤務していた中村茂生氏の提唱によって誕生した。 　第１回は、同年１０月やはり当時当研究所の客員研究員として在籍中の長崎シ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>その沿革と現状</p>



<p>　人文研の勉強会は、２００７年、当時移民史料館のＪＩＣＡ派遣シニアボランティアとして勤務していた中村茂生氏の提唱によって誕生した。</p>



<p>　第１回は、同年１０月やはり当時当研究所の客員研究員として在籍中の長崎シーボルト大学教授関谷融氏によって行われた。爾来、勉強会は不定期に開催され、日本語による発表を原則としているが、ポ語による発表は通訳をつけ、すでに１９回を数えて今日に至っている。</p>



<p>　勉強会における発表の資格については、大体日伯両国の大学院研究生を中心とし、それに類する学生などを対象とし、テーマについても両国における移民関連のものを採りあげるようにしている。</p>



<p>今後の展開</p>



<p>　本勉強会は、若手の研究員や学生の日頃の研究を発表する機会を提供するためのもので、その性質上非公開とし、参加者もできるだけ若手の層や学生を対象としているが、テーマや発表資格の関係からか、両国の言語に通じたいわゆるバイリンガルの若手の集いという性格を持つに至っている。</p>



<p>　当研究所は、目下新しい時代の変化や要望に対応するため、その理念や目的・事業・組織・人事などの改革の必要に直面しているが、この勉強会に参加するバイリンガルの若手層は、将来、当研究所の研究や運営の中核となる有力な人材として期待されるのではないか、と思料する。</p>



<p>　来年度の新体制による発足に当たり、本勉強会を今後本格的な人文研事業として認知するとともに、さらなる発展・拡充を新しい執行部に期待するしだいである。</p>



<p><strong>実績</strong><br>２００７年<br>第１回　10月20日 「教育評価と指導」<br>関谷　融　長崎シーボルト大教授<br>第２回　11月8日 「水野龍とは何者だったのか」<br>中村茂生　JICAシニアボランティア<br>第３回　11月28日 「戦前ブラジルの日本人子弟に対する日本語教育論」<br>伊志嶺安博　広島大大学院生<br>第４回　12月7日 「小説『琵琶歌』が映し出す部落差別と世相」　　　　　　　　<br>藤原　望　東京経済大学生<br>２００８年<br>第５回　3月6日 「移民的徳と移民知識人・人類学的探求のための覚書」　　　　<br>佐々木剛二　東京大学大学院博士課程<br>２００９年<br>第６回　6月16日 「人文研書誌情報について」<br>横尾悦子　JICA青年ボランティア<br>第７回　7月23日 「１９３３年当時のノロエステ沿線在住日本人及び日系人の状況」<br>鈴木奈緒　明治大学大学院生<br>第８回　10月20日 「ブラジル労働法と外国移民」<br>古杉征己　マッケンジー大学院生<br>２０１０年<br>第９回　１月28日 「初期韓国移民と日系社会との関りについて」<br>松阪健児　ＵＳＰ歴史学科学生<br>第10回　4月29日 「小林美登利と聖州義塾」<br>小林成十・真登　USP工学部大学院卒<br>第11回　7月8日 「イグアッペ周辺の日系農業技術」<br>小林ブルーナ　当所奨学生<br>第12回　8月19日 「日伯関係における人種偏見」<br>山田エドワルド　当所奨学生<br>第13回　10月21日 「日本の移民政策についての一考察」<br>吉田　満　　当所奨学生<br>第14回　11月18日 「田原春次とは何者か」<br>藤原望　大阪市大大学院修士課程<br>２０１１年<br>第15回　4月14日 「日本における『日系ブラジル人』の社会的位置の変遷」<br>蕪城恵美里　名大大学院博士課程<br>第16回　6月9日 「在日日系人児童に対する日本語教育」<br>末永サンドラ　早大大学院修士課程卒　日本語教師<br>第17回　7月14日 「戦前期ブラジル派遣教員と日系移民子弟教育」<br>根川幸男　　国際日本文化研究センター客員研究員<br>第18回　8月30日 「ブラジルを目指した女性たち」<br>名村優子　立教大大学院博士課程<br>第19回　9月22日 「対伯移民政策の歴史的経緯について」<br>吉田満　　当所奨学生<br>２０１２年<br>第20回　1月31日　「水野龍の移民思想」<br>中村茂生　早稲田大学移民・エスニック文化研究所客員研究員<br>第21回　2月28日　「ブラジルと日本の間を行き来する子供たちの教育問題」<br>山本晃輔　阪大大学院生博士課程</p>
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		<item>
		<title>サイトのシステム移行作業について  Referente à mudança no sistema interno do site</title>
		<link>https://cenb.org.br/information/20090323/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 23 Mar 2009 16:26:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[当研究所のホームページが開設され、丸二年が経過いたしました。これまで研究所について皆さまによく知っていただけるよう100ページを優に越えるコンテンツが作成され、日系社会研究に関心を持たれる世界中の方々から様々な反響を頂い [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>当研究所のホームページが開設され、丸二年が経過いたしました。これまで研究所について皆さまによく知っていただけるよう100ページを優に越えるコンテンツが作成され、日系社会研究に関心を持たれる世界中の方々から様々な反響を頂いてまいりました。<br><br>サイトの拡大とともに、また、ウェブ担当として大きな貢献をして下さった佐々木氏の日本帰国と相成り、システムの大幅な変更を余儀なくされました。そこで、昨年末よりその作業が行なわれ、ここ数ヶ月サイトの更新が滞ったことをお詫び申し上げます。<br><br>基本的に変更は内部的なもので皆さまに見ていただいていたコンテンツに関しては、そのまま変更ありません。但し、各ページのアドレスが変わりましたので、「お気に入り」や「ブックマーク」、リンクなどして下さっていた方には、大変ご迷惑ですが、再度該当ページを開き、そのアドレスをチェックしていただくようお願い致します。また、サイト開設当初用いられた www.jinmonken.org.br は閉鎖いたしましたので、こちらの www.cenb.org.br にてご閲覧頂きたく思います。<br><br>今後の計画のうち主だったものとして、ＪＩＣＡ青年ボランティア横尾悦子司書の労による研究所所蔵の移民関係図書目録（約3800冊）を公開する予定です。是非、ご期待下さい。また、サイトに関するご要望、ご意見もお待ちしております。<a href="mailto:contato@cenb.org.br">contato@cenb.org.br</a>ウェブ担当までお寄せ下さい。<br></p>



