(3)バルチラ
マルチン・アフォンソは約一年かけて沿岸の各地を詳細に調べたあと、サンビセンテにやってきました。
すでに沿岸には何人かの漂流者が住んでいて、みんな先住民の女と結婚していました。その中に実力者インジオの酋長チビリサの娘バルチラと結婚しているジョアン・ラマリョというポルトガル人がいました。
ノブレガ神父が「人生のすべてをインジオとともに送った。たくさんの妻を持ち、子を持った」と評しています。マルチン・アフォンソにとっても、この結びつきは植民事業を円滑にしたし、チビリサのほうにも娘を通して同盟者となれば、他部族との土地争いを続ける上で好都合なのでした。この酋長はなかなかのやり手で、妹娘の方もロポ・ジアスというポルトガル人と結婚させています。
イザベルという洗礼名があるバルチラとラマリョにはたくさんの子どもがいます。マルチン・アフォンソの片腕となって働くラマリョを助けながら、次々子どもを生み育てたのです。そのうちの何人かはカピタニアの実力者と結婚し、サンパウロ人の祖となりました。娘のジョアナ・ラマリョはジョルジ・フェレイラというサンビセンテの統治者と結婚、その娘たちも名家の人間と結婚し、サンパウロ人の祖を築くことになります。こうしてピラチニンガ高原にはブラジル=ツピー村ができ、失敗ばかりのカピタニア制の中で、唯一成功したものとしてペルナンブッコとともに特記されています。インジオの妻をもったラマリョ、そしてあまり知られていない義妹の夫のジアスが、部族の力を植民のために振り向けたからなのです。この村が発展して現在のサントアンドレ市ができました。
バルチラはパラグアスほど幸福ではありませんでした。パラグアス親娘が正式な結婚をしているのに対し、ラマリョはポルトガルですでに結婚し、当時、まだ妻が在命中だったというのです。だから重婚だったという歴史家がいます。花より団子のインジオには、登記書など問題でなかったかもしれません。実生活をラマリョとともにしたのは私だ、というゆるぎない自信があれば十分だったのでしょうか。
しかし、1580 年に書かれたラマリョの遺言書には、バルチラ・イザベルは使用人として明記されているのが哀しいではありませんか。当時、こんな手段が頻繁にインジオの妻たちに使われました。数多い子どもたちはラマリョ姓を名乗っていますから、まさに、複数の妻たちの「腹は借り物」だったのでしょう。(つづく)
写真:バルチラ
この連載についての問い合わせは、michiyonaka@yahoo.co.jpまで。