アリアンサ移住地を発祥させた、信濃海外協会は、大正10年(1921)、永田稠、輪湖俊午郎、宮下琢磨三氏企画によって、小川平吉(国務院総裁)今井五介(貴族院議員)岡田忠彦(県知事)笠原忠造(県会議長)佐藤寅太郎(信濃教育会長)の五氏が、発起人となって大正11年(1922)1月29日創立をみた。この協会創立に対しては、今井五介氏が財政的支援を与えている。
協会発足後、永田、輪湖の両氏は、その事業として、県下有志の寄附によって20万円を集め、ブラジルに土地5千ヘクタールを購入して移住地を作り、まず自作農移民2百家族を送る計画をたてた。一家族が25ヘクタールを所有すれば、2百家族で5千ヘクタールを要し、これが産業、教育、衛生等の施設ないし経済的自立の観点からしても、最小限とみなされたからである。
この計画案を受けとった、信濃海外協会総裁の岡田知事は、寄附金募集の容易でないことを悟って、その案を引出しに放り込んだまま、眠らせておいた。次の本間知事は、中々積極的な人物だったので、これの実現を決意し、大正12年(1923)5月13日に開催された協会の総会に、役員をはじめ各郡長や市長を召集して、ブラジル移住地建設の重大宣言をなし、直ちに実行に移ることになったが、まず5万円という当時の大金を投げ出したのが、片倉兼太郎翁であった。この5万円が当時のバウルー領事の多羅間鉄輔氏に電送されて、土地購入資金に充てられた。
一方ブラジルにあっては、イグアペ植民地にいた輪湖俊午郎氏が、ノロエステ鉄道沿線に移って、土地の調査選定に奔走し、北原地価造氏が珈琲栽培並びに経営の予備知識修得に専念した。大正13年(1924)8月、移住地決定にブラジルを訪れた、協会幹事の永田稠氏は、多羅間領事、輪湖、北原氏と共に、土地の実地検分を行い、第一アリアンサ移住地5千5百ヘクタールを選定した。
ところが本部では20万円の募金に難渋し、5万円しか送金出来ぬから、5万円で買えるだけの移住地に縮小すべしと言ってきた。5万円で買える土地といえば、計画の約3分の1である。それでは中途半端で、将来の発展に影響するというので、現地に於て計画通りのものを3年賦で契約した。しかし開墾費、その他の運営費が入用なので、現地からは2万円の送金を本部に依頼した。しかし片倉氏の5万円以外には、一文の金も集まっていなかったので、本部にも金がなくて送金が出来なかった。しかもこの肝心の時に、またまた知事が異動して、本間氏の後任に、梅谷光貞氏が着任した。
梅谷氏はブラジルの原始林を前に、立往生している永田氏の苦哀のわかる男であった。県内務部長を招き、「国家百年の計に一身を捧げて万里の外に使しているものを見殺しにしては日本の恥だ。どんな金でもよろしい。永田に送りなさい。後はこの梅谷が責任をとります」といって、結核予防協会の金2万円を永田氏に送った。かくてアリアンサ移住地は、今井、片倉両翁の志によって生れ、開墾は梅谷知事の任務によって推進した。大正13年(1924)11月20日、大工、其他数名を引連れて、ノロエステ線ルッサンビラ駅から、37キロも離れた原始林の真っ只中に露営して、開拓の小屋をきずいていた北原夫妻が、翌大正14年(1925)8月、先発移民として入植した小川、鈴木、上條、篠原の4家族を迎えた時の感慨は、まことに察するに余りありである。
アリアンサ移住地には、所謂銀ブラ移民と陰口をきかれた、有識者を交えた移住者が続々入植し、3年には(原文ママ)、この原始林地帯に1千人内外の邦人が定着した。しかし、植民地が立派に形成され、発展するには多くの苦労と、歳月が必要である。アリアンサも不可抗的な経済事情に妨げられ、混乱に混乱を極めたのが、昭和5,6年(1930-31)頃で、移住地建設後6,7年のことだった。
一方、昭和2年(1927)8月1日を以て誕生した、海外移住組合連合会は、発足と同時に理事長には元ブラジル駐在大使田付七太氏を推し、専務理事には元長野県知事の梅谷光貞氏が就任した。梅谷氏は同年10月24日、日本を出発して同12月10日、ブラジルに到着し、サンパウロ市のリベロ・バダロー街に連合会出張所を開設して、移住地の選定および購入に当った。まず信濃海外協会の理事として、アリアンサを主宰していた輪湖氏を連れてきて、企画の枢機に参与させる外、ブラジル人弁護士カルロス・モライス・アンドラーデ、公認翻訳人杉山英雄の両氏を法律顧問とし、さらに在サンパウロ総領事館移民部嘱託畑中仙次郎氏ならびに、同仁会衛生測量技師古関徳彌氏を簡抜して、ひたすら土地の踏査および選定の実際に当らせた。また武石潜蔵氏を書記とし、イグアペ植民地を創設した斯界の権威、青柳郁太郎氏を顧問に嘱託して、日本からブラジルに招いた。
