自己の信念を貫き、コロニアと共に生き、共に悩んできた半田の存在を「コロニアの良心」と呼んだのは、彼と刎頚の交わりをもった河合武夫である。ブラジル日系コロニアの歴史における半田が果した功績の一つは、創立発起者の中心人物として、日系コロニア最初の美術運動であるサンパウロ美術研究会(聖美会)を結成したことであろう。
聖美会が「互いに勉強し合う」ことを目的に設立されたのは1935年。半田をはじめ高岡由也、玉木勇治、田中重人、富岡清治らは、作品を持ち寄っては互いの研鑚にはげみながら後進の指導にあたり、コロニア画壇の基礎をつくった。
香山六郎編『移民四十年史』に「移住者の美術運動」を執筆した半田は、当初の様子を「自己の作品はまだまだ幼稚なものであっても、理想はかなりはっきりしていて進歩的な議論をする連中であった。だから自然新しい流れとなり、新しい時代のグループとなったのである」と記している。
高岡、玉木が絵画への情熱をたぎらせて旅費がないままにリオへの道を歩き、当時リオ画壇に強い影響を与えたポーランド出身の画家ブルーノ・レホウスキーに師事したエピソードは語り草として伝えられているが、レホウスキーの筆になる半田25歳の肖像画(1931年)は、聡明な若者らしい凛呼とした面影を残している。
人文研の研究レポートや邦字新聞紙上に発表された評論家としての深い思想に富んだ秀れた文章は多いが、その著書としては「今なお旅路にあり」(1966年)、「移民の生活の歴史」(1970年)がある。特に「移民の生活の歴史」は執筆に2年をかけた労作で、ポルトガル語にも翻訳されて出版され、ブラジル日本移民史研究には欠かせない名著である。
この著書のエピローグを、移民60 年祭を8日後にひかえて書きあげた半田は、「われわれ移民六十年の歴史は、ブラジル国民形成の歴史の一面でもあるが、その過程には、移民受入国でなければみられない人間的悲劇がひめられていたのであった。」と結んでいる。この「われわれ移民六十年の歴史は」を「移民百年の歴史は」と書き替えても、移民60 年祭以後40年の経過をみるとき、「人間的悲劇」に差異はないように思われる。
この移民史の執筆を半田に依頼しようと提案したのは、人文研創設当初から専任理事を務めた斎藤広志で、「その面での半田君の才能を見出した斎藤君の功績だが、これに対して、僅かな給与で書かせるのは彼の画業をさまたげるもの…との批判もあった。」と後に河合は述懐している。
また半田は1970 年代の初期から移民資料収集の必要性を提唱、人文研のメンバーを中心に広くコロニアに呼びかけ、その構想が発展してブラジル日本移民史料館が建設された。 1983年には、自らの体験をもとに制作した絵画シリーズ「移民の生活」45点を、移民史料館に寄贈、文協貴賓室でその展示会が開催された。ブラジルの大地に根をおろした移民画家として、ブラジルの風俗や移民の生活を描写したその絵画シリーズは、移民史料としても貴重な意味あいの作品群として評価は高い。
両親とともに渡伯してノロエステ線のコーヒー園に配耕されたのは半田11 歳のときで、家族と各地の邦人植民地を転々とする。やがてブラジル時報社に活字拾いとして就職、日本語をマスターして地方植民地の日本語教師となるが、再び出聖して商業学校の聴講生となった。しかし商人には不向きな自分の性格を痛感して美術学校へ転校、以後絵の道一筋に生きた。
「ぼくは絵を描きながら死にたい。それがぼくの最大の贅沢な夢だ」。その言葉とおりにアチバイアの閑静なアトリエで、最後まで絵を描きつづけて生涯を終えた。1996年8月1日逝去、享年90歳であった。
写真上:ヴィラ・ソニアのアトリエで、1975年
写真下:オーロプレットの寺院