澤柳猛雄
澤柳猛雄
quinta-feira, 05 de abril de 2012

 不老長生薬といわれるグァラナは、アマゾナス州マウエスが、その主産地として有名である。これを日本人の手で栽培加工して、広く世界的に販売して見ようと考えついたのが、大石小作氏であった。

 大石氏は明治43年(1910)、大阪高等工業学校機械科を卒業後、鐘ヶ淵株式会社に入り、技師長まで進んだが、大正12年(1923)に辞職し、自費で欧米諸国を漫遊後、ブラジルにはいって農工業に関する諸般の調査研究をした。

 大正15年(1926)、たまたまアマゾン流域を視察中、福原調査団が到着したので、その一員に加わり調査終了後、単独でアマゾン大江を遡り、アマゾナス州マウエス郡に入って、同地特産のグァラナの栽培を研究し、土地の無償下附についても州政府の意向を探り、一応の了解を得た上で、昭和2年(1927)に帰朝して、この事業を経営する会社の設立を企て、諸方を遊説した。

 これに賛成したのが、澤柳猛雄氏や小川亀重氏等であった。澤柳猛雄氏は、文部大臣などをつとめた。澤柳政太郎氏の従弟で、明治11年(1878)11月東京に生れ、長じて海軍にはいったが、病気のために大正2年(1913)、海軍少佐で退役、後、帝国飛行協会の設立に参画し、大正7年(1918)には渡米している。資本金25万円の「アマゾン興業株式会社」の創立総会が開かれたのは、昭和3年(1928)8月6日で、株主180名、引受株式数7,682株、取締役には、澤柳、小川、大石の3氏、監査役に塚原嘉藤、柏田忠一の両氏が選任された。大石氏はこの総会に先だって、三石久、久保田喜久郎、増田太郎、唐木道雄、羽野鶴雄、尾崎貞吉、石田喜由の七氏をひきいて、5月17日神戸出港のさんとす丸でブラジルに向い、8月23日にマウエスに到着した。同市から約3キロを隔てた、マウエス河右岸に事業部本部を選定し、予め州政府の認可を得て、9月5日から土着労働者を使役して、附近の森林5百ヘクタールの伐採と山焼をした。これがアマゾナス州で日本人が斧を揮った最初で、整地を急ぎ11月23日までに、グァラナ4万5千株を植付けた。

 大石氏は、州の首都マナウス市に出向き、10月20日を期して州政府との間に、州有地2万5千ヘクタールの、コンセッソンに関する契約を締結した。当時は、日本とマウエスの間に、直接電信発受の連絡がなかったので、大石氏は会社設立の通知にも接しておらず、大石一個人の名義で、この契約に調印した。

 この契約調印後、約1ヵ月を経た11月17日に、大石氏はマナウスの連邦農事監督官事務所で、事業地本部をサレシと呼称するように公然の手続を履行した。この地名は、当時のアマゾナス州知事エフィジェニオ・デ・サレス氏の姓と、日本語の市とを組合わせたものであった。

 事務所、診療所、倉庫、植民地假宿泊所は、マンジョッカ加工場等が次々に建設された。最初の開墾地百五ヘクタールは、これ等施設物の敷地に連接する会社の直営農場となし、植民に分譲する土地は、更に上流約3キロの地点から始められた。

 この植民地へ、第一回植民を送るに先だち、澤柳専務取締役は、鈴木茂、松本武彦の両氏の外、大石小作氏夫人と、永井よしえさんを同伴して、昭和3年(1928)11月15日、日本を発ち、翌年2月現地に到着し、事業上の視察を行った後、アマゾン大江を遡行して、ペルー国のイキトスを視察した。再び大江を下ってパラー州、サンパウロ州を一巡し、シベリアを経由して帰朝した。澤柳氏はアマゾニア州滞在中、かつてボリビア領アマゾニアに在住し、当時マナウス市郊外で、蔬菜栽培に従事していた。山根武一氏を事業地に入植させ、また昭和4年(1929)9月には、パラー州の南米拓植株式会社から、樫村正之氏を招いて、医療に当らせた。

 アマゾン興業株式会社の一特徴は、他日その家族と共に、アマゾニアに植民しようとの、希望を抱くものを株主としたことで、一株を25円とし、20株(500円)以上を出資した株主には、会社の事業着手2ヵ年後に、コンセッション地域内で、15ヘクタールの地区を、無償提供する定めになっていた。

 第一回植民7家族は、昭和4年(1929)10月27日のさんとす丸で神戸を出発、リオを経て通計68日を費して、翌5年(1930)1月2日、現地に安着した。ところが、時あたかも雨期に際会し、次の乾燥期までの半年間いろいろの苦労も多かったので、植民者の中には不平を訴えるものあり、且つ現地に資金が欠乏し、大石氏からはしきりに電信で、送金を促したが、東京の本社にも資金の余裕がなく、大石氏から以前の経費支出に対する、何等の報告書も着かないというので、中々送金せず、遂に、大石氏が辞職を申出たので、会社も仕方なくこれを受理し、現地社員三石久氏を、大石氏の後任とした。大石氏はマウエス市の対岸に購入した、自己の耕地に退いて、自費の生涯にはいり、今日に至っている。

 澤柳氏は、第二回の植民12家族66名と共に、さんとす丸で昭和5年(1930)5月14日神戸を出発して、同年7月22日、現地に到着した、若干日現地に留まったが、その間、大石氏を訪問して懇談の末、双方とも過去の紛糾には言及せず、将来共に、アマゾニア州に於ける邦人の発展のために、相提携することを約した。しかし澤柳氏を主体とした、アマゾン興業株式会社も、資金の欠乏に加え、現地に事業経営の中心人物を得られなかったために破綻を生じ、入植者中にも折角開拓した土地を見捨てて、他に移動するもの多く、昭和15年(1940)3月アマゾニア産業株式会社に合併されるに至った。

 アマゾンに於ける雄図空しく破れた澤柳氏には、その後、日本写声蓄音機合資会社を設立して、その代表社員として活躍した。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros