堀口九萬一氏は、ブラジルに縁故の深い外交官で、前後を通じてブラジル在勤が、10年余に及んでいる。弁舌がさわやかで、筆もよくたつので、筆に口にブラジルを、わが国に宣伝し、鼻メガネの堀口公使として有名であった。また早くからブラジルの特徴を認め、多くの外交官が、邦人のブラジル発展を危惧した頃にも、ブラジルこそ邦人発展に好適の新天地であると喝破し、大いに奨励した人である。
慶応元年(1865)1月28日生れ。出身地は新潟県。一高を経て明治26年(1893)7月、東京帝大仏語科を卒業し、同月司法官試補を命ぜられて、検事代理として新潟区裁判所に勤務した。しかし僅か2ヵ月で、外務属として外務省に転じ、通商局に勤務した。それより仁川、京城、沙市、オランダ等をまわって、明治32年(1899)11月6日、公使館三等書記官としてブラジル在勤となった。リオに着任したのは翌33年(1900)の2月28日、そして翌年3月31日附で、二等書記官に昇格した。その頃の弁理公使は大越成徳氏だったが、大越公使の帰朝後、明治36年5月20日から、堀口氏が臨時代理公使に任じられ、次期の杉村濬公使が着任するまで、その任にあった。
当時の日伯関係は、移民もなく、貿易もなく、従って在留邦人もいなかったので、至極のんびりとしたものであった。
明治38年(1905)8月1日、帰朝を命ぜられ、12月、日露戦争の戦勝にわく、東京に帰着した。ブラジル移民熱が台頭しかけた頃とて、あちこちから引っぱられて、ブラジル事情の講演を試み、日伯貿易を奨励した。
明治39年(1906)、サンパウロに進出した藤崎商会も、藤崎三郎助氏が東京商業会議所で、堀口氏の講演を聞いての結果であった。
ブラジルから帰朝した堀口氏は、その後、スエーデン、メキシコ、スペイン等に勤務したが、大正7年(1918)7月15日付で、特命全権公使に任じられて、ブラジル駐剳を命じられた。そして8月末に東京を出発して、10月末にリオに着任した。
外交官はその赴任先の時機や環境によって、運・不運があるようで、その点、堀口氏は運がよかったといわねばなるまい。
前任者畑良太郎公使の任期中は、サンパウロ州政府の移民契約廃棄に続いて、日本移民を差別的に待遇しようとした事件が起り、これを非公式に解決するため、長期間に亘って苦慮かつ尽瘁して、ようやくその目的を達成したのであった。
この後を受けた堀口氏の任期中は、前任者時代に一時陰鬱だった空がカラリと晴れて、天気晴朗の泰平時代であった。そして後任の田付大使の代に暴風雨が襲来したのだから、堀口氏は幸運だったといわねばなるまい。
堀口氏が任期中の大正9年(1920)11月には、船越(揖四郎)海軍少将の率いる、「浅間」「磐手」の2艦から成る帝國海軍練習艦隊が、リオ・デ・ジャネイロとサントスに寄港して、両国の親善に貢献した。
また大正11年(1922)、ブラジル独立百年祭の挙行に際し日本は祝賀のため、「浅間」「磐手」「出雲」の3艦を以って編成した、司令官・谷口海軍中将の練習艦隊を特派、東京外国語学校教授の金沢一郎、青山師範教諭の中泉正雄、大阪毎日新聞記者浦田芳朗、大阪朝日新聞記者井上堅の諸氏が分譲していた。
堀口公使も、特派大使として祝典に参列したが、天皇陛下からは、エピタシオ・ペッソア大統領に大勲位菊花大綬章が贈られたので、それを伝達捧呈した。
なお、わが国は、独立百年記念万国博覧会に参加し、日本館を建設して出品すると共に、東京商業会議所会頭山科禮蔵氏を団長とする、南米実業団を組織し、百年祭挙行中に、ブラジルを訪問して祝意を表するなど、公使としては、よいことづくめの時代に、在任したわけである。
堀口氏はブラジル在勤中に、アマゾン河々口のベレンまで、視察旅行に出掛けたが、わが外交官でベレンに出掛けたのは、同氏を以って嚆矢とする。
大正12年(1923)4月9日附で帰朝命令に接し、同5月20日リオ発、7月17日に帰朝したが、公使として約5ヵ年在任したのだから、その任期はまず長い方であろう。帰朝後、同年11月29日、ルーマニアに駐剳を仰せつけられた。
逝去したのは、敗戦直後の昭和20年(1945)10月31日である。
嗣子堀口大学氏は、詩人にしてまた文筆家として有名で、現に芸術院会員である。