前田 光世
前田 光世(まえだ・みつよ)
quarta-feira, 04 de maio de 2011

 外人間に「コンデ・コマ」なる通称を以て、広く知られた前田光世氏は、明治13年(1880)青森県中津軽郡船沢村に生れた。

 早稲田法律学校(早稲田大学の前身)を卒業後、学習院第一高等学校の柔道教師をし、当時、佐村嘉一(原文ママ)、轟祥太両氏と共に、講道館の三羽烏と称せられた逸材であった。

 1904年(明37)、講道館四天王の一人、富田常次郎氏に随行して、北米に渡航した前田六段は、コロンビア、エール、プリンストン各大学の柔道教師として留まること2年。柔道紹介のために、英国、白耳義(ベルギー)、西班牙(スペイン)諸国を歴訪し、中米各国を柔道国として巡業し、一時玖馬(キューバ)に本拠を構えて柔道の宣伝をやった。

 1908年(明41)、メキシコで三千弗(ドル)の賭勝負に勝ち、ここでコンデ・コマ(高麗伯爵)の闘技爵名を授けられたと伝えられている。この年は、日本移民渡伯第一船笠戸丸が、サントスについた年で、丁度今から50年前のことである。

 南米西海岸をまわり、アルゼンチンを経てブラジルに入り、1915年(大4)サントスに上陸した。第一次世界大戦中は、サンパウロ州のカンピーナス、アララクアラ、ウベラーバ等の諸市で、興業試合をやり人気百%、高名噴々たるものがあった。

 北上して、パラー州ベレン市に行き、北米を経て日本に帰ったが、1920年(大9)再びベレン市に来て、ここを永住の地と定めて腰を据えた。

 洋々たる大アマゾン大河の咽喉を扼するベレン市の、親切な市民たちが気に入ったのか、アマゾン大江の魅力に、豪放磊落な氏の気象がピッタリしたのか、当時は同地に邦人の影を見なかったにも拘らず、ここを墳墓の地と定めた前田氏の心境は計るべくもないが、アマゾン流域こそ、将来日本人の繁栄すべき好個の新天地たるに思いを馳せたのも、その一因かと推察するに難くない。柔道指南の傍ら、わが文化の紹介と、北伯に進出する邦人のため、倦まざる斡旋の労をとり、伯人間に信望特に厚く、ベレン市では、民間領事の待遇をうけ、柔道家としてのコンデ・コマの名声以上に、人間前田の価値を発揮したのである。

 アマゾン移民の先達として、尽瘁すること10余年、1941年(昭16)11月28日、ベレン市で病没した。(墓地番号4880号)享年62。

 アマゾン開拓の草創時代、アマゾンに志した幾多の邦人中、かつて一度も前田氏の世話にならなかったという人は、一人もいないというのも過言でない。ブラジルの北の果てについてベレン市はナザレの一角なる前田邸で、思いもよらぬ刺身や日本料理に舌鼓をうちつつ、アマゾンの実情を聞き、州政府との連絡を前田氏に依頼したものであった。

 1929年(昭4)9月7日、アカラ植民地(現トメアスー植民地)に入植した第一回移民が、リオの「花の島」療養所についた時、コンデ・コマとして知られた前田光世氏が、わざわざアマゾンから出迎えに来ていた。この人が、アマゾンにいて、我々の力になって下さるのかと、移民一同、大いに意を強うした由である。現在、アマゾン大江の流域は勤勉なる日本人の手によって、ますます発展の途上にあるが、その基盤をなした前田氏の過去の行跡は、将来共、ますます高く評価されることであろう。

 これより先、大正14年(1925)、農学士蘆沢安平は、外務省嘱託として農業に関する視察調査を目的としてこの地に来た。翌大正15年(1926)には、田付大使並に福原八郎氏を団長とする、アマゾン調査団の一行がやって来た。パラー州開発を希い、前田氏が進んで州政府と彼等の間に立ち、私心を捨てて斡旋せる所大であったと言うので、時の州知事ディオニジオ・べンテス氏は、その功に酬いるため、彼にオウレーン郡グアマー河の左岸に位する、州有未墾地2万6千余ヘクタールを無償下付するコンセッソンを与えた。このコンセッソン契約は、1929年(昭4)4月10日を以て、州政府と前田との間に締結されたが、これは、前記官有地の使用および受益に関するオプソン契約であって、その期間は2年と定められ、1931年(昭6)4月10日を以て満了することとなっていた。

 然るに1930年(昭5)10月、ブラジルの政治革命が成功し、諸般の制度は改革され、パラー州に於いては従来政治上の関係によりコンセッソンを取得していたものは、一応無効若しくは取消しとなったにも拘らず前田氏の分は、特に政府の好意を以て、その契約有効期間の延長を許された。よって前田氏は、昭和6年(1931)、これに酬いる意を含めて土地の測量を行い、拓務省の援助を得て渡伯した山田義雄とはかり、植民者若干名をして開拓に着手させた。一時は相当の成績を挙げたが、その後資金の欠乏その他の理由で、山田は中途その事業を捨ててオウレーン町に出て、昭和15年(1940)には入植者皆無となり、全く放棄の状態に陥った。前田氏としては、折角パラー州の好意に酬いることが出来ず、心残りであったであろう。

 ベレンは、アマゾンの関門である。この関門にあって旧き基盤に立ち希望を収めた彼としては、可能な限りパラー州から利用されることを希っていた。されば、南米拓植会社の代行会社たる「コンパニア・ニッポニカ・デ・プランタソン・ド・ブラジル」の設立がなされると、その取締役となり、後にはアマゾーニア産業会社の相談役を兼ね、さらに拓務省の嘱託に推された。

 パラー州のピメンタ・ド・レイノ(黒胡椒)アマゾーナス州のジュート(黄麻)は、それぞれ邦人の手によって、その真価をみとめられるに至り、アマゾン大江流域の主要生産物となっている。南米拓植とアマゾニア産業の主脳部であった前田氏の苦労が、大きな実を結んだものである。その墳墓の地として選んだアマゾン河に眠る氏の霊もまた、以って瞑ずべきで、滔々として南米大陸を横断する大江、河の王者アマゾンを愛し、そこに邦人発展の捨石となった、彼、前田光世氏の足跡は、その流れと共に永久につきぬであろう。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros