氏は慶応元年(1865)8月25日、土佐国安芸郡井口村で生れた。明治18年(1885)2月、巌父彌太郎氏が亡くなったので、岩崎家を継ぎ、翌19年(1886)から24年(1891)まで、米国に留学して、ペンシルバニア大学に学んだ。
明治24年(1891)11月、三菱社の副社長となり、同26年(1893)12月に、三菱合資会社の設立と共に社長になった。
明治29年(1896)6月、勲功によって男爵を授けられた。明治34年(1901)と同36年(1903)には再度に亘って欧米を視察した。
大正5年(1916)7月、三菱合資会社々長を辞任し、同9年(1920)3月には、同社の業務担当社員をも辞して、爾後悠々自適した。
大正13年(1924)、勲一等瑞宝章を授けられ、昭和11年(1936)従二位に叙せられた。
ブラジルに於ける、カーザ・東山の母体となった東山農事株式会社は、岩崎久彌男爵の意を体し、額に汗して大地を培い、土地に深く根ざした生産を営み、土地と共に栄えることを目的として生れた農事会社である。前名の東山とは、岩崎彌太郎氏の号であって、資本金の総てが、岩崎氏個人から支出された。
東山農事株式会社は、主とし外地に事業地をもち、戦前は朝鮮、台湾、馬来(マレー)等に、それぞれ広大な事業地があった。ブラジルに於ける東山の事業は、岩崎久彌男爵の庇護と出資によって、当時東山農事株式会社の専務取締役であった、坂本正治氏が企画創始したものである。
大正15年(1926)、農学士山本喜誉司氏(後に農学博士)と法学士水上不二夫氏は、その前年から留学生として派遣されていた。多賀秀孝氏(東京外語出身)を相手に、サンパウロ市に創立事務所を設け、翌昭和2年(1927)聖州カンピーナス郡に所在する、外人所有の三農場を買収併合して、1千5百アルケーレス(3700Ha)の、カンピーナス東山農場を興した。翌年サントス市にカーザ・東山の名称の許に、珈琲の委託業を開始した。
昭和5年(1930)3月、三菱銀行より君塚慎氏が、東山農事に転身して、ブラジルに駐在するに及んで、その事業は多角的に大いに延びた。しかし日華事変たけなわとなった昭和14年(1939)8月、君塚氏は東山農事本部に帰り、その後水上氏も日本に引揚げて、カーザ・東山の全責任は、山本喜誉司氏の肩にかかった。母国日本は、大東亜戦争に突入し、カーザ・東山の傘下にあった諸事業も、戦争によって中絶の憂目に会い、ブラジルが世に誇るカンピーナスの農場さえも、何時、敵産として没収されるかわからない運命に陥った。しかし山本氏並びにその部下達の、筆舌に尽し難い努力によって、カンピーナス農場を死守し、それ護り通すことによって、カーザ・東山の脈絡が戦後にも続き、今日の発展を来たす素因となったのである。
岩崎氏は、ブラジルへの投資に当り、それを活用する人物の選考に腐心し、当時三菱本社から北支に派遣されて、米棉種による棉花の改良に成功し、既に8ヵ年に亘って北京に駐在していた、山本喜誉司氏に着目した。
山本氏をブラジルに派遣するに際し、岩崎氏は山本氏を膝下に招いて、当時の日本の思想界の現状を説き、自由の天地、ブラジルでの活躍発展を期待する旨を、特に力説したという。
君塚、山本、水上三氏の名コンビで東山の事業は、順調にのび、ピンダ(モニャンガーバ)にも農場を求め、米作にも成功した。カンピーナス農場では、多角経営を企画した。研究心の旺盛な山本氏は、ブラジルで高価に売れる紅茶の栽培を思い立ち、ジャワからアッサム種の紅茶の実を移入しピンダ農場で試作した。昭和12年(1937)には、それが2ヘクタールに及ぶ苗圃に1メートル半位の大きさに立派に育った。紅茶の栽培が成功のきざしをみせて来たのだから、山本氏の得意思うべしであったが、岩崎氏からピシャリと、紅茶栽培は中止すべしとの厳命がもたらされた。
「もともとブラジルは、珈琲の国である。珈琲によってブラジルの経営が成り立って行く。紅茶は、珈琲すなわちブラジルの敵対物である。東山は紅茶を作ってまで、金儲けをしなくてもよい」
というのがその理由で、これには山本氏も一言もなかったという。在留邦人が、強烈なピンガ(火酒)でその健康を害うのをみて、東山が日本酒の醸造を思い立った時である。その名前がいろいろと研究検討せられ、やっと「東麒麟」と「東鳳」に落ちついたが、最初の案は東麒麟と鳳だった。その時も、言葉の語呂が、ブラジルの言葉と、何か支障をきたすことはないかとの、岩崎氏の細心の語意から、鳳の上にも東をつけ、東鳳となったと聞く。
カンピーナス農場が没収を免ぬがれ、東山関係事業の再発足がなされたあと、山本氏は、終戦後初めて日本を訪問した。その無事を一番喜んだのは岩崎氏で、涙をこぼし山本氏の手を握って、戦時中の苦労をねぎらい、身命を賭して、カンピーナス農場を護り通した人々の苦衷を多とした。
「私達の苦労を、本当に買っていて下さったのは、岩崎(久彌)さんでした。それでよいのです。それで私達の苦労が酬いられたというものです」
冷徹な山本喜誉司氏が、涙を浮べてこう語った10年前のこの一言がいまだに筆者の胸に刻まれている。
岩崎久彌氏は、昭和30年(1955)12月2日逝去した。