<p>Fazem mais de dois anos que criamos este&nbsp;<em>site</em>&nbsp;e através deste com mais de 100 páginas criadas, temos nos empenhado para que as pessoas interessadas nos estudos da comunidade&nbsp;<em>nikkei</em>&nbsp;saibem da existência do nosso Centro e de nossas atividades. Somos gratos pelos contatos feitos após as visitas ao nosso&nbsp;<em>site</em>.</p>



<p>Com o crescimento do&nbsp;<em>site</em>, juntamente com o fato de que o Sr. Sasaki, que cuidou do&nbsp;<em>site</em>&nbsp;durante o ano passado, retornou ao Japão, tornou-se necessário fazer uma mudança no sistema do&nbsp;<em>site</em>. Por este motivo, desde o fim do ano passado a atualização do&nbsp;<em>site</em>&nbsp;tem ocorrido poucas vezes &#8211; fato pelo qual pedimos a compreensão de todos.</p>



<p>O conteúdo do&nbsp;<em>site</em>&nbsp;em si não foi modificado por esta mudança. Foi apenas uma mudança interna; porém, o endereço de cada página sofreu alterações. Portanto, os usuários que tenham marcado algumas páginas como “Favoritos”, ou tenham feito links a essas páginas, precisam refazer a marcação. Além disso, o domínio que foi utilizado no início, www.jinmonken.org.br, foi encerrado permanentemente. Esperamos sua visita no endereço atual: www.cenb.org.br.</p>



<p>Entre os planos para o nosso&nbsp;<em>site</em>&nbsp;daqui em diante, temos a disponibilização do catálogo dos livros referentes a imigração que o Centro possui. Este trabalho foi feito pela bibliotecária Srta. Etsuko Yokoo, voluntária jovem da JICA. Acreditamos que este recurso será muito útil para os pesquisadores que procuram novas fontes. Queiram enviar suas sugestões para o nosso site no endereço:&nbsp;<a href="mailto:contato@cenb.org.br">contato@cenb.org.br</a></p>



<p></p>
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		<title>ツアー体験記④ラーモス移住地、平和の塔</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080624-2/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 24 Jun 2008 18:27:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[2008 年４月22日（火）の9時半に、ラーモス移住地に到着し、平和の塔建設に尽力された小川和己さんとお会いしました。ラーモス移住地はJAMICと日本政府の協定が1963年に成立、1964年に移住地が始まりました。クリチ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>2008 年４月22日（火）の9時半に、ラーモス移住地に到着し、平和の塔建設に尽力された小川和己さんとお会いしました。ラーモス移住地はJAMICと日本政府の協定が1963年に成立、1964年に移住地が始まりました。クリチバーノス市の中にあるフレイ・ロジェリオが独立した結果、ラーモス移住地はフレイ・ロジェリオと呼ばれるようになりました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="271" height="204" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-1.jpg" alt="" class="wp-image-19238" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-1.jpg 271w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-1-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-1-205x154.jpg 205w" sizes="(max-width: 271px) 100vw, 271px" /></figure>



<p></p>



<p>平和の塔は小川さんの土地の敷地内で一番奥に位置しており、アスファルトの州道が去年できあがり、敷地内の一番奥に建設することにより、電気や道路など整備されました。公園は5ha、耕地は150haの大きさです。ラーモス移住地は約400人、20家族が住んでおり、現在は日本への出稼ぎが多いそうです。</p>



