白鳥尭助氏は、元日本銀行の行員であった。日露戦役に応召し、陸軍中尉として満州に出征、戦闘に参加したが、病を得て帰国した。ようやく健康を回復した大正2年(1913)3月、伯剌西爾(ブラジル)拓植株式会社が創立されたので、入社して本店の事務長となった。
大正6年(1917)6月、シアトル丸でブラジルに渡り、イグアペ植民地の所長となった。大正6年(1917)11月、伯剌西爾拓植株式会社は海外興業株式会社と合併したので、その籍も海興に移った。
白鳥氏は極めて謹厳かつ温厚な紳士で、土地のブラジル人ともよくつき合ったので、内外人の間に頗る評判がよかった。
大正13年(1924)に、結婚のために一旦帰国し、結婚後同年5月、新夫人と共に、大毎移民を運んだ商船かなだ丸の移民監督として、再びブラジルに渡った。
元来あまり頑健なたちでなかったので、そのためか結婚もおくれ、晩婚であった。
白鳥氏はイグアペ植民地の所長として、長くレジストロに住んでいたが、酒も煙草もたしなまなかった。フルッタ・デ・コンデ(果物の名前)が大好きで、公舎の周囲に、数多くの果樹を栽培した。
乗馬が好きで、また上手だった。一週間の大半を、乗馬ズボンですごし、植民地内の見廻りもほとんど乗馬か、馬車であった。
容姿端正な白鳥氏が、白馬を駆って行く様は、真に貴族の面影があって、内外人を瞠目させたと伝えられている。
昭和5年(1930)、竹澤太一の後を受けて、海外興業株式会社のサンパウロ支店長となり、昭和8年(1933)までその職にあったが、その間、第八代目の同仁会理事長もつとめ、邦人社会に稗益(ひえき)した。
病を得て帰国の途中、ニューオーリンズ沖の船中で、昭和9年(1934)10月15日逝去した。
非常に清廉の人であったが、狭量でなく、他の過失や失敗を、身を以てかばうという侠気もあって評判のいい人であった。
病気療養中だったにも拘らず、何故か急遽帰朝を命ぜられて、病を推して乗船し、その死を早めたと伝えられている。
享年58才。