ブラジルにわが総領事館が設置されたのは、明治30年(1897)8月23日であった。独立の庁舎、単独の総領事が、任命されたわけでなく、ペトロポリスのわが公使館の中に、総領事館が併置され、総領事に珍田弁理公使の兼任であった。ところが第五代の畑公使の時から、公使は総領事を兼務しないことになって、大正2年(1913)5月から、一等書記官としてブラジルに勤務していた松村貞雄氏が、総領事兼任となった。そして野田(良治)通訳官が副領事をかねていた。サンパウロ州に於ける、わが移民事業が、次第に繁忙を加え、移民の渡航回数も頻繁になって、その累計人員も1万数千人に達した。居留民の増加につれ、領事館の事務も、繁忙を加えてくる。
リオでは、どうも遠隔すぎて何かと不便を感じるので、サンパウロへの移転を、公使館からも政府へ上申し、政府もその必要を認めていた。しかし予算の関係で、その実現が遷延されていた。ところが大正3年(1914)になって、サンパウロ州政府が、日本移民誘入契約を、破棄したばかりでなく、日本移民に対し、不利な待遇を与えようとする意向を示したので、わが総領事館のサンパウロ移転は、絶対に緊要となって来た。差当っての臨機の処置として、総領事を出張の名義で、サンパウロに定駐せしめることとし、松村氏にサンパウロへ永続出張を命じた。よって松村総領事は、大谷(弥七)書記生を帯同して、同年8月1日、サンパウロ市に出張し、翌2日からアウグスタ街297番地の出張事務所で、ブラジル全国を管轄する、在リオ・デ・ジャネイロ帝国総領事館として、館務の取扱いを開始した。続いて正式にサンパウロ総領事館が開設され、松村氏が初代館長として就職したのは、翌大正4年(1915)7月14日であった。リオ・デ・ジャネイロの帝国総領事館は、名義上18ヶ年間存在したが、サンパウロ総領事館の開館後直ちに閉鎖されたから実質的には同一総領事館が、リオからサンパウロに移転したとみることが出来る。わが移植民及び、一般在留民の数は逐年増加し、ブラジル国内に於ける、邦人発展地域も漸時拡大されたので、サンパウロ総領事館が、ブラジル全国を管轄することが、適当でない情勢となったのに鑑み、一旦閉鎖されたリオ総領事館を、領事館として復活し是れを大使館内に併置したのである。
サンパウロ初代総領事となった松村氏は、明治元年(1868)9月6日生れで高知市の出身である。明治19年(1886)3月から同23年(1890)1月まで、ドイツ語協会学校で、ドイツ語とラテン語を修業し、同年9月、第一高等学校で、学術認定試験を受け、同24(1891)年7月から、和仏法律学校にはいって法律を勉強し、同27年(1894)7月卒業。同30年(1897)9月、外交官領事官試験に合格して外務省に入り、領事官補に任じられて、上海勤務をしたのが、その振り出しであった。大正2年(1913)5月でブラジル公使館一等書記官に任じられ、9月に着任して以来、大正8年(1919)7月サンパウロを出発するまでブラジル在勤は6年間であった。
松村氏はサンパウロに着任して以来、邦人移民の在り方をみて、どうしても日本人を土地所有者にしなければならぬと思った。そのリーダーとして松村氏が嘱目したのが、当時ガタパラ耕地の副支配人をしていた、平野運平氏であった。平野氏を総領事館に招いて、未開のノロエステを、日本人の手によって開墾し、植民地を経営するようにと慫慂した。
松村、平野のコンビで、ノロエステ線カフェランジア駅在(当時はペンナ駅)の開拓が始められたのであるが、新しい植民地開拓に対する経験の不足から、マラリアが猛威をふるい、病魔に倒れる者は、日に夜をつぎ、棺を造るに板なく、棺をかつぐに人なしという惨状を呈し、愛児の死骸を柳行李に入れて埋葬し、夫の死骸を妻が背負って墓地に運んだなど、ブラジルに於ける邦人植民史中、最大の悲話として残るに至った。医薬の購入も思うに委せず、代わる代わる山道を徒歩でペンナ駅まで行き、汽車にのってバウルー駅まで二日がかりで買いに出るという状態で、その窮状を知った松村総領事は、戸田義雄医師を派し、薬品を贈って施療に従事させた。(その戸田医師もマラリアで夫人を喪った)従って土地代の残額支払も不可能となって、平野氏が苦慮しつつありと聞いた松村総領事は、自らの嚢底を払って8コントス(4千円)を送って、急場を救ったという佳話がある。
70余名の人柱を犠牲にして成った平野植民地の在り方は、踵を接して各地に創設された邦人植民地経営上、警鐘となり、教訓となって広漠万里のノロエステ地帯は、邦人活躍の新天地となったのである。
1934年(昭9)、平野植民地開拓20周年記念祭に当り、祖人平野氏の負うた8コントスの旧債を返済すべく、植民者一同で10コントスを集め、在日本の松村菊子未亡人に送ろうとしたが、故人の遺志に非ざれば植民地のために有意義に御使用ありたしとの返信に接し、感激の涙を新たにした植民者は、記念として伯国名産の瑪瑙石を贈り、松村奨学基金を設けて、松村氏の美徳を永久に顕彰することにしたという、美わしい後日譚がある。
短躯ながら太ッ腹で、人間性に富んだ松村総領事は、初期の移民達のいい話し相手として親しまれ、よき後ろ盾として邦人発展の推進力となった。古い移民達(ブラジルではマカコベーリョ「老猿」といわれている)は異口同音に「松村総領事はえらかった。歴代の総領事中松村さん以上の人物はいませんな」とその徳を称えている位である。
松村氏は、大正11年(1922)8月、兼任朝鮮総督府事務官(二等)となったが、翌12年(1923)2月25日逝去した。