梅谷氏は、昭和6年(1931)2月の任期満了までの4年間、ブラジルに前後18ヵ月滞在したが、その内旅行に費された日数は、通計281日で、その推定距離は7万2千キロに及び、これに日本との往復二回の里程を合算すると、実に10数万キロに相当する。しかも2回にわたるミナス・ジェライス州リオ・ドーセ流域、およびその支流サスイー・グランデ踏査の如きは、並々ならぬ冒険であった。或る時は、発熱40度に近い身を丸太舟に横たえた。また或る時は蚊と蚤に攻められて、茅屋に夜を明すなど、その苦労は筆舌に尽し難いものがあった。かくの如くして挺身調査に当って買収した土地は、
1、 ソロカバナ線バストス、3万ヘクタール。
2、 ノロエステ線アリアンサ隣接地合計3千3百ヘクタール。
3、 ノロエステ線チエテ、11万7千ヘクタール(パラナ河に沿う飛地2口を除く)
の三地帯で、その面積は合計約15万ヘクタールに達した。
この外パラナ州北部に購入予定の地3万ヘクタール。アリアンサ隣接地に7千ヘクタール、更にミナス・ジェライス州官有地払下げ12万5千ヘクタール交渉を進めた。その中、パラナ州北部のトレス・バラスとアリアンサ隣接地は梅谷専務理事によって買収されたが、ミナス・ジェライス州のコンセッションは、次期の平野理事長時代に、移民事情が困難だというので、打ち切られたから、現在の「ブラ拓」移住地と称するものは、全部田付理事長時代に、梅谷氏の手によって、基礎づけられたものというべきであろう。
梅谷氏は前記のように、移住地をチエテ、バストスと共に、アリアンサの隣接地をも選定しているが、それはアリアンサの窮状を傍観するにしのびず、救済策として4移住組合の統一を目論見、そのために敢てアリアンサの隣接地を新規に購入してこれに備え、或いはまた予算にない融資を独断で計るなど、実に人生意気に感じての義心任侠は、アリアンサ全移住者の、肝に銘じたところであった。
また梅谷氏は、現地からその体験に基いて、連合会代行機関の設立各県組合の直接経営を改め、ブラジルの法規に基いた代行機関をして統一管理に当らせること、移住地は府県別による区画を設けず、土地分譲は上記代行機関に於いて、各県組合員に対して直接これを行い、入植は到着順によって土地の割当をなすこと、そして各府県組合は、これを国内的のものに止めると共に、組合の設立を速やかに普遍化し、1組合2百家族制の撤廃、1ヵ年8組合ずつ増設の方針を捨てて、全国の移住希望者の需めに応じること、入植者は、日本内地から直来する組合関係者のみに限らず、広くブラジル在住邦人をも混え、場合によってはブラジル人その他の外国人にも門戸を開放して、ブラジルの国情に添うことを主張し、速やかにこの決定実現を促した。連合会は、この提案を是認しつつも、四圍の事情に制され、逡巡していた。梅谷氏はチエテ、バストスの土地購入を機として急遽帰朝し、時の駐伯大使有吉明氏、サンパウロ総領事赤松祐之氏等の、強い支持によって、昭和3年(1928)10月末ようやく意見の一致をみ、同12月26日第五回総会で、連合会への承認を得るに至った。昭和4年(1929)1月、連合会の代行機関として「有限責任ブラジル拓殖組合」を設立することが決定し、梅谷氏は直ちに欧州経由再びブラジルに出張して、上記に関する正規の手続を履み、同年3月25日、「ブラ拓」が成立した。
梅谷氏は又、日本の移住地を南米諸国に分散させろ、との主張をもっていた。パラグアイ移住地の構想として、フオーセ・フアサルデイ会社(原文ママ)の提供する43万ヘクタール、鉄道七十キロ、製材所、家畜等を購入、10年に5千戸の移住を計画したが、移住組合連合会長平生釟三郎氏に「貴殿には、パラグアイ国に出張は命じていない。パラグアイ計画は貴殿一個人の計画と考えてもらいたい」と一蹴され、梅谷氏は海外移住組合専務理事としての辞表を叩きつけてやめてしまった。終戦後のパラグアイ移住ブームを思うとき、30余年前、すでに梅谷氏がこれに目をつけていたことが、今更の如く想起されるのである。
東京の中央亭の一室に、時の小磯陸軍次官、永田軍務局長、今井五介、永田稠の4人が会合した。話題は満州移民のこと。次官「じゃ満州移民をやると決めるか」軍務局長「中心人物は誰にしたらよいか」。今井さんが白髯をしごきながら「梅さんかな」と答えた。1ヵ月たたないうちに、梅谷さんは陸軍少将待遇で渡満した。小磯関東軍参謀長の肝煎で満鉄から5百万円の借款が成り、満州移民用地4百万町歩を購入することができた。梅谷氏は、ブラジルに満州に、日本人の海外発展を計画し、これを実践するという大きな事業に殉じた功労者であった。