星名謙一郎
星名謙一郎(ほしな・けんいちろう)
quinta-feira, 17 de janeiro de 2008

 星名謙一郎氏が、コロニアに残した功績と思はれるものが三つある。その一つは、大正4年(1915)の初頭、邦人最初の言論紙「週刊南米」の発刊であり、その二は、同7年(1918)奥ソロカバナに、最古の邦人植民地を建設したことであり、第三は大正の末期、邦人珈琲栽培者の窮乏を救う為め、上塚周平氏と共に蹶起して、世にいう八五低資に成功した事等である。

 星名氏は、弱冠にしてハワイに渡り、後北米テキサス州に転じて多年米作に従事した。一旦帰国し、明治42年(1909)単身アルゼンチンに渡航し、間もなくブラジルに来て、リオ州の山縣農場に出入りしていた。サンパウロ州人となったのは、大正4年(1915)の頃である。八五低資運動のソロカバナ線代表として活躍中、大正15年(1926)12月13日、一伯人の恨みを買いアルヴァレス・マシャード駅頭に於いて悲惨な最期を遂げたが、60年の彼の生涯は、実に先駆者にふさわしい波瀾重畳であった。

 星名氏は、性剛直、鉄の如き意志を持つ硬骨漢で、時に恐ろしく冷血無慈悲に見えたが、それは彼の一面に過ぎなかった。流石に晩年はものに感じ易く、ポロリと涙を落すという風であった。植民地の茅屋に満足し、愛犬とアンタ(猿)を友とし、二人の孤児を養いながら「俺もやっと金が出来た。これから四面の楚歌を破って宿志を果たすぞ」と勇んでいた。その矢先き、彼の最後となったのである。

 50年のコロニアには、いろいろと変わった人物が存在したが、星名氏の如きは、その識見と信念に於いて、水準のかけ離れた異彩で、多くの人々は恐らく彼の真意を洞察出来なかったであろう。一、二彼の過去と逸話とも称すべきを綴って、星名氏の反面を語ることとする。

 明治の中葉、星名氏(愛媛県出身)は、青山学院を卒業し京都同志社大学に学んだが、ハワイに渡り、米人経営の製糖会社に働き、見込まれて支配人となった。社長と言うのは非常な人格者で、青年星名はこの社長の感化に負う処大であった。後、星名氏は会社を退き、ハワイに於ける最初の邦字新聞を発行し、その経営に当っていた。三面記事に端をを発して、移民地にありがちなゴロツキの襲撃を受けた。一徹短慮の星名氏は、これと取組み、その男を投げたおし首を締めつけたら、そのままいって仕舞った。もちろん裁判沙汰となったが、一般の同情と支援で、正当防衛と判決が下り、罰金刑5弗で事済みとなった。熱心な若きクリスチャンだった星名氏は、例え、それが余儀なき過失であったにせよ、一人の人間の生命を彼自らの手によって断ったと言うことが、永く悩みの種となり、それが性格の上にも影響せずにはいなかった。人間の作った法律のみで、良心生活の出来る人々には、元より問題とならないが、いやしくも神の僕として、右の頬を打たれなば更に左を向けよとの教えを奉ずる者には、星名氏の悩みの深刻さがよくうなずかれるであろう。彼の信仰は動揺した。彼はハワイを去って北米本土に転じ、さらに後年ブラジルに来たが、その死に至るまで、恐らくこの問題は解決が出来ず、従順と抵抗の戦いに終始したであろう。

 1915年(大4)、謄写版刷の「南米週報」を鹿野久一郎(外語出身)と共同で発刊した。在伯邦字新聞の嚆矢で、年購読料20ミル、発行部数1千。渡辺孝氏や木村幸太郎氏が編集長を歴任した。

 彼は忘恩の民を極度に嫌った。「週刊南米」時代、彼は一匹の小猿を飼っていた。ある日いつもの如くバナナを与え、小猿の頭を撫でていたが、何が気に障ったものか、星名氏の指に噛みついた。星名氏は怒髪天を衝き「この恩知らずめ」と大喝し、その後足一本をポキリと折って仕舞った。流石に可愛ぞうなことをしたと思ったであらう。此小猿を捕えて色々と手あてをして見たが、それは徒労に終った。「星名さん、あんたは信長みた様な人ですねえ」「信長? うまい事を云うな」と苦笑した。翌朝見ると此小猿は死んでいた。星名氏は終日黙して語らず、甚だ不機嫌であった。

 1917年(大6)、ソロカバナ線サント・アナスタシオ駅梅辨植民地の売出しを開始した。翌年、小笠原一族が入植するや。その資金を利用して、アルヴァレス・マッシャード町(当時、ソロカバナ線は、インディアナ駅まで開通していた。同駅を距る50キロメートル)の奥に原始林を購入した。第1回2千域(アルケル=2.5Ha、5千Ha)、第2回3千域(7千5百Ha)。これを分譲して550家族を擁するブレジョン植民地を創設した。ノロエステ線ペンナ駅に、平野植民地の先発隊20余名が入植したのが、1915年(大4)8月3日で、星名氏の梅辨植民地開拓は、これに遅れること約2年である。

 ここにブレジョン植民地の同労者小笠原尚衛の父に就て附記したい。

 尚衛の父吉次は大正7年(1918)93歳の老齢を以て一族郎党73名を引具して渡伯した。母国出発に臨み、鍬を手にして一同に示しながら「予は此の鍬を、ブラジルの大地に一打ち打込めば死んでも満足である」と壮語し皆を励ました。伯国到着後、いまだカナンの地に鍬を打込むに至らずして、同年11月17日サンパウロ市で没した。尚衛氏が最も苦心したのは、星名植民地時代で、6年間に一族の墓を作ること17墓に及び、分離して他に移動した者、旗を巻いて日本に帰った者さえあった。しかし一族のアブラハム吉次翁の遺志は、後年踏み止った多くの子孫によって遺憾なく継承された。「平野植民地でも、上塚植民地でも、アリアンサ移住地でも又アマゾンの移住地でも、毀誉褒貶は世の常だ。各地に新しい邦人植民地が建設され、建設者は裸になっても、次々に消え去っても、植民地には誰かが残って根をおろして行くものである。すべては時期が解決してくれる。あとさきを考えすぎたら、移住地の開拓は出来るもんじゃない」とは、現在88歳の小笠原尚衛氏の言である。星名氏の創設したブレジョン植民地からも吉雄一家、山下一家、その他が輩出しており、吉次老の子孫も既に数十名に達した。かくして、星名氏の偉業もまた脈々として生きている。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros