市毛孝三氏は、二等書記官、一等書記官、総領事と、ブラジルでは三回の勤務をしている。尤もそのうち、一等書記官から総領事に昇進したときは、リオ市からサンパウロ市へ移ったにすぎなかつた。
出身地は、茨城県東茨城郡緑岡村で、明治27年(1894)7月25日生れ。一代の名横綱常陸山は、その叔父さんであった。
一高を終て東大独語科を大正七年(1918)7月に卒え、同年10月領事官補に任ぜられて香港に行った。翌年8月、外交官補に任じられ、以来、ドイツ、スウェーデン、オーストリアなどに歴任し、大正15年(1926)5月、大使館二等書記官になって、ブラジル在勤を命じられた。兼任領事として、昭和5年(1930)までリオにいた。その後、今一度オーストリアに勤務し、昭和8年(1933)11月2日、大使館一等書記官に任じられて、ブラジル勤務となった。生粋の水戸っぽで、随分人附き合が悪かった。訪客と応対するのに、両足を机の上に乗せて、鼻であしらうなどは平気の平左だったので、随分非難をうけたものである。夫人はドイツ人で、マリーさんといった。
昭和9年(1934)8月31日、総領事に任じられ、サンパウロ在勤を命じられた。(前任者の内山岩太郎氏は、リオの参事官に転勤した)
サンパウロでは、日本病院建設案が軌道にのせられて、熱心にその推進が計られていた当時である。
大正13年(1924)2月、斎藤(和)総領事の時代に生れた「同仁会」が、その附帯事業として、病院経営を計画していたのであった。
昭和6年(1931)7月、内山総領事の着任以来、週囲の情勢も手伝ってか、一般在留民は俄然冬眠を破られたように、病院建設に熱をあげて来た。
内山総領事が、自ら発起人となって組織した、「聖市日本病院建設期成同盟会」が最初の試みとして、期成箱百個を各方面へ配布したところ、忽ち六十個を追加されねばならぬような人気であった。昭和7年(1932)6月、サンパウロの、婦人団体水曜会が、病院建設後援の目的で、演芸会を催したところ、たちどころに四十三コントスを集めて、同盟会に寄附をした。
昭和8年(1933)6月18日には、邦人渡伯二十五周年記念祭が催されたが、この日を期してかねて同仁会の理事達が、病院建設用に購入をしておいた、ヴィラ・マリアナ区サンタ・クルス街64番地所在の日本病院敷地で、定礎式を挙行した。内田総領事を初め、サンパウロ市慈善病院長ランジェル・ぺスタ-ナ博士や、日伯両国の諸名士多数が参列の許に、ギド・デル・ト-ロ神父が司祭し、数種のブラジル貨幣および日本病院建設計画に関する記録を納めた壷が、その礎石の中に埋設された。
かくて内山総領事を委員長とする「聖市日本病院建設準備委員会」は、建築および内部諸設備一切を含めて、総経費80万円(当時の伯貨換算額約三千コントス)の予算を発表し、内外の有志に呼びかけた。このことが遠く海を越えて天聴に達し、昭和9年(1934)4月の天長節を期して、金5万円の御下賜金をいただいたことは、ブラジルの在留邦人一同に大きな感激を与えたのであった。
病院建築の計画が、ここまで進んだ時に、その立役者だった内山総領事が、参事官としてリオの大使館に移り、市毛総領事の登場となった。つまり懸命になって、お膳立てをしたのが内山氏で、おもむろに箸をつけたのが市毛氏という次第になる。
建築設計は、市毛時代の昭和10年(1935)1月、再度の検討を経て、ブラジル医学界の第一人者で、サンパウロ医科大学教授ルイス・デ・ブエシュ博士の快諾により、細江医学士および鈴木威建築技師を助手として本格的に着手することになった。同仁会はその財源として、御下賜金5万円、国庫補助金15万円、日本内地寄附金40万円、現地寄附金20万円、合計80万円を目標とし、その設計案並びに予算案は、母国外務省の承認を求めた。他方昭和10年(1935)3月には、サンパウロ日本人倶楽部で、市毛氏及び関係有志総出の会合を開き、資金の募金方法その他に関し熱議の結果「聖市日本病院建設委員会」を組織し、直ちにその貫徹に向って邁進することになった。
この「聖市日本病院建設委員会」の顔触れは、役員として、総裁、澤田節蔵(当時の駐伯大使)、顧問、内山岩太郎(当時の大使館参事官)、会長、市毛孝三(当時のサンパウロ総領事)、中央委員長、梅本徹雄(当時の副領事)、副委員長、宮坂国人(ブラジル拓植組合代表)の諸氏がなり、委員には、中野巌、高岡専太郎氏等三十名が選ばれた。そしてその実行機関としては、リオ、リベーロン・プレット、サントス、及びベレンの各地に地方委員会を設け、地方委員長には上記の土地の領事、副領事がその任に当った。
後、その職責の異動に伴い、総裁には桑島主計大使が、会長には坂根準三総領事が、中央委員長には元公使古谷重綱氏が、副委員長には海外興業伯国支店長宮腰千葉太氏がそれぞれ当った。
一方、母国に於ける寄附金募集は、昭和10年(1935)7月15日、外務大臣広田弘毅氏が音頭取りとなって、各方面の有力者多数を官邸に招待し自らその概要を説明して賛成を求め、外務省亜米利加(アメリカ)局内に「サンパウロ日本病院建設後援会」を組織して、会長に子爵斎藤実氏、副会長に侯爵徳川頼貞氏(後に会長となる)を推薦した。寄附金は所要総額の80万円の中、その半額の40万円を募集することになり、その事務には元総領事の春日廓明氏が主事として当った。
昭和11年(1936)5月、外務省嘱託建築技師坂本新太郎氏が渡伯して、現地側の鈴木技師と協力し、ブエシユ博士の設計案を詳細検討し、適宜補正を加え、実施案が完成した。同年8月1日を以て、愈々建築工事に着手し、翌12年(1937)8月27日に上棟式を挙行した。
市毛総領事は、この進行中に賜暇帰朝を願出していたが、同12年(1937)8月13日附で許可になり、11月9日に帰朝の途についた。
かくて昭和14年(1939)4月20日、ブラジル医学界に於ける外科泰斗でサンパウロ州立医科大学教授べネディット・モンテネグロ博士を院長に迎えて、その就任式を行い、越えて28日の天長佳節に、愈々、「オスピタル・サンタ・クルス(聖十字病院)」と命名した日本病院の落成式が挙行されたのであった。
市毛氏は暁雪と号して俳句をよくし、コロニアの俳句界に重きをなした。市毛氏がサンパウロ総領事に決定した時には、海本徹雄氏が既に日本に帰ることに定っていた。市毛氏はサンパウロのことをよく知っている海本氏に、残って貰いたかったので、リオから海本氏に引きとめの一句を呈した。
秋耕や馬かえてみれば片眼なり
これに感銘した海本氏は、暫く帰朝を延ばしたといわれている。
昭和13年(1938)4月に創刊号を出した雑誌「俳諧」に、市毛暁雪の「ブラジル帰朝報告」が掲載されている。
「移住は手の移住であると同時に、頭の移住である。俳句も昔からあったことは、古い邦字新聞の断片で判るが、移住の基礎は何といっても経済だから、自ら俳句は継続的に行われていた様である。10年前、木村圭石、佐藤念腹両氏の渡伯によって、ブラジルの俳句は新しい時代に入り、今、時を得て、その形をハッキリ整えて来たということが出来る。移り来て三十年、人口二十万、その農業生産は二十億円を超えている現在、これと並んで、精神生活の一面たる俳句界も、賑やかになって来たという訳である」
とは、その文中の一節である。
市毛氏は、昭和12年(1937)12月27日東京に帰着、同14年(1939)6月6日、プラーグ(プラハ)在勤を命じられ、約1ヶ年プラハで勤務の上、昭和15年(1940)11月帰朝し、外務省を引退して、鐘ヶ淵紡績株式会社に入った。日本軍進駐後、フィリピン支店長となって、渡比したが、日本の敗戦と共に、ジャングルに逃れ、病死した。
兎に角に小屋は建ちたり南瓜蒔く
羽子つくを知らで十二となる娘かな
三日月や故国離れて三年経し
咲き誇る菊や日本領事館
馬買って牽いて帰りぬ棉の秋
梢なる木棉鸚鵡の喰い散らす
辞世の句
天心に陽ありてわれにかげなかり