日系移民とことばー日本語の多様な姿・あり方ー
中東靖恵(岡山大学大学院准教授)
terça-feira, 15 de janeiro de 2008

 「“む『ず』かしい”じゃなくて、“む『づ』かしい”でしょう?」

  1998年8月、サンパウロ市の南西、サン・ミゲール・アルカンジョ市に住む高知県出身の山本万寿子さん(当時87歳)宅を訪れた。26歳でブラジルに移住した万寿子さん。私がノートに記した「むずかしい」という字を見て、思わず発した一言だ。その日本語には高知方言の特徴がしっかりと現れる。

 現代日本語の共通語では、『ず』と書いても『づ』と書いても発音に違いはない。だが、かつて『ず』は[zu]、『づ』は[du]のように区別して発音されていた。「難しい」は、昔の仮名遣いでは『づ』を用いて「むづかしい」と書かれていた。万寿子さんはこれを[du]と発音し、『ず』[zu]とは区別する。このような発音の区別は17世紀末ごろにはすでに一部の地域を除いてなくなっていたが、高知県や九州南部あたりの高年層話者には、今でも聞かれる場合がある。驚くべきことは、この発音の区別が、ブラジル生まれである万寿子さんのご子息に受け継がれていたことだ。

 かつて多くの日本人が海を越え異国へと渡ったが、とりわけ戦前期、移住先に持ち込まれた日本語は方言色の強いものだった。そして、移住先でのさまざまな言語接触により、日本の日本語とは違う独特の言語が形成されていった。例えばハワイの日系社会では次のような会話が聞かれたという。

  「アイテンキ、ヒムは来ないけぇ、ミーは一人で行く」 (たぶん彼は来ないだろうから、私は一人で行く)
  「パパ、ハナ・ハナ。ハウスおらん」 (お父さんは仕事に行っていて、家にいない)

 ここには、「来ないけぇ(=来ないから)」「おらん(=いない)」といった広島や山口を中心とする中国地方方言の特徴が現れ、「アイテンキ(=I think)」「ヒム(=him)」「ミー(=me)」「パパ(=papa)」「ハウス(=house)」のような英語、そしてハワイ語(「ハナ(=hana)」)が混在する。

 ブラジルへ移住したのは九州地方、中国地方を中心とする西日本地域出身者が多かった。移住者同士の接触、ブラジル人との接触により、ブラジルの日系社会でもまた独自の言語が形成されていった。

   「・・・(娘のうち)まだひとり、まだカーザせんでおるね。
    バンコ、銀行に通っとるけどね。カーザせんって言いよるよ。・・・」

 これは2003年7月、サンパウロ州スザノ市で行った談話収録調査によって得られた談話の一部である。話者は戦前、4歳で移住した1世の女性(石川県出身)である。銀行に勤める娘がまだ結婚しないことを語っている場面であるが、「〜せん(=〜しない)」「おる(=いる)」「通っとる(=通っている)」「言いよる(=言っている)」といった西日本方言ベースの日本語に、「カーザ(=casa:結婚する意のcasarより)」「バンコ(=banco:銀行)」といったポルトガル語が混ざる。

 このような日本語とポルトガル語とが接触・混交して生まれた言語は、かつて「日伯混合語」などと呼ばれていたが、戦後、ブラジルの日系社会を「コロニア」と呼び始めるようになった頃から、「コロニア語」と呼ばれるようになった。常にポルトガル語の影響下に置かれ、日本語の規範を持つことの難しかったブラジルの日本語は、結果的に日本の日本語と著しく乖離することとなった。そのため、これを“乱れた”“崩れた”日本語であるとして悲観する声もあったが、コロニアで生活をしていく中で必然的に生まれたコロニア語は、日本の日本語と違って当然であり、コロニア語の創生はブラジルで“生きていくうえでのストラテジー(戦術)”であると、その存在意義を訴えるものもあった。

 ことばは社会を映す鏡であり、時代の移り変わりとともに変化する。日本では、ここ30年あまりの間に急速に全国共通化が進み、かつて地域色豊かであった伝統方言は消滅の危機に瀕している。共通語がまだ十分に普及していなかった時代、方言は“汚い”“悪い”言葉であり、人前で方言を使うことは“恥ずかしい” とさえ思われていた。だが、全国に共通語が浸透した今、方言を記録・保存する活動が各地で盛んに行われ、若者たちは、方言を“温かい”“かわいい”などと好意的に評価し、友人らとの会話に積極的に方言を織り交ぜる。こうした若者たちの姿は、かつて共通語がうまく使えず悩んだ世代には信じがたい光景として映っているだろう。

 ブラジルへ渡った日本語は、世代交代が進む中、徐々に“生活言語”としての姿を消しつつある。しかしその一方で“学習言語”としての日本語の需要は増大し、ブラジルにおける日本語の位置づけは以前と大きく変化している。これまで日本語学習者のほとんどは日本語学校で学ぶ日系子弟であったが、近年、公教育機関での学習者数が飛躍的に増加し、その割合は学習者数全体の25%まで占めるようになった。しかもその大半は非日系ブラジル人である。そのほか、成人学習者の増加も見逃せない。いずれも1990年代以降顕著な傾向である。

 今後、継承語としての日本語学習の需要はますます先細り、いずれ外国語としての日本語学習へと完全に移行するだろう。しかし、それを悲観するのではなく、むしろ時代の流れとして受け止め、時代にふさわしい日本語のあり方を模索すべきではなかろうか。「日本語」と一口に言っても、その姿はさまざまである。日本国内においても地域や世代によって日本語は多様な姿を呈し、またそのような多様な日本語のあり方は、広く社会に受け入れられるようになった。ブラジルの地で育まれたブラジルの日本語もまた日本語のひとつの姿であり、日本の日本語とは違う独自の道を歩んだブラジルの日本語は、まさにブラジルの日系社会で創り上げられた貴重な財産である。それが失われつつある今、単に人々の“記憶”に留めるのではなく“記録”に留め、次世代に継承すべきなのではないだろうか。

(写真:2006年8月、グアルーリョス国際空港にて筆者撮影。ポルトガル語、英語、スペイン語、フランス語に続き、手書き風の「ありがとう」の文字が印象的だった。)


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros