山科禮蔵氏は、元治元年(1864)1月14日に広島県で生れた。広島の遷喬社で英学を勉強し、桜南社で漢学を学んだ。
明治17年(1884)上京して、吉備商会及び海事工業所を設立し、築港や架橋の仕事に携り、さらにまた手をのばして、遭難船の救助や引揚等の業務にも従事した。そして資力の増強に伴い、おのずから地位も向上していった。同時に政治にも進出し、明治35年(1902)には衆議院議員に当選した。
その後、東京商業会議所副会頭から会頭となり、南米土地株式会社々長、日本海事工業株式会社取締役、山下汽船監査役等を歴任した。
大正11年(1922)ブラジルで独立百年祭が挙行されると、わが国は祝賀のため、「浅間」「磐手」「出雲」の3艦から成る、練習艦隊を司令官谷口海軍中将に引率させて、はるばるブラジルに派遣したが、さらに日本はブラジルが主催する、独立百年記念万国博覧会に参加し、日本館を建設して、日本商品を出品する以外に、東京商業会議所会頭山科禮蔵氏を団長とする南米実業視察団を組織し、ブラジルを訪問させて祝意を表した。
南米視察実業団
全国商業会議所連合会
東京商業会議所代表 団長 山 科 禮 蔵
海外興業株式会社代表 青 柳 郁太郎
南米企業組合 山 本 直 良
三菱合資会社 八 巻 連 三
三井合名会社 野 守 廣
日木郵船株式会社 川 口 留 吉
大阪商船株式会社 松 原 季久郎
横浜正金銀行 津 山 英 吉
株式会社鈴木商店 柏 萬次郎
東洋拓殖株式会社 谷 口 浩
日本貿易株式会社 神 谷 忠 雄
第十九銀行(上田市) 黒 澤 利 重
片倉製絲紡績株式会社 片 倉 兼太郎
同 右 土 橋 源 蔵
大日本紡績連合会 岩 城 重喜知
横浜商業会議所 加 藤 平太郎
京都商業会議所 奥 村 安太郎
三井物産株式会社 根 尾 克 巳
東洋汽船株式会社 太 田 長 三
農商務省 野 間 誉 雄
同 間 部 彰
以上随員(別に3名あり)
東京商業会議所書記 古 川 大 斧
片倉製絲紡績株式会社 有 賀 文 雄
この実業視察団は一行26名にも上り、しかも各事業界代表の集りであったが、山科氏はその団長の任を全うした。
山科氏のブラジルに対する功績は、親善の視察団の団長をつとめた以外に南米土地株式会社々長として、北パラナの土地に投資をしたことであろう。現在北パラナは、邦人の定着によって、発展に次ぐ発展を遂げたが、30余年の昔、山科禮蔵、今井五介の両氏をはじめ、日本の金持ち連中が、大いにブラジルに関心をもち、時のサンパウロ総領事赤松祐之氏に委任し、2千コントス(邦貨約60万円)で、バルボーザ耕主から2万5千ヘクタールの土地を購入したが、それが後に大きく物を言うことになったのである。山科氏等が赤松総領事に委任して土地を買ったのは、大正15年(1926)11月のことで、南米土地株式会社というものを設立した。
この土地は現在、ピリアニト植民地と称され、北パラナでも最も地味の豊沃な、純テーラ・ロッシャ地帯である。
山科氏等が購入した頃は、汽車もようく(原文ママ)カンパラまでしか通じておらず、それから100キロも奥のこの地帯は、もちろん原始林真っ只中であったが、赤松総領事が自動車で乗り込み、現場を視察するや否や、帰りには既に購入を取り纏めたというほどの、手っ取り早さであったが、そのお蔭で北パラナの一等地が邦人の掌中に帰したのである。珈琲地帯としてのパラナ州の真価が認められ、1932年(昭7)から、在伯農業者はパラナへ、パラナへと南下し、豊沃な地域はその地価が逐日上昇するという北パラナ時代を現出するに至った。
昭和13年(1938)5月4日に至って、南米土地株式会社の伯国代表であった、海外興業株式会社支店長中野巌氏と、日伯産業会社代表の矢崎節夫氏との間に契約が成立し、矢崎氏が主任となって、同年6月からこの土地の売り出しが開始された。パラナ鉄道はこの土地の中間を貫いて地域内に2駅をもっているという交通至便の好条件で、土地は急速に処分された。鉄道を開通させたり、駅を作らせたりしたのは、南米土地会社の努力に俟つところが多く、南米土地はその所有地2万5千ヘクタールの中、2千5百ヘクタールは、鉄道会社に無償提供し、その代り鉄道会社からは、株式300株を譲渡された。また別に2千5百ヘクタールは、南米土地の直営農場として残し、15万本の見事な珈琲園を育成し、2万ヘクタールを分譲地として、売り出したのであった。
この南米土地の所有地は、移住組合連合会の初代専務理事梅谷光貞氏が、万難を排して購入した、4万5千ヘクタールという、ブラ拓の広大なトレス・バラス移住地と境を接している。今日両移住地を合せて、実に6万5千ヘクタールの大面積が、一括されて邦人移植民のために開放され、土地肥沃にて交通の要衝に当り、気候はよく、水は清澄で、山容また日本の風色を彷彿させる楽土と化している。
山科氏は、その購入した土地がまだ世に識られない、昭和5年(1930)8月24日逝去した。