<p>この日は快晴で空がどこまでも青く、雲ひとつなく、汗ばむ陽気でした。平和の塔の前で、小川さんの話が始まりました。</p>



<p>小川さんは「1964 年4月9日にラーモスへ来られ、当時、大木が生い茂っていて、切り開くのは大変だったが、人に恵まれた」と感慨深そうに語られました。長崎では16歳の頃、学徒動員として約360人が工場で働き、8月9日原爆が投下され、学校は爆心地から900mしか離れておらず、120人以外は被爆死されたそうです。被爆者はがんで亡くなる人がほとんどだといいます。小川さんの弟さんも開拓中に53歳で亡くなられました。1968年、世界恒久平和を願い、長崎被爆の祈りとして平和の塔建設を決意されたそうです。平和の塔と公園の建設には州政府の協力を得、パラナ州長官の協力も得られました。宗教人種を越えて、平和の塔は40年越しに完成しました。1998年、平和の鐘が長崎から送られてきて、1999年には直訴状を政府に対して書かれ、州知事のOKを得られ、意義ある建立ができたそうです。2001年9月6日平和活動を尊重されるたくさんの長官がフロリアノポリスで行われた記念式典に参加されました。「祖国日本と移住した人々（祖先）があるから、今の私達がいるのです。ブラジルは資源が豊富だが、日本にはありません。アメリカに３年いた頃は、コロニアというのは存在しなかった。日本とブラジルの交流は必要です。ブラジル政府も平和公園に協力してくれたのだから」と、これからの移住地のあり方を強く訴えられました。</p>



<p>そして、この移住地の農業として、ネクタリーナ、リンゴ、にんにく、1980年代から日本梨に取り組まれているそうです。柿、すもも（アメイシャ）を栽培している十数家族もいます。日本梨の豊水は小川さんが持ち込まれ、2月ごろが収穫時期だそうです。</p>



<p>「この移住地の特色は日本の文化と共存しているところです。移住100年を迎え、日本舞踊、茶道など日本の文化を引き継いでもらいたい」と小川さんは締めくくりました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="302" height="226" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-2.jpg" alt="" class="wp-image-19237" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-2.jpg 302w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-2-300x225.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-2-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-2-205x153.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 302px) 100vw, 302px" /></figure>



<p></p>



<p>小川さんとふるさと巡り参加者数名が平和の鐘をたたき、みんなで平和を祈りました。青い空に鐘が鳴り響き、とても神聖な気持ちになりました。</p>



<p>次に、先没者のお墓で法要を行うため向かっている途中に、パラナ松が至る所で見られました。パラナ松には雄の木と雌の木があり、雌の木はまっすぐ伸びて上の方に枝が張っていて、まっすぐに伸びているが普通の木のように上の方だけではなく枝が張っている方が雄の木だそうです。松ぼっくりは日本のものの20倍ぐらい大きく重いらしく、松の実は食べられ、銀杏のような食感です。</p>



<p>法要の後、ラーモス日伯文化協会で美味しい昼食をいただきました。</p>



<p>ここでも小川さんの貴重な話を聞かせていただき、パソコンで平和の大切さを考えさせるような当時の様子などの映像とインタビューがありました。その後、ラーモス日伯文化協会の方々によるカラオケが披露され、180haもあるリンゴ園へ行きました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="270" height="202" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-3.jpg" alt="" class="wp-image-19236" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-3.jpg 270w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-3-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-3-205x153.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 270px) 100vw, 270px" /></figure>



<p></p>



<p>夕方、オーストリア移民の町、トレーゼ・チーリャスに到着しました。滞在するホテル・チロルで３歳ぐらいのオーストリア移民の可愛らしい女の子に出会いました。このホテルのオーナーのお孫さんでした。小さなホールで、オーナーたちによるオーストリアの伝統音楽、エーデルワイスなどの演奏を聴きました。とても明るい曲で、私達ふるさと巡り参加者もカウベルを持って演奏に参加しました。どのタイミングでカウベルを鳴らすのかオーナーが教えてくれ、みんなで歌いながら、音楽に興じました。しかし、オーストリア移民の方々も移民された当時は大変ご苦労されてブラジルに来られたとおっしゃっていました。戦時中の混乱の中で、オーストリアに住めなくなったようです。前日のドイツ、イタリア移民の方々の話も似たところがあり、日本移民も生活が苦しく移民してきたという方がいらっしゃり、移民とは何か、当時の人々がどう思い生きてこられたか、興味深く考えさせられました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="226" height="169" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-4.jpg" alt="" class="wp-image-19235" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-4.jpg 226w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-4-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour4-4-205x153.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 226px) 100vw, 226px" /></figure>



<p></p>



<p>（連載おわり）</p>
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		<title>横尾悦子のツアー体験記（３）ドイツ移民の町フライブルゴとイタリア移民の町タンガラー</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080624/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 24 Jun 2008 18:26:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[4月21日（月）はチラデンテスの日で祝日です。6時、フライブルゴのホテル・ヘナールに到着しました。ヨーロッパ風建築の綺麗なホテルで、ちょうど朝日を見ることができ、すがすがしい気分になりました。ホテル周辺には、日本にも自生 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>4月21日（月）はチラデンテスの日で祝日です。6時、フライブルゴのホテル・ヘナールに到着しました。ヨーロッパ風建築の綺麗なホテルで、ちょうど朝日を見ることができ、すがすがしい気分になりました。ホテル周辺には、日本にも自生している朝顔やほうせんかが咲いていて、懐かしく感じました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="303" height="228" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-1.jpg" alt="" class="wp-image-19232" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-1.jpg 303w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-1-300x226.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-1-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-1-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 303px) 100vw, 303px" /></figure>



<p></p>



<p>前日と同じく6時半に朝食を取り、着いた時、少し肌寒いと思っていたら、バスガイドさんにその時は摂氏10度だったと教えてもらいました。寒く感じるはずです。息が白かったし、サンパウロでは真冬がそのくらいですから。それから、8時半、タンガラーへ向け出発しました。</p>



<p>バスの中でバスガイドさんが、サン・ジョアキンのリンゴはフジという名称で平べったく小さく、果汁が多く甘く、山脈で南極の風が吹いて来るため年に100日間は5度以下で、リンゴの成育に最適だという話をしてくれました。日本でも青森や長野のような少し寒い地方が美味しいリンゴが採れるので、納得でき、南極から風が来るのかぁと驚きました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="291" height="218" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-2.jpg" alt="" class="wp-image-19231" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-2.jpg 291w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-2-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-2-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 291px) 100vw, 291px" /></figure>



<p></p>



<p>タンガラーではブドウジュースやブドウ酒、vinho colonialが生産されています。観光のためダンスのように足でブドウを踏んでブドウ酒を作っていたが、清潔ではないため、今は、観光客に披露しなくなったそうです。ワインは古ければいいというわけじゃなくて、シンプルな作りで殺菌剤が入ってないワインが美味しいと聞きました。あまり長く置き過ぎると酢のようになってしまいます。なので、３，４ヶ月の間に飲むのが良いそうです。ブドウは一般的な果物栽培と違い、土地が悪く、寒い地域の方がよくできるようです。</p>



<p>タンガラーのガイドさんが以下のようなタンガラーの歴史の説明をしてくれました。</p>



<p>1910 年、タンガラーに駅ができ、1918年まで街は大きくなりました。昔はRio Bonitoという名前だったそうです。街の周囲に８kmの川があったからだろうということでした。1945年、リオ・デ・ジャネイロにRio Bonitoという同じ名前の町があったため、タンガラーに変更しなければならなくなったそうです。タンガラーとは暑い所でよく鳴きにぎやかで、群れで移動する鳥の名前です。イタリア人の特徴のようです。タンガラーの町は農業、紙やプラスチックのリサイクル、ブドウ生産などでまかなっているそうです。</p>



<p>イタリア移民の町とドイツ移民の町の見分け方はイタリア移民は生活のため野菜を植える人が多く、ドイツ移民は国の援助があったため花を植える人が多かったそうです。</p>



<p>10時45分、ワイン工場に到着し、ここは74年前からある老舗のワイン工場だということでした。その中には、５リットル樽が何百本と並べてあり、イタリア移民の町ということを実感しました。そして、ワイン工場を経営するご夫婦がタンガラーの町の歴史を説明してくれました。イタリア移民はRio Grande do SulからSanta Catarinaへ移って来たそうです。現在、600万リットルという最大のかめを持っているが、いつも満タンというわけではないようです。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="315" height="237" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-3.jpg" alt="" class="wp-image-19230" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-3.jpg 315w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-3-300x226.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-3-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/06/yokoo_tour3-3-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 315px) 100vw, 315px" /></figure>



<p></p>



<p>お昼、イタリア移民との交流で、サンタルチアとパパロッカ（豚の皮）の歌を披露してくれました。ここでも歓待を受け、甘く煮込んだサツマイモ、マカロニ、サラダ、ミーリョ（コーン）のクリーム、焼き鶏肉などもてなされ、美味しくいただきました。タンガラーは、イタリア移民ばかりではなくドイツ移民も多く住んでいます。なぜかというと、イタリア移民はドイツ移民と結婚する人が多く、イタリア系が約75%、ドイツ系が約20%だそうです。真白い肌に金髪の可愛らしい女の子、男の子がダンスを披露してくれて、私たちも一緒に踊りました。</p>



