南北アメリカを旅して歩いた、評論家大宅壮一(1900─1970)は帰国後、見聞を著書『世界の裏街道を行く』(1956年、文芸春秋)にまとめた。ブラジルに関する限り、移民を揶揄した記述が散見され、刊行当時、不愉快な思いをした読者もいるはずだ。
文中、「(30年前に移住して以来)文筆を職業として生きてきた唯一の日本人である」と描写した人物がいる。アンドウ・ゼンパチ(本名・安藤潔、1900─1983、広島県出身)のことだ。
戦後まもなく、コロニアで啓蒙的役割を果たした「土曜会」(1946年〜1953年)の中心メンバー。同会の後々身である当研究所(1965年創立)の初代専任研究員だ。
大宅が来伯した54年、アンドウには『葡文典接続法解説』、『ブラジル史』、『肉欲』(翻訳)といった著作があり、著述家として地歩を固めていた。
「自分には、金に縁のない男だ。だからせめて『金』という字を分解して、皮肉ってやろう」。「全八(ゼンパチ)」と名乗ったのは、洒落のつもりだった。清貧に甘んじ、もの書きとしての矜持を持ち続けたという。
旧東京外国語学校(現東京外国語大学)ポルトガル語学科の一期生。昭和天皇ご成婚記念事業である「大毎移民団」の移民輸送監督として、1924年に渡伯した。
農業経験はもちろんなかった。最も長く在職したのは『伯剌西爾時報』の記者。日伯新聞にも在籍し、編集長の役職にあった。戦後は、2世向けに『ESPERANÇA』を発行するなどして、文化啓蒙活動に力を尽くした。
人文研初代専任研究員としての大きな成果は『近代移民の社会的性格』(1966)。イギリスやイタリアにおける移民の流出原因を社会・経済的に究明した論文で、ブラジルにおける日本移民の姿が相対化されている。
「土曜会」の『時代』、「サンパウロ人文科学研究会」の『ブラジル研究叢書』を含めると『戦後邦人社会の精神状況』(1952)、『ノルデステの風土と社会』(1956)などを発表。鋭い文化・社会批判を行っている。
ただ自身について書き記したものは見当たらない。鈴木悌一(サンパウロ大学日本文化研究所初代所長、1911─1996)はアンドウを“観念唯物論者”と呼び、両者は「土曜会」時代、哲学論議に花を咲かせたという。
ブラジルで国家主義が高まっていく30年代、いかなる内面的な葛藤があり、思想的にどう生き抜いてきたのか? さらに原爆で姉夫婦を失くした上、同時期、息子にもブラジルで先立たれたアンドウが、戦後の文化推進運動に込めた思いとは何だったのか?
その人間像に迫る研究があっても面白い。
私生活では、3度の結婚歴を持つ。晩年、広島市内の病院で初恋の女性と再会、添い遂げるエピソードがにくい。「若いころ、コンデ街のポロン(地下)から、葉巻を銜えて出てくる姿がさまになっていた」との証言も残る。
まさに、ロマンチストというにふさわしいアンドウ。子供たちには、惜しみなく書籍を買い与えたという。家庭でよく口にしていた言葉とは──。
「カネよりも、人間性が大切だ」。
写真:『ブラジル広島県人発展史並びに県人会名簿』(1967年)