ブラジル移民の送り出し斡旋について、長期間に亘り最も功績のあったのは、海外興業株式会社であろう。
海外興業株式会社は、大正6年(1917)12月1日、寺内内閣時代、勝田主計大蔵大臣の奨励によつて、既存の東洋移民合資会社、南米殖民株式会社、日本殖民株式会社、日東殖民株式会社の4社が合同して誕生した。そして大正8年(1919)4月には伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社を、さらに同9年(1920)11月には、森岡移民合資会社を併合して、日本移植民事業の統一が成就した。
この、海外興業の創立によって、政府の積極的移民政策は、その萌芽を示したけれども、まだ確固とした政策の樹立をみるには至らなかった。また世論も南米の移住地についてはもとより、海外発展の必要もさまで認識していなかった。
こうした時代に海外興業株式会社は、南米、なかんずくブラジルを邦人発展の好適地として、全国に亘ってその事情を大いに宣伝し、一方政府当局に対しては、あらゆる機会に、積極的保護奨励施設の必要を進言し、この実現に努めていた。
井上氏は明治9年(1876)6月23日、兵庫県水上郡で生れた。明治26年(1893)2月、海軍兵学校機関科にはいり、同12月制度の改革で、海軍機関学校生徒となった。しかし明治27年(1894)に勃発した日清戦役に、従軍が出来ないといって腹を立て、上官と喧嘩して、同27年12月に機関学校をやめてしまった。そして明治29年(1896)9月、改めて早稲田専門学校(早稲田大学の前身)英語政治科に入学し、同32年(1899)に同校を卒業した。
井上氏は前述のように、海軍の学校に籍を置いたことがあったので、晩年まで海軍軍人の友人も多く、軍部華やかな頃は、その支援も多かった。
明治34年(1901)4月、ウィーン大学法科に留学し、同35年(1902)10月にはベルリン大学政経科に転学して翌36年(1903)4月まで在学した。
明治38年(1905)9月、韓国政府財政顧問附財務官に任官し、同40年(1907)11月には、韓国政府官内府大臣官房庶務課長となり、その後台湾総務府にも勤務した。
このように海軍生徒から私学へ、そして留学、官吏と人の意表をつく人生行路を歩んで来た井上氏も、明治44年(1911)10月、森村市左エ門、和田豊治氏と共に、株式会社南亜公司(ゴム栽培事業)を創立するに及んで、年来の海外発展への抱負を実現する機会を掴み、大正13年(1924)3月、軌道に乗りかけていた、海外興業の社長に就任してからは、本来の面目を発揮して、満10年以上に亘り縦横に手腕を揮い、海興全盛時代を作り上げたのであった。
海興社長に就任した翌年の大正14年(1925)1月、外務省からブラジルに於ける邦人植民地調査を、農商務省からは、南米諸国の調査を嘱託されて南米に出張し、ブラジルでは親しく、海興の事業地を視察した。この視察旅行から帰朝した翌年の大正15年(1926)6月には、ペルー棉花株式会社を創立して、取締役社長に就任している。
また、昭和2年(1927)8月、海外移住組合連合会理事となり、同年12月には、海外協会中央会副会長となった。更にまた昭和7年(1932)11月には、日伯中央協会の創立に参画して、評議員常務理事に就任した。そして昭和8年(1933)11月、拓務大臣永井柳太郎氏から、「多年移植民並びに海外拓殖事業に尽瘁し、特に伯国に於ける邦人の発展に努め、其功績顕著なり。仍つて茲に邦人渡伯二十五周年に際し、銀杯一組を贈呈し、感謝の意を表す」として、表彰状と銀杯とを贈られた。
昭和10年(1935)7月、サンパウロ日本病院建設後援会が設置されるや、常任委員にあげられて、これに尽力した。
井上氏が海興社長を辞任した翌年の昭和12年(1937)6月に、日支事変が勃発し、戦後の再興期までブラジル移民は、萎縮空白の一途を辿ったから、見方によっては、井上氏は、よい時期に、社長の席をおりたとも言えるであろう。
井上氏は、その主力を海興に注いだ外に、メキシコ産業の社長もやり、また南洋協会専務理事、東亜同文会、日墨協会、日亜協会、辛未同志会、日土協会、日本蘭領印度協会、人口問題研究会、海外植民学校長、海外高等実務学校長等々と、実に広範囲に関係を保っていた。
井上氏が逝去したのは、昭和22年(1947)6月23日であった。嗣子陽一氏は、旭硝子株式会社の輸出課長、秀子夫人は多年日本女子大学の学長として、女子教育界に大きな足跡を印し、その後、日本婦人社会教育会々長、日本女子大学同窓会理事長等をして、現在も活躍を続けている。