<p>フライブルゴのホテルに戻り、ドイツ移民との交流会で夕食をいただき、ドイツのリンゴ踊りを披露してくれました。その後、パソコンとスクリーンを使って、フライブルゴの情報、ブラジル日本移民100 周年にちなんで笠戸丸の写真も紹介してくださり、感動しました。私はポルトガル語があまり話せないので、質問ができなかったのですが、他の参加者の方々は質問を多くされていました。やはり、ブラジルに移住してどのような生活をし、どんな問題を抱えているのか、など聞いてみたいのだろうと思いました。きっと、同じような苦労をしていて、同感できるところがあるのでしょう。ブラジルは移民国家であると感じ、ポルトガル語で話すことの重要性を痛感しました。</p>
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		<title>横尾悦子のツアー体験記（２） イグアッペの街並</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080527/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 27 May 2008 17:11:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[4月20日（日）のレジストロは小雨が降り、肌寒い感じがしました。サンパウロより南に位置しているので、気温が下回っていたのかもしれません。 私が参加したツアーは寝台バス３台、１号車から３号車までが連なって５泊６日で約230 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>4月20日（日）のレジストロは小雨が降り、肌寒い感じがしました。サンパウロより南に位置しているので、気温が下回っていたのかもしれません。</p>



<p>私が参加したツアーは寝台バス３台、１号車から３号車までが連なって５泊６日で約2300 キロの道のりを移動しました。期間も距離も大変長いツアーでした。そのため、宿泊したホテルで全員が食事をするのはとても困難なので、1号車は午前6時半、2、3号車は午前7時、と時間帯を別にして朝食を取る事になり、私は１号車だったのでかなり早目の朝食を食べました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="264" height="198" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-1.jpg" alt="" class="wp-image-19224" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-1.jpg 264w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-1-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-1-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 264px) 100vw, 264px" /></figure>



<p>朝食を終え、7時半ぐらいに参加者の人たちとホテルの周辺を散歩しました。参加者の方のご家族の話やブラジルの歴史などいろいろと話しながら歩いていると、コチア産業組合が昔、使っていたという建物に出くわしました。ところどころ、文字が消えていて、分かりづらかったけど、確かに“COTIA”と書かれているのを確認できました。コチア産業組合について詳しく知らないけれど、聞いたことはあり、こんな所にあるとは思いもよらず、びっくりしました。</p>



<p>8時頃、部屋に戻り、10時にホテルのロビーに集合、10時半にイグアッペへ向け出発しました。</p>



<p>11時40分、イグアッペに到着し、イグアッペの街のガイドさんがイグアッペの街を案内してくれました。</p>



<p>ガイドさんの話では、イグアッペ市内は自然保護地区でごみ袋が政府より配布され、ペットボトルがリサイクルされているそうです。街はごみが落ちてなくて、とても綺麗でした。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="256" height="192" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-2.jpg" alt="" class="wp-image-19223" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-2.jpg 256w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-2-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-2-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 256px) 100vw, 256px" /></figure>



<p></p>



<p>13時、イグアッペ日本人会館に到着し、ブラジル日本都道府県人会連合会の副会長がご挨拶され、イグアッペの方々の手料理を美味しくいただきました。</p>



<p>そして、イグアッペのコロニアル建築の街並、教会を見に行きました。イグアッペの街の鮮やかな色合いの壁はくじらの油をつなぎに使い、その中に貝が含まれているそうです。それは海や川に近い事を意味していて、サンパウロなどの壁には草やわらなどが含まれていることが多い、とガイドさんが教えてくれました。各地の身近にあるものを材料に使っていたということのようです。なぜ、くじらの油を使うかというと、くじらの油は水をはじき、よく固まるのでつなぎに使うのは良いということでした。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="282" height="212" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-3.jpg" alt="" class="wp-image-19222" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-3.jpg 282w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-3-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-3-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 282px) 100vw, 282px" /></figure>



<p></p>



<p>教会へ向かう途中、屋根が2段や3段になっているお店を見かけました。昔、この段によって税金を払っていたといいます。段が多いほど、税金を多く払わなければならないのだけど、多く払っているように見栄を張って段を多くしたようです。屋根が何段あるか数えながら、街を歩き、教会に着きました。</p>



<p>昔、教会の中にはお墓が設置されていたが、その後、教会の周辺にお墓を作るようになったそうです。そして、教会の中には6～7mの大きなキリスト像があり、このキリスト像はこれから訪問するオーストリア移民の町、トレーゼ・チーリャスの彫刻家が作られたと説明されました。</p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="291" height="388" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-4.jpg" alt="" class="wp-image-19221" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-4.jpg 291w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-4-225x300.jpg 225w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-4-9x12.jpg 9w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour2-4-205x273.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 291px) 100vw, 291px" /></figure>



<p></p>



<p>16時、アンスリウムの花園を見に行きました。カラーみたいな花で、切っても水につけておけば一ヶ月はもつそうです。赤や白、ピンク色の花々を見て大変、心が穏やかになりました。</p>



