サンパウロ市のコンデ・デ・サルゼーダス街は、初期移民の忘れ難い、日本人町である。坂上の三角屋敷「赤煉瓦のサルゼーダス伯爵邸」で有名な街で、コンセリェイロ・フルタ-ド街とグリセリオ街(旧スダン球場)をつなぐ短い通りであるが、中心地に近く至極便利な場所である。
大正2、3年(1913-14)頃から、耕地から出て来た移民がボツボツこの町の坂下に集まり、全盛期の大正12、3年(1923-24)頃には、一つの社会を形成し、豆腐屋まで出来ていた様に記憶する。
当初は総じてポロン(地階)の間借り生活であったが、次第に階の上下にも住む様になった。それだけ経済がよくなった訳である。30年後の現在では、サンパウロ市内在住の邦人も万を越え、市内の到る所で、立派な暮らしをする様に発展し、昔懐かしのコンデ・デ・サルゼーダス街は、むしろ廃墟の感さえあるうらぶれた街になっている。
この日本人町コンデ・デ・サルゼーダス街の全盛期前から山田隆次という医者が住んでいた。広島県三原市の生れで、明治45年(1912)の神奈川丸で、夫人と令弟正忠氏をつれて耕地移民として渡伯し、ひどい苦労の挙句サンパウロ市に出た。渡世のため市内でいろいろの仕事に携わったが、日本人町コンデ・デ・サルゼーダス街に落ちついてから、経験のあった医者をはじめた。イヴァン医師とタイアップをしてやったのだが、当時、コンデの坂下のポロン住いをしていた日本人は、金はないし、ポルトガル語もよくわからないので、山田氏は医者兼通訳として人々の便宜を図ったのである。
患者が、金がありませんがというと「いいわ、いいわ、あとで持って来んさい」と心安く診てくれ、診立てが仲々うまくて評判がよかった。タバチンゲーラの角で日本薬局を始め、一寸金回りがよくなったと思ったら、雇人に使い込まれて、借金を背負いこむなど、山田氏自身は金に恵まれなかった。
永い間、コンデ街の住人は、山田医師の義侠によって救われていたが、1932年(昭7)12月の護憲革命の時、不運にもラルゴ・ダ・セーで流れ弾に当って斃れた。氏の葬儀は、コンデ街の日本人が総出という空前の盛儀で、ドトール・イヴァン氏が、男泣きに泣きつつ棺側に随いているのが、来会者の目をひいたという。
長女のルイザ千鶴子さんは、師範を出て、大正小学校に勤務すること8年、その後、僧籍に入り、現在日本にいるが、1957年(昭32)、10何年振りで母堂訪問のために来伯した。
山田正忠氏は、隆次氏の実弟で、極道者とまでは行かなくても、我儘者で頑固一徹、常に兄隆次の心配の種であったと聞く。リオの西谷商会に働いていたが、あと失踪して何年か行方不明だった。日伯新聞社長の三浦氏が、アマゾン旅行をした時、ヒョッコリ会い「忠さんはマカコ(猿)になっとるぜ」と報告して、やっと連絡がとれた。南下してリオの製材所で働くことになったが、ここで、腕を怪我して、所謂テコナエ(原文ママ)になった。
令兄の悲惨な最後を見て、飜然百八十度の転回をし、隆次氏に代って一生を貧者のために捧げようと決心し、日本人町コンデ街の一角に陣取った。あちこち歩き廻ったので、言葉はうまくなっているし、圭角もとれた山田正忠氏は「山田の忠さん」なる愛称を以て、1955年(昭30)9月5日、宿痾(しゅくあ:持病)の心臓疾患で斃れるまで働き続け、特に、奥地よりサンパウロ市に出て来る貧病者、行路病者、精神病者等々のため、温い手を伸べ、これを施療院、養老院、孤児院、無料産院等々に送った。街の義人「忠さん」によって救われた者は、恐らく数千の多きに達するであろう。
「僕は掃除人ですよ。日本人の移住によって、ブラジルを不潔にしては相済まんからね」といつも語っていた。
いつの世でも同じこと、蔭の人となって、真に歴史を培うものを必要とするが、特に幼稚な社会の移民混乱期に於いては、山田兄弟のような黙々と世の下積みとなる無私の仁者が大切である。今、日本移民五十年の決済期に当って、少くとも史家は、かかる先駆者に、深甚なる感謝と敬意のペンを忘れるべきではないであろう。