鮫島直哉氏は、鹿児島県川辺郡東加世田の出身で、大原栄蔵氏と郷土を同じくする。故人大原栄蔵もそうであったが、鹿児島県人は総じて口数のすくない実践型で、しかも守銭奴タイプの人を見ない。上役だと云うて出世のためのオベッカなども言わないし、目下のものだとて威張る訳でなし、それでいて為すべきことはなし、出すべき所には云われずとも出す、これは鹿児島県人気質として伝統的なものであろうか。とにかく、すこぶる個性的である。
鮫島直哉氏の性格も、正に寸分たがわざるこの型であった。彼は青年大工として独身で渡伯した、第一回笠戸丸移民であった。迷う所なく一貫して大工職、大工職から建設請負業と50年の歳月を、サンパウロ市の外に一歩も出ず、サンパウロ市と共に生長し発展して来た。明治45年(1912)に、辻栄助氏三女いとさんと結婚し、その間に5人の男の子をもうけたが、いずれも立派に育てあげた。それだけでも、労苦多くして恵まれざりし第一回移民としては、特筆に値するであろうが、彼はその上、有形無形に幾多の功績を残した。即ち移民の混乱期に、耕地を逃亡して出て来た邦人に、仕事を探して与えたり、あるいは金を与えて救済したり、はては折角の貯蓄も朋輩知友に根こそぎ借り倒されるという風であった。
彼が真剣に考えたのは、二世教育と同胞の保健衛生問題で、それは彼の財政が漸く安定した大正8年(1919)頃からのことであった。宮崎信造氏の創始した大正小学校が、今日の基礎を築き得たのは、実に鮫島直哉氏がいたければこそと考えられ、また衛生面では、1924年(大13)、日本人同仁会の設立と共に永く理事に歴任し、現在のサンタ・クルス病院の如きも、その敷地選定から完成まで、黙々として倦まず下積みの役を勤めた。彼は、1955年(昭30) 2月4日病歿したが、病院を愛した。献身的行為には流石に内外人社会もこれに何んとか酬いずには居られなかったであろう。病歿の年の4月23日、同病院内につくられた鮫島氏のプラッカ(プレート)の除幕式があつた。この表彰標には「ブラジルの日本人先駆者、サンタ・クルス病院建設委員、サンタ・クルス慈善会理事、病院のよき協力者」と銘刻されている。
歳月は永遠に流れ流れて已まぬであろう。而して人類は限りなく善悪浮沈を繰り返すであろう。されど魂は不変であり、善なる行為と真実は共に不滅である。
【付記】 鮫島氏は、第6師団管轄、鹿児島の歩兵第45連隊付として日露戦争に出征した。銃剣術教官として在営期間を延長し、一年志願兵を訓練した。除隊後24才の時渡伯し建設業に従事した。