<p>17時10分、ドイツ移民の町、フライブルゴへ向け出発しました。700kmの距離を10時間かけて進むので、車中泊でした。</p>



<p>21 時、ツアー一行108人が一同に会食できるレストランとして、クリチーバの3500人も入るという大きなイタリア料理屋『ヴェネザ』で遅い夕食を取りました。赤ワイン、白ワイン、ブドウジュースを飲み、サラダ、ラザーニャ、フェットチーネにトマトのモーリョをかけて食べ、どれも本場のイタリア料理の味で満足しました。</p>



<p>23時に出発し、2時ごろ休憩を取り、参加者の方々はご高齢にも関わらずお元気だな～と思いながら、バスに揺られ、疲れた体を休め、眠りました。</p>



<p>（よこお・えつこ　ＪＩＣＡ 日系社会ボランティア）</p>
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		<title>横尾悦子のツアー体験記（１） レジストロ移住地の日系人</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080514/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 May 2008 17:03:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[サンパウロ人文科学研究所に勤務しております日系社会青年ボランティアの横尾悦子です。2008 年４月19日（土）から21日（月）の祝日（チラデンテスの日）を含む24日（木）までブラジル日本都道府県人会連合会主催のふるさと巡 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>サンパウロ人文科学研究所に勤務しております日系社会青年ボランティアの横尾悦子です。2008 年４月19日（土）から21日（月）の祝日（チラデンテスの日）を含む24日（木）までブラジル日本都道府県人会連合会主催のふるさと巡りツアーに参加してきました。行き先はレジストロ、イグアッペ、フレイ・ロジェリオ（ラーモス移住地）、ドイツ・イタリア移民の町フライブルゴ、イタリア移民の町タンガラーとオーストリア移民の町トレーゼ・チーリャスです。<br><br>午前８時、サンパウロよりレジストロへ向け、寝台バスで出発しました。５泊６日の長い旅の始まりです。<br><br>レジストロへ向かう途中、エンブーの町の近くになると、バスガイドさんが、日本語でエンブーの町の説明をしてくれました。この町はサンパウロより古く、山の中にUFOの基地があるという噂があるそうです。とても面白く、日本語とポルトガル語を話せるバイリンガルの楽しいバスガイドさんでした。<br><br></p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="225" height="300" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-1.jpg" alt="" class="wp-image-19214" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-1.jpg 225w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-1-9x12.jpg 9w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-1-205x273.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 225px) 100vw, 225px" /></figure>



<p></p>



<p>午前11時半、レジストロに到着し、昼食後、レジストロの町を案内してくれるガイドさんとともにレジストロの町を歩きました。そのガイドさんの話によると、レジストロ移住地の日系人は、出稼ぎではなく、移住目的で来られた方が多く、比較的ブラジル人と結婚するのが早かったそうです。今年、2008年、レジストロ入植95年目を迎えて、今年６月18日にはブラジル日本移民100周年を迎えます。レジストロ移住がいかに早く、歴史的であるかがよく分かり、日系社会の勉強になりました。<br><br>次に案内してくれたのは、ブラジル日本移民100周年記念のモニュメントでした。<br><br>その１つが彫刻家の豊田豊さんの作品『自由への道』で、去年2007年９月７日に落成された高さ７mもある大きなモニュメントでした。豊田さんは、廃材を使用してモニュメントなどを作る世界中に名の知られた作家だそうです。<br><br>もう１つは、造型作家の大竹富江さんの作品『グゥラサイの花』でこちらも高さ７m、重さ40tもある大きなモニュメントでした。大竹さんはレジストロに入植した1913年にお生まれになられたそうです。グゥラサイというのは木の名前で、レジストロの一番高い所にあり、その木はレジストロのどこからでも見る事ができたそうです。しかし、ある日、地主のブラジル人がその木を切ってしまい、大竹さんはグゥラサイの花を思い出しながら、作製されたのだろうと思います。<br><br>100周年記念のモニュメントは全部で7つあり、４月22日にさらに2つ新しく出来て９つとなるそうです。<br><br></p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="300" height="225" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-2.jpg" alt="" class="wp-image-19212" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-2.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-2-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-2-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 300px) 100vw, 300px" /></figure>



<p></p>



<p>モニュメントを見学した後は、元ＫＫＫＫ（海外興業株式会社）の建物を改装した移民資料館でした。移民資料館の中には、大木を切る時の大きな鋸、当時のパスポート、レジストロに到着したご家族の写真、笠戸丸の模型、燈籠流しの燈籠、『レヂストロ郡現勢概覧』（1963 年7月）の本、『レジストロ植民地の六十年』（六十年史刊行委員会）の本、『レジストロ・コロニア実態調査』（80周年）の本、測量器具、鎌、除草機、製茶用の機械などが展示されていました。レジストロは岐阜県中津川市と姉妹提携を結んでいて、中津川市は林業が盛んで、移民資料館の中には中津川特産桧製品、中津川市のパンフレットやレジストロと中津川市が姉妹提携を結んでいることを紹介した雑誌なども展示されていました。<br><br>午後５時、ホテルからレジストロ本派本願寺教会（浄土真宗）へ法要をするため出発しました。午後６時20 分に法要を終え、レジストロ日伯文化協会に午後７時到着しました。レジストロ日伯文化協会の方々に歓迎され、美味しい夕食を頂きました。マンジューバというわかさぎのような魚の刺身とから揚げを食べ、サンパウロではあまり魚介類を食べないので、久しぶりに刺身を食べることができ、嬉しかったです。<br><br></p>



<figure class="wp-block-image"><img loading="lazy" decoding="async" width="300" height="225" src="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-3.jpg" alt="" class="wp-image-19211" srcset="https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-3.jpg 300w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-3-16x12.jpg 16w, https://cenb.org.br/wp-content/uploads/2008/05/yokoo_tour1-3-205x154.jpg 205w" sizes="auto, (max-width: 300px) 100vw, 300px" /></figure>



<p>レジストロ日伯文化協会会長が「・・・日本文化が100年前ブラジルに根付いた。これからの100年は、ブラジル人と共に受け継いでいってもらいたい」などと挨拶されました。ブラジルに移住した先人の方々が頑張ってこられたからこそ、ブラジル日本移民100周年を祝えるのだと思います。これからは日系人だけではなく、ブラジル人と共に日本文化が受け継がれていくことがこれからの課題だと感じました。<br><br>そして、太鼓と三味線による演奏、3世、4世の女の子による山笠踊り、盆踊りが披露されました。今では太鼓は非日系の方々が上手だそうです。その後、大人の女性やふるさと巡りツアー参加者も加わり、福岡の炭坑節を踊り、大変楽しい時間を過ごしました。<br><br>（よこお・えつこ　ＪＩＣＡ 日系社会ボランティア）</p>
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		<title>サンパウロ人文科学研究所の図書・史料所蔵概要</title>
		<link>https://cenb.org.br/information/20080424/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 24 Apr 2008 15:21:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[図書の分類、並び替え、データベース作成　サンパウロ人文科学研究所で移民関係の図書・史料の整理を始めて早くも半年が経過しました。今では、分類作業及び並べ替えの作業が終了し、書誌情報のデータベース作成に着手しております。 私 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p></p>



<p>図書の分類、並び替え、データベース作成<br>　サンパウロ人文科学研究所で移民関係の図書・史料の整理を始めて早くも半年が経過しました。今では、分類作業及び並べ替えの作業が終了し、書誌情報のデータベース作成に着手しております。</p>



<p>私の着任当時は、書籍が整理されないまま保管されている状態にありました。これらの書籍の整理にあたって、当研究所内の資料室と図書室に所蔵されていた書籍を、移民関係の図書・史料と一般の図書・史料に分け、各部屋に配置し直しました。4000冊もある図書・史料を移動させ、なおかつ書棚の各棚を図書・史料に合うよう動かす作業は思ったより重労働で、当研究所で研究されている研究者の方々や客員教授の方にはお手伝いいただき、大変感謝しております。</p>



<p>独自の分類で<br>おかげ様で、およそ300冊の書誌情報を登録しましたが、まだたくさんの移民関係の図書・史料があるので、もう少しスピードをあげて登録していこうと思っています。</p>



<p>サンパウロ人文科学研究所独自の分類表は以下のとおりです。</p>



<p>0. 総記・人文研叢書<br>1. 移民史関係全般<br>2. 農業<br>3. 経済<br>4. 教育<br>5. 宗教<br>6. 医学<br>7. 団体活動<br>8. 文学<br>9. 芸術・スポーツ<br>10. 日本就労<br>ブラジル以外の移民関係</p>



<p>移民関係日本語書籍・資料は3000冊<br>　登録しました300冊の図書・史料は０．総記・人文研叢書と１．移民史関係全般のうち移民史、ブラジル関係、移民関係です。これらは当研究所における最も重要な部類に属します。その中には、「移民の生活の歴史　ブラジル日系人の歩んだ道」（半田知雄著）、「ブラジルの日本移民」（ブラジル日系人実態調査委員会編）や「ブラジル日本移民・日系社会史年表―半田知雄編著改訂増補版―」（サンパウロ人文科学研究所編）などがあります。</p>



<p>　古くとも大変貴重な図書・史料がたくさん所蔵してあります。日本語で書かれた移民関係の図書・史料の所蔵数は概算で3000冊近くあると思われます。ブラジル日系社会に関する研究をしていらっしゃる方々及び興味・関心をお持ちの方々に、もっと利用・活用していただきたいと願っています。</p>



<p>2008 年６月18日のブラジル日本移民100周年記念日を間近に控え、ブラジルに来訪されるお客様、サンパウロ人文科学研究所にもお客様が増えると予想されます。今年度総会における新理事メンバーが加わり、サンパウロ人文科学研究所の更なる発展を目指し、図書・史料を更に活用しやすいようお客様に提供していけたらと思います。</p>
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		<title>着任挨拶</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080115-17/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 18:17:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
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					<description><![CDATA[横尾悦子（JICA 青年ボランティア） はじめまして。 　JICAより日系社会青年ボランティア23回生としてブラジルに派遣され、サンパウロ人文科学研究所勤務となりました横尾悦子と申します。 　 2007年７月５日にJAL [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p><strong>横尾悦子（JICA 青年ボランティア）</strong></p>



<p></p>



<p>はじめまして。<br><br>　JICAより日系社会青年ボランティア23回生としてブラジルに派遣され、サンパウロ人文科学研究所勤務となりました横尾悦子と申します。<br><br>　 2007年７月５日にJAL048便で、南米、ブラジルのサンパウロに降り立ちました。ブラジルに来るのは初めてのことで、南半球は真冬で寒いだろうと思っていたら、摂氏５度まで下がることもなく暖かい日でした。日本の南西に位置する九州の冬より雪が降らず、暖かいと感じました。ただ、１日の気温差が激しく、朝方にコートとセーターを着ていたら、昼にはそれらを脱がないと汗をかいてしまいそうになることもあります。ですから、くしゃみと鼻水が出始め、風邪をひきそうになりました。風邪薬を早目に服用し、今では元気にサンパウロ人文科学研究所の図書・資料と格闘しております。<br><br>　働き始めて間もないため、どこにどんな資料があるか把握しきれていないのですが、徐々に仕分けをして分類作業にかかりたいです。それらの作業が終了したら、データベース作成に着手しようと考えています。利用者が探しやすく、使いやすくなるように心がけ、カウンターパートの方と相談しながら、作業を進めていこうと思います。<br><br>　JICA横浜での２ヶ月の語学研修でポルトガル語を集中的に学んだのですが、現地の方々とお話するのはなかなか難しいです。勤務に支障を来たさない程度に語学勉強に励みたいと思います。<br><br>　来年2008年は移民100周年記念という節目の年を迎え、ここブラジルで日系人の方々とお祝いすることができ、大変嬉しく思っています。<br><br>　どうぞ、よろしくお願いします。</p>
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		<title>コーヒーで感じるブラジル</title>
		<link>https://cenb.org.br/column/20080115-16/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[cenb]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 15 Jan 2008 18:15:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[人文研コラム]]></category>
		<category><![CDATA[JICAボランティア]]></category>
		<category><![CDATA[寄稿]]></category>
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					<description><![CDATA[山本裕美子（JICA 日系社会青年ボランティア） 暑くなると、アイスコーヒーが飲みたくなる。キンキンに冷えているコーヒーに氷が涼しげに入っているものが。 　でも、サンパウロであのキンキンに冷えたアイスコーヒーをお目にかか [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p><strong>山本裕美子（JICA 日系社会青年ボランティア）</strong></p>



<p></p>



<p>暑くなると、アイスコーヒーが飲みたくなる。キンキンに冷えているコーヒーに氷が涼しげに入っているものが。</p>



<p>　でも、サンパウロであのキンキンに冷えたアイスコーヒーをお目にかかることは滅多にない。そもそもコーヒーは、小さなコップに濃いコーヒーと砂糖たっぷり入れる物だと確立されているこの国では、アイスコーヒーなんて邪道なのかもしれない。</p>



<p>　邪道と言われようが、飲みたいものは飲みたい！と思って先日家で作ってみた。コーヒーの香りは冷やしている分、温かい時よりは劣るけど十分おいしい。だけど、何かが足りない。</p>



<p>　先日、ブラジル初のスターバックスコーヒーに行ってみた。日本のOL時代はよく昼食後、仕事後に飲んでいたなぁなんて思いだした。</p>



<p>　スターバックスポリシーは、ここブラジルでも揺らぐことなく存在していて。ちょっとした懐かしさを覚えてしまった。一部ニュースではコーヒー王国ブラジルで生き残れるのか？とまで言われていたが、そんな心配はご無用で大繁盛。しかし、値段はサンパウロで通常一杯1レアル少々で飲めるコーヒーが軽く3倍近い値段がしてしまう。これじゃあ、1日に何回も飲むブラジル人では中々手が出ない。そんなことを思いつつ、行列に並んだ末に飲んだコーヒーはなんだか味が薄く、正直何かが足りないと感じた。日本で好んで飲んでいた味なのに・・・。</p>



<p>　数日後バールで１レアルのコーヒーを頼んだ際、濃くて甘ったるいコーヒーを飲みながら見知らぬおじさんと会話をしていて、はっ！！とした。コーヒー1杯でカウンター越しの店員・他のお客さんとの他愛もない会話が繰り広げられるこの状況こそが、足りなかった何かなのかもしれないと。</p>



<p>　どうやら私の知らない間に、体の中に少しずつブラジル文化が入ってきているみたいだ。</p>



<p>　小さなコップの為、数口で飲み終わってしまうちょっと物足りないブラジルのコーヒーだが、心は大きく満たされるこれに魅力を感じる今日この頃。</p>
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