長谷川武氏は、皇紀二千六百年(1940)祭に際し、在ブラジル邦人の発展に功績のあった一人として、外務省より表彰された。蓋(けだ)し彼が多年日本移民の入国制限、その他移民問題の対外関係に、良くブラジル側と折衝したその労に酬いるためであった。
圭角(けいかく)のない性格で、つかず離れず、辛抱強く日本移民の盾として其の使命を果した。恐らく彼の如く肌ざわりの柔軟で、世に敵のなかった人間は稀れであろう。終戦後の1950年、いち早く呼寄移民の道を開くことに奔走し、サンパウロ市に長谷川・ルエダ事務所を設けて、多数の祖国同胞をブラジルに受け入れた。彼等夫妻に実子の恵まれなかった関係もあろうが、晩年結婚の媒酌などを楽しみとし、極めて静穏な生活を送っていた。
新潟県北浦原郡新発田町の産、東京外語スペイン語科出身、大正2年(1913)10月若狭丸で単身渡伯した。2,3年耕地通訳をしていたが、大正5年(1916)パラナ州アントニーナ港モーロ・グランデ耕地に転じて百姓となった。アントニーナは、パラナグァ湾に沿い、背ろに海岸山脈を控えた淋しい漁村である。後、渡辺孝と共に近くにカカツ植民地を創始し、数家族をサンパウロ州より呼び入れた。彼等の面倒を見ながら、カボクロ(註:いなか者)のようになって、新潟気質よろしく、辛抱していたが、将来の見込みは立たず、かつ植民の決心にも動揺を来たしたので、流石の長谷川氏も余儀なくこの地を捨てて、兎も角サンパウロ市に出た。大正12年(1923)頃のことで、その後、伯剌西爾(ブラジル)時報社に勤めたり、同仁会に入ったりしたが、1924年(大 13)、祖国に帰り、1926年(大15)意を改めて再び渡伯、海外興業株式会社の人間となった。
1942年(昭17)1月28日、日伯国交断絶となり、翌年4月、海外興業株式会社は政府の管理下におかれて宮越支店長、坂元靖両氏と共に、同社を退いた。
百姓生活9年、月給取生活30年、事務所経営8年という、変った経歴の持ち主である。
長谷川事務所には、第一回移民船笠戸丸から、1941年(昭16)8月のモンテビデオ丸に至る、邦人移民船客簿全306冊が保管されている。移民過去帳ともいうべき渡航者の家族名簿で、貴重な移民文献である。
1957年(昭32)、たまたま奥地旅行中、乗合自動車の追突事故で、不幸急逝した。70を越していたが、白髪一筋もなく、同