移民初期の人々は、サンパウロ市コンデ・デ・サルゼーダス街49番地を御存知であろう。即ち邦人最古の宿屋で、上地彌蔵夫妻の経営であった。
上地氏は、明治6年(1873)2月8日、父喜八の八男、和歌山県西牟婁郡潮岬村に生れた。明治25(1892)年豪州にわたり、真珠採取業や漁業等に従事すること20年、生活の基礎も築いていたが、たまたま、この国に於ける亜細亜(アジア)人排斥の立法化に痛憤し、明治45年(1912)、日本に引きあげた。しかし一度海外の空気にふれた彼等夫妻は、永く狭隘な郷土に止ることが出来ず、南米ブラジルに志し、大正2年(1913)8月、自由渡航者としてフランス・マルセーユ経由で着伯した。
当時、サンパウロ州内の奥地珈琲園に配耕されていた日本移民は、すでに1万を越え、大正5,6年(1916-17)の頃はコンデ街にも相当数耕地から出てきた同胞が出入りしていた。従って之等の人々のために、心おきなく宿れる旅館が必要となっていた。上地は曾て豪州に居た頃、料理人をやった経験もあり、前記49番地に旅館を開業することとなった。手狭な所から、1920年すぐ近くのボニータ街11に引き移り、爾来(じらい)賑々しく営業を続けていたが、昭和7年(1932)不幸夫人病没 、夫妻は実子がなかったので、老齢の上地一人ではどうにもならず、遂に翌8年(1933)、過去17年間在伯同胞に親しまれたこの上地旅館は、閉業の余儀なきに至った。その後、上地氏は郊外に移り、野菜作りなどし独り淋しく暮らしていたが、終戦後病を得て、気の毒にも恵まれざる波瀾の生涯を閉じた。
故人となった上地夫妻に、コロニアの名に於いて感謝する所以(ゆえん)は、邦人最古の旅館経営であったからではない。17年の永い間、旅館とは言いながら、営利を度外視し、ひたすら、蔭の人として邦人のために尽したからである。移民の混乱期に於いては、当然経済の貧困に由来する、いろいろな悲惨な出来事や、時には、何んとかしてやったら、将来のためにもなろうと思われることに出会う。しかし、誰しも自分が可愛いので、意はあっても敢て顧みるものがない。その点上地夫妻は、かつて豪州にあり、白人種のために圧迫された、民族的な寂寥感と憤激を体験している。もちろん、夫妻の性格にもよろうが、こうした感情の昇華も手伝って、自然営利を忘れた旅館経営ともなったのであろう。
上地旅館で鋤焼(すきやき)をつついていた瀧澤仁三郎と村上虎次郎が、口論の挙句、大立廻わりを始めたので、上地氏が仲裁に入った所、同席の松村総領事が「瀧澤と村上の喧嘩に、上地が出る幕じゃねェ」とこれも一杯気嫌で、上地氏を引っ叩いた。これがコンデ街の住人達の問題となり、上地を侮辱した話だ、総領事が何だ、松村が指をついて謝まらなきゃ勘弁出来ぬと、皆で総領事官邸に押しかけるという騒ぎとなり、遂に松村総領事が多羅間書記生を代理によこして、その非を謝してようやく事なき得たという昔話もある位、上地氏は下町の人気者であった。
とにかく、当時の錚々たるブラジル浪人達や、領事館、海興の若い連中から総領事に至るまでが、上地旅館で飲んだり、食ったり、集会をやったり、賑やかなものであった。
後の日伯社長三浦鑿、モジ産組の渡邊孝、領事の古関富彌、瀧澤仁三郎、村上虎次郎などが常連であった。これ等の独身浪人中には恐らく1年も2年も宿銭を払わずじまいの者があったに相違ない。それでも上地夫妻はいやな顔一つせず、「今に見て居なさい、あの人達はキッと一仕事しますよ」と笑っていた、村上虎次郎氏の如きは、上地がボニータ街に引き移ってからであったが、永く患い、遂にこの旅館で息を引きとった。上地氏も酒のいける口で、酔えば下手な唄を歌って喜んでいたという。宿賃が並で1ミル5百レース、上で(階上に泊り、食事は一皿だけ料理が殖える)2ミルという時代で、現在の一泊2百ミルだ、3百ミルだに比べると、隔世の感がある。
後年、上地夫妻に世話になった多くの人々が「うどん会」なるものを作り、感謝の意味で、毎月上地旅館で一杯やるならわしとした。上地老夫妻は余程うれしかったと見え、会費に倍する御馳走をし、これを唯一の楽しみとして一同をもてなした。当時は既にサンパウロ市の邦人人口も増加し、上地旅館に勝る幾軒かの日本人旅館が出現したけれど、上地旅館の閉業まで、ここを本陣として他に動かなかった知名の人々も相当あった。情誼が宿替えを許さなかったのであろう。
俳優のみでは芝居は出来ない。楽屋にも道具立てにもそれぞれ立派な人々が要る、それと同じく、移民史でも、舞台で見えを切る俳優のみが今日のコロニアを作りあげたのではない。実に上地夫妻の如き、いわば奈落で舞台を動かす、多くの隠れた人々がいて、コロニア五十年の輝やかしい歴史が生れたのである。