レジストロに客死した世界徒歩旅行家 —岡田芳太郎 下
鈴木正威(サンパウロ人文科学研究所)
terça-feira, 15 de janeiro de 2008

帰らぬ人となる 

 さて、最初の日伯新聞の記事に戻ろう。記事はさらに一年後の三三年年二月一六日のもので、ウルグアイよりサントスに着いて、レジストロで客死する岡田の消息を伝えるものである。



  — 旧臘(きゅうろう—昨年の12月)ウルグワイ方面より北上して正月サントスに着いた世界徒歩旅行家岡田芳太郎氏は、一月十日徒歩ジュキア線からレヂストロ方面目指して出発したが予想外の暑熱に体弱り、途中ペドロバーロスより汽車に乗り、去る六日レヂストロ市街地小松旅館へ辿り着いたが、衰弱甚だしく旅館主人の看護も効なく翌七日午前十時半遂に心臓麻痺を起こして死去八日同地の人々の間で共同墓地に葬られた。享年五十七—


 サントスからジュキア方面へ続く鉄道ジュキア沿線は、サンパウロ州でも酷熱炎暑の地として知られている。まして夏場になるとその暑熱はたえがたい。長年に及ぶ徒歩旅行で、そのとき岡田の体はかなり衰弱していたのではなかったか。それが暑熱によって一気に悪化したのであろう。五十七才という年齢は戦前でも早死にといえるのではないか。

だが、岡田についてころろ打たれるのは、かれが肌身はなさず身につけていた遺書の内容である。一年中、ひとり旅の空にある身を思ってか、万が一のために遺書を認めていた。

—氏は今日あるを期して日英西三国語より成る悲壮なる左の遺言状を所持していた。


        遺言状

一.致命の災難叉は頓死などにより遺言をなすべき余裕なき時の用意に書き記す
一.着用の下股引きの内側に縫込みある米貨紙幣00弗は余の死骸取方づけの費用(即ち葬式費並に墓場料)として〇〇弗、残余の00弗は立会の牧師或は僧侶の謝礼に使用されたし、かかる場合に遭遇したるとき色々手数を煩はしたる当人(人種を問  はず)へ対し些か謝恩の印までに其当時携帯したる金員並に物品は悉皆贈与するものなり、但し各国にて苦心蒐集したる各種の金貨のみは東京上野博物館に寄贈せらるべきこと
一. 余の旅行券並に戸籍謄本及び総ての書類は之の地駐拶箚帝国大公使館叉は領事館迄お届けあらんことを乞ふ

                 世界徒歩旅行家岡田芳太郎




 岡田はかねてから客死することをも想定していたのであろう、その覚悟のほどが偲ばれる遺書である。とくに不慮の死に遭遇した際、近隣の人々の蒙る迷惑を察していたのか、その用意たるや周到なものがあったといえる。まさに明治人の心意気を感じさせるものがある。

同胞愛

これについては後日談がある。同日伯新聞四月二十九日付けによれば、岡田の遺骸は小松旅館主や同植民地同胞によって手厚く葬られた旨の記事があり、小松氏は後始末のためにサントス、サンパウロに二回も足を運んで奔走したあと、新聞社に来訪したときの談話を次のように伝えている。

— 遺品は海興の中野氏立会の上、夫々遺言通りに処分し、旅券其他の書類は領事館に、三十八ヶ国の金貨は領事館を介して上野博物館に送って貰ひ、私に遺された品物や各国紙幣(一八カ国)は既に陳列棚を設けて記念として納めておくことにしました。墓石も御影石を選び碑文は内山総領事が引き受けてくれました。未だサントスの潮旅館にカバン其他があるので、これ丈は未だ片付いていませんが先づ大体を終えやっと重荷が下りた気がします。レヂストロへ来たら記念品を見て行って下さい、云々—

 小松旅館主をはじめ当時の在留民の心温まる同胞愛を感じさせる話である。岡田も死に際が立派だったが、遺言に応えたレジストロの人々も死者を葬る礼を尽くしたというべきか。

 非業の死といってもよい最後であったが、岡田にとっては覚悟の死であったかもしれない。生涯を世界の徒歩旅行に費やす、というこころざしを実践したという意味では、本懐を遂げたとでもいえようか。ともあれ、従容として不帰のひととなった岡田の最後には、粛然ひとの襟を正すものがあるようである。(おわり)


写真提供:山中三郎記念バストス地域史料館


 付記:本稿を書き上げた後、ブラジル日本移民史料館のJICA・シニアボランティア小笠原公衛氏により、史料館には岡田の日記が所蔵されている旨を聞いたので、後日機会があれば紹介したい。さらに、山中三郎記念バストス地域史料館からは、岡田の葬儀の写真などを提供していただいた。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros