日本文学を愛し、紹介した野尻アントニオ
水野昌之
terça-feira, 15 de janeiro de 2008

 弁護士野尻アントニオは本業の傍ら翻訳の仕事、主として日、伯語訳をやっていた。『ポルトガル語の語学力ではどんなブラジル人作家、文筆家にも引けを取らない自信がある』。事実、日本人、ブラジル人を含めて両国語が十分にでき、両国の文学に精通した二世は彼を措いていなかった。日本文学に対しては「神髄を極めていた」といわれたほど造詣の深い一人であった。何よりも日本語のもつニユアンスを愛した。

 従来ブラジルでは日本の文学作品は英仏語から重訳で紹介されていたが、この分野で先鞭をつけたのが野尻であった。芥川龍之介の「羅生門」を翻訳し、国際交流基金の支援を取り付けて刊行する。ついで太宰治の「斜陽」、芥川の「藪の中」その他小品を翻訳、同じく「基金」の支援のもとに刊行した。しかし、これら作品に共通したニヒルな傾向は当国の社会性から受容され難く、反響は少なかったが、彼の感性としては魅力的であった。どちらかといえば破滅型願望であった。

 野尻は何時も多数意見とは異なる見方を提示した。世の通念を常に疑う姿勢があり、しばしば「ヘソ曲がり」に見えた。喧々囂々の論議を巻き起こし文芸界の造反とそしられた短詩否定の「第二芸術論」にも賛同し、更に『俳句は芭蕉で始まり芭蕉で終わった、その後はすべて類似句』と公言してコロニア俳人たちの顰蹙を買った。唯一、無定無季の山頭火を認めて心酔した。山頭火の代表句をほとんど暗記して、その多くを翻訳した。短歌に対しては幾分か寛容であった。特に女流歌人弘中千賀子とは深い友情でつながり、『日本の伝統的な詩を咀嚼して、そこよりコロニア短歌を誕生させた』と評した。彼女が随筆集「いのち折々」を上梓すると全文をポ語訳し別冊挿入させて出版した。短歌としては明治天皇の御製二十首を翻訳した。名訳と評された。これら翻訳の仕事をとおして得た興味深いエピソードを紹介しながら文化比較論を展開するのを得意とした。名実ともにこの分野での第一人者と目されていた。

 1932年、聖州パウリスタ線ポンペイアに生まれる。父親は魚の行商をしていた。子供の頃、魚を乗せたリャカーの後を押した記憶がある。農業移民が多様化を求めて離脱をはじめる時代であった。

 父親は奈良県十津川村の出身、一説には平家の落武者の末裔による部落で、明治の初期、村人の大半が集団で北海道開拓移民として渡ったという記録がある。いわば負の系譜でブラジル移住にもさしたる抵抗はなかった。

 終戦後コロニアの移動期がはじまる。敗戦した祖国への夢を断念、永住を決意して子弟教育の環境の整ったサンパウロ市及び郊外へ集中する傾向にあった。これをいち早く予感、魚屋から不動産ブローカーに転じる。土地ブームに乗って瞬く間に安定した生活を築く。郊外の町イタケーラに居を構えた。

 そこには野尻の無二の親友となる画家の玉木勇二や人生の先師となる画家で文筆家の半田知雄がいた。中学、高校を終え、サンパウロ大学(USP)法科を卒業する。人間形成期を過したイタケーラには、ときとして郷愁にかられ、後年までなにかと話題にした。住居を自力で新築したのも、また結婚したのもこの町であった。

 野尻は自らの人生を決定づける多くの人と出会っている。その一人が鈴木悌一であった。三菱系の東山銀行顧問弁護士の肩書きであったが、語学に堪能で、総帥山本喜誉司に見込まれ、ずば抜けたポ語力と政治力を発揮して、戦時下に敵性国資産を凍結した法令の解除を目指し対政府交渉に奔走した。驚くべき博識でも知られ、それが鋭い人間観察の裏打ちとなっていた。法科学生であった野尻の才能をいち早く見抜いて卒業と同時に東山銀行へ就職を斡旋した。法務部で自らの直属部下とする。ここで鈴木の薫陶を受ける。鈴木は余暇に芸術を愛し、文学はじめ特に絵画では趣味の範囲を越えた力量で個展を開く。更に酒を好み、品の良いユーモアを身上とした。鈴木悌一の言動にはほとんど崇敬の念をいだいていた。一個人としても仰ぎ見る存在であり目指すべき模範に見えた。

 その鈴木がサンパウロ大学の日本文学科の主任教授に転じる。後を受けて銀行の法務部長となった野尻はやがて重役に抜擢された。40歳台初めの若さだった。多くの先輩達を差し置いてのことで「いろいろ気をつかった」。緊張を和らげるため、もとより好きであった酒を飲むようになり、いつか彼を愛酒家にしていた。

 しかし、東山銀行は本社ともいうべき三菱銀行が企業進出して吸収されると、現地採用の重役は追われることに。「潔い出処進退」と称賛される。

 野尻の人脈は華麗だった。鈴木悌一にはじまりコロニアを代表する文人、画家、少壮実業家、大学教授、新聞記者、柔道家、果ては日系政治家など。人気の秘密はユーモラスな語り口と日本人以上に話術に長けていること、傾倒した作家太宰治の文学に見られる「かるみ」と「惻隠の情」が彼の内にも流れていたことによる、と評する友人もいる。ピアーダをよくした。エロチックな話を軽妙な調子で語り続けた。同じピアーダを同じ仲間に繰り返すが嫌味を与えなかった。頭の回転が速く、短身であったが背筋をスックと伸ばして相対するので、相手は野尻のペースに巻き込まれた。自説への強い確信が時折、傲慢に見えることもあった。しかし、表情は柔和だった。

 社交と称してほとんど毎晩のように飲み歩き、盃を手にすると酒の肴やツマミを口にすることはなかった。夕食は酒と決めて友人達との会食にも一人だけ膳を退けた。一日一食主義であった。そうした彼を家人は気遣ったが、酒量は増えこそすれ減ることはなかった。艶聞もときには流れた。家庭にいながら家出人みたいだ、と自嘲した。飲み友達を誘って溜り場的な社交場「酔聖クラブ」を会員制で立ち上げる。酔うと批評家的な口調で辛辣に片っ端からやり込める。社交クラブは長続きしなかった。しかし、コロニアの文化人を集めてリードした彼は常に気になる存在であった。

 彼の批評家的な言辞に期待を寄せる一部の人々に担ぎ出されて同人誌「コロニア文学」を発行するコロニア文学会の会長を受諾するが、第三者へ干渉する積極性に欠ける性格から就任直後に書き下ろした唯一の文章は「終刊の辞」であった。幕を引くために登板したそしりは免れない。そこには、彼独特の滅びの美学があった。しかし、その後2000年、サンパウロ人文科学研究所の理事長に推挙されて就任する。彼が日本の進出企業の顧問弁護士として数社と関わっていたところから、或いは経済的な問題を解決してくれるのではと、周囲から期待されていたからである。責任感を大いに感じていたが、訪日して企業の本社に乗り込んで寄附を要請することは、並大抵の役目ではない。思いあぐんでいる様子であったが、その頃から健康上の陰りが見えるようになる。肺結核であると診断される。更に癌が発見される。『自宅で仕事がしたい』と、自らの余命を親しい友人に語っていた。ミナス州境の町ジョアノポリスの山荘には所有地内に落差百メートルの滝があり、美しい風景が気に入っていた。翻訳作品ではなく人生最後の書き下ろし長編小説(日本移民関係)の構想を練って、山荘の書斎に籠るのを楽しみにしていたが、病魔に克てず二〇〇二年二月、七十歳の生涯の幕を閉じた。敬称略。


写真:野尻アントニオ元人文研理事長。『POESIA JAPONESA』(ZIPANG出版)より。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros