アルゼンチン ミシオネス州にて
さて、話を岡田の大陸行脚に戻そう。岡田がひょっこりボルト・アレグレに姿を現わす一年前、一九三一年には隣国のアルゼンチン、ミシオネス州にやってきた記録が、アルゼンチン日本人移住史(第一巻 戦前編)にある。
これによると、1930年代初頭に岡田芳太郎なる世界徒歩旅行家がアルゼンチンをまわり、日本人の暮らしぶりを亜爾然丁(アルゼンチン)時報に寄稿していた。
ミシオネスについては、同時報一九三一年八月の二二日号と二九日号、さらに九月五日号に「ジェルバ・ヴィエホ視察の記」として掲載されている。(同誌251ページ)
ミシオネスという州は隣のパラグアイやブラジルとの間に、ちょうど亀が頭をもたげたような形で突出している。州都ポルト・アレグレのあるリオ・グランデ・ド・スール州に隣接しているから、岡田はこのミシオネスを歩いたあとでブラジルに入り、ポルト・アレグレにやってきたのだろうか。
同移住史によれば、早くも一九一五年にはミシオネスは日本人の理想郷として、移住地造成の夢を抱いた田中誠之助という先覚者がいて、その理想に共鳴した移民がその後入植し、豊穣な赤土を利用して、オーロ・ベルデ(緑の金)と呼ばれ、マテ茶の原料となるジェルバ・マテを栽培するようになる。
おもしろいのは、のちに御三家のひとつ、ブラジル海外興業の代表となる宮腰千葉太がそのころアルゼンチンの日本公使館の書記官をしていて、一九三一年、ミシオネスの日本人の動静について報告をしていることである。それによると州内で暮らす日本人は三二家族一四六人、「日本人全員が永住の決意をいだき、異口同音に子孫百年の大計をたてると称して、焦らず騒がず着実にその業務に従事していた」とある。
コーヒーでひともうけをしたら日本に帰るという、錦衣帰郷の一旗組みが大半を占めていたわがブラジルとはだいぶ異なっている。
ミシオネス邦人見聞記
同史には、前期のアルゼンチン時報に掲載された岡田の文の要約が載っているので、それを引用しよう。(P251)
—世話好きの首藤氏は、土地局に六百町歩の土地の払い下げを申請してすでにその地域には縄張りして移住者の来るのを待っておられる。小資本で入植希望者は首藤氏へ問い合わせば、喜んで犬馬の労を辞さないことは受合いである。中略
お話好きの首藤氏のチャカラ(農園)に着く。他人の世話で東奔西走しているご本人の畑には雑草が茫々として生えている・・・
首藤氏は武市(ブエノス・アイレス)に住んでいた時は、自動車の運転士として渡世していたのであるが、おいおい家族が殖えるにしたがって生活難という厄介なものがつきまとう。そこで大いに悟るところがあって、一昨年翻然として首府を引き払い家族を連れて入植したのである。約六町歩の開墾が終わると同時に、ジェルバ・マテ樹が植え付けられた。昨年はタバコの栽培でかなりな収入が上がったそうである。養鶏、養豚、自家用の野菜もあり、今では馬が一頭いる。立派なお百姓ぶりを発揮して、布切れのあたったシャツにパンタロン(ズボン)、日本製の足袋靴をはき、あごの下には二寸ばかりのびたヒゲが十七、八本さがっているところはやや仙人じみている。この人が首府にいたときはメカシ込んで自動車のハンドルをにぎる運転手であったのかと想像すると、今昔の感に打たれる。
同氏の述懐に「自分はもう少し早く目覚めていたら今ごろは立派なジェルバ・マテ園主で、年々収穫を上げていたのであろうが、目覚め方が少し遅れたのは残念である。しかし遅まきながら首府に愚図ついていずに入植を断行したことをいささか満足に思っている。現時は間作のみで十分生計が立っていくからマテ樹の生長するのを楽しみにしている」と。未来に希望をいだいて楽しく愉快に働く人は実に幸福である。私は現在の首藤氏の境遇を衷心よりうらやむものである。それと同時に同じ事業を同じ都会に何十軒、何百軒と開業して、果ては互いに無謀な競争をやるなどは愚の骨頂である—
そののち、岡田は首藤の案内で二軒ほどの移民の家を訪ねたあと、「入植者として一番奥地に入り込んで、なかば仙人になりかけたという静岡県人渡辺雄二」の家を訪ねる。
—約七キロあるそうな、車は通わないが、馬は通う、泥濘の多い薄暗い坂道だ。五キロばかり歩行すると、やっと人の通れるだけの路幅に切り開かれてある森林中の小径となる。
首藤氏の説明にいわく「ここから先をハポネス・ピカダ(日本人の森の小径)と一般に呼んでいる。渡辺氏のジェルバ園はここから未だ二キロほど奥に入らねばなりませんが、この道なども渡辺氏と私とで三日がかりで切り開いたものです」
なるほど首藤氏は世話好きだけにこんなところにも加勢に来ているのだ。どこにも世話焼きは必要であるが特に植民地などには欠くべからざるものである。サン・イグナシオの山口氏やジェルバ・ヴィエホの首藤氏がおられるので入植者はどれほど助かることかわからない。民族発展のために大いに努力してもらわねばならぬ。いつかは酬いられる日が来るであろう。
渡辺氏の・・・現に切り開かれてあるのは十町歩にすぎない。そこには全部ジェルバ・マテ樹を植え付ける計画で、植付け済みのところも大分ある。仮小屋はまだ完成していない。周囲が開け放してあるから横降りの時は閉口しますといっておられる。故国に妻子があるが、ここにはただ一人で野良の仕事から女房役までせねばならぬ。首藤氏の子分だけに二十本ばかり薄いヒゲを長くのばしているところはまったく半仙人らしい。・・・・
三羽しかいない鶏を一羽すでに屠られていた。牛肉はなかなか手に入らないから移住者は鶏をぜひ飼わねばならない。
渡辺氏の容貌といい態度といい、女性のような柔和さであるが、どうしてどうしてその剛毅なる気象は万人の敬服するところである。たいていの男子が、逃げ出しそうな大森林のただなかに、虎もいるであろう、野猪もいるであろう、山猫も飛びだすであろうに、たったひとり囲いもない仮小屋に住んで泰然として起伏しておられるところはただただ感嘆するのほかはない。これでこそ欧米人と伍して殖民事業について、いささか気焔も吐けるのである。私はいたずらに奇を好むものではないが、渡辺氏のごとき希望に輝き、勇気にみちみちたる入植者の同朋間より続々出現せんことを切望するものである。—
戦前アルゼンチンに渡った移民も、ブラジル移民とおなじように、未開地の原始林を伐採・開墾する、という苦難を経た上で殖民地を造成していったのだろう。その労苦が偲ばれるルポであるが、それにしても三羽しかいない鶏の一羽を締めて馳走に供するとあるのは泣かされる。それだけまだ貧しかったのだろう。
岡田の手記は、だいたいこうした入植者の苦闘と現況を淡々と即物的に綴ったものである。ただ、要約であるために、原文の雰囲気が伝わらないのがすこし残念であるが・・・・。
ポルト・アレグレに姿を見せたのは翌年の七月であるから、岡田はそれまでの一年ほどをどこかの地で彷徨を続けていたことになる。(つづく)
写真はすべて、山中三郎記念バストス地域史料館の提供です。