下元健吉氏は、1957年(昭32)9月25日午後1時30分、彼が心魂を傾けてその運営に当ってきた、コチア産業組合の理事室で、突如、劇的な最後を遂げた。享年60才。
翌26日、生前愛好していた白い蘭の花に埋もれた氏の遺骸は、組合葬によって葬儀が執行された。ブラジル政府、州政府、日本政府の各代表をはじめ、内外人の会葬者1万。この事実は、いかに下元氏が多くの人に親しまれ、かつ尊敬されていたかを証するもので、まこと、巨木倒るの感に堪えざるものがあったのである。
氏の生前の功績により、日本政府は勲五等に叙し、双光旭日章を贈りブラジル政府は、国家功労賞を追贈し、サンパウロ市は、市内の大通りをKenkiti Shimomotoと命名、その功績を永久に記念することとなった。一介の移民として渡伯した日本人の克ち得た、最も輝かしい、栄誉というべきである。彼の生涯は、即ちコチア産業組合30年の歴史であり、組合を離れて下元なく、下元を語らずして組合史なしというその偉大なる業績にふさわしい褒賞であったのである。
氏は、明治30年(1897)10月24日、高知県高岡郡米山村字白石に、父左右馬、母きよの第三子として生れた。16才の時(大正3年【1914】)帝国丸で、実兄亮太郎一家と渡伯。ソロカバナ線ピラジュー駅ボア・ヴィスタ耕地でコロノ生活1農年、翌年9月、サンパウロ市郊外コチア郡モインニョ・ヴェーリョにつくられつつあった、所謂コチア村に入植した。
コチア村には、当初邦人4家族が入って、バタタ(馬鈴薯)栽培をやっていたが、次第に増加して、50家族程の部落となった。生産したバタタの販売に当っては、常に町の商人達の悪辣な搾取の犠牲となっていたので、これに対抗する自衛手段として、共同販売を行う組合を結成しようとの気運が醸成され、1927年(昭2)12月11日、出資金290コントス、83名の組合員による「有限責任コチア・バタタ生産者組合」が誕生した。
1925年(大14)、訪日してきのえ夫人と結婚したが、その際、日本の農村で盛になりつつあった産業組合を見聞して、大いに得る所があり、再渡伯後、サンパウロ総領事館から産業組合結成について呼かけられたので、これに応じ、その創立に挺身、わずか29才の若冠ながら、この組合の初代理事長に推された。(1932年、組合法が発布されたので登録して、コチア産業組合と改称した)
創立当初は、組合理論も不徹底のため、相互の意見の対立も起り、幾度か崩壊の危機に瀕したが、協同組合主義による団結こそ組合の生きる道であると主張しつづけた下元氏の努力によって、幾度かの難関を切抜け、また資金不足で経営困難となるや、私財を担保として組合に融資の途をひらくなど、物心両面に於いて献身した。
1929年(昭4)の世界的経済恐慌時代を切抜け、組合の基礎はようやく固まったが、その活動をはばまれた市場のバタタ商人等は、組合を敵視し、遂に不買同盟を結んで、一挙に組合の崩壊を策した。下元氏は、数百家族の生産物を賭けたこの挑戦に対し、全組合員に出荷停止を指令し、夜を徹して東奔西走、動揺しがちな組合員の結束を固めつつ、完全な出荷統制を敢行し、遂に商人側の謝罪によって、堂々勝利を収めた。
下元氏のこの英断がなかったら、組合のその後の発展上、非常なる障害を来たしたもので、この事件は、ブラジルの産業組合史上からいっても、特筆すべき出来事であった。
かくして組合は更にその堅実性を加えたが、将来を洞察した下元氏の意見によって、従来の経営方針を改め、バタタ以外の蔬菜、果実、鶏卵等多角的な生産物取扱等を順次採用して、組合経営の安定性を確保すると共に、生産物を異にする農業者をも組合に包含した。創立当時の83名の組合員は、1958年3月現在では、6千名に垂んとし(原文ママ)、1928-29年度の総事業分量67万9千クルゼイロスは、1957-58年度に於いては、45億725万クルゼイロスに達するに至った。
その事業範囲は、サンパウロ州よりその隣接諸州に及び、生産物の輸出、肥料、農機具、種子等の直輸入をするなど、名実共に南米一の産業組合にまで、発展するに至ったのである。
一つの組織体である組合は、組合員の協力によってのみその大をなすもので、その発展も一個人の下元氏の力によるものでないことは明白なことであるが、集団の利益を無視して、個人的な利益を追求し勝ちな組合員に対し、諄々として組合精神を説き、時に卓を叩いてその誤りを指摘し、あるいは、一部野心家の煽動による離反運動を抑圧してきた下元氏の力は、実に大きかった。小にしては小農業者の苦悩を自らの苦悩として共に泣き、大にしては明日の伯国農界の発展という大局的な立場から、組合事業の伸展に超人的な熱意を示した氏の存在は、恰も鉄骨のごとく、巌として組合を支えて来たのである。
巷間「コチアの下元か、下元のコチアか」と、称されるに至ったのも故なしとしないのである。
彼の視野の広さと、精力的な活動は、単に組合そのものの事業のみに止らず、広くコロニア社会全般の喜憂に意を致す所があったが、戦後コロニアの思想混乱期に、認識運動に率先したこともその一例で、コチアの下元は、終戦を境としてコロニアの下元となった観がある。
技術者の派遣、農村青年の指導その他に、組合の経費を割いたことは、下元氏の、コロニア、特に農村に対する愛情の表れであった。
1956年(昭31)3月の母国訪問によって、思想的にも、各段の巾と広さを有するに至った氏は、まず、日本農村の二男、三男問題の緩和策として、コチア産業組合の単独青年移民1,500名の、呼び寄せを計画し、実行にうつした。1957年4月、コチア農業組合は、創立30周年を記念して、内国農産展を開催、その開場式に、クビチェック伯国大統領代理としてメネゲッテ農相を迎える光栄を得、5日間の会期中に於いて30万という未曾有の入場者があったことは、名実共に南米一を誇るコチア産業組合の存在を天下に示したものであった。
又1957年(昭32)10月27日、創立総会が開催された産業開発青年隊の現地受入機関たる「サンパウロ州農業拓植協同組合中央会」は、下元氏がその主たる発起人であった。
「移植民事業は、送出国よりも受入国に一層重大な関係がある。受入方法が拙かったり、渡来した移民が迷ったり、落着きを失ったりすると移民個人の不幸はいうまでもなく、受入国家にも迷惑を及ぼし、その国の社会問題となって非難をうける事にもなる。日本移民五十周年を迎えたコロニアは、各方面に偉大な成果を遂げたのでありますが、吾々が歩んだ苦い体験と尊い経験を、後来移民のために提供し、これを善導して定住せしめることは、同胞愛ともなり、祖国愛ともなり、ひいては当ブラジル国家のためにもなることであります。コロニア在住の先輩有志の物心両面の義侠的な御協力によって、後来移民のための組合を設立せんとするものであります」とは下元氏がコロニアに呼びかけた「お願いの言葉」で、日本移民の将来と、ブラジルの農業発展の堡塁たらんとする大きな夢を賭けた、この農拓協を結成すべく、下元氏は、刻々悪化する病徴を自覚しつつ、昼夜奔走しつづけたもので、その創立総会を明日に控えて物故したのは、奇しき運命であったといえよう。
個人としての下元氏は、非常に責任感の強い人であり、自信があるだけ鼻っぱしらが強かったが、よく部下の面倒を見、余儀なく組合を退職させられる場合でも、裏に廻って面倒を見るという有情の人で「われらの親父」として、組合の内外から慕われていた。
彼の急逝を聞いて驚き悲しんだものは、コチアの産業組合員ばかりでなく、むしろ利害関係の全くない、一般コロニア人の方が多かったことは、彼がコロニア全般のために、その翼を拡げていたからで、まこと徳は孤ならずの感が深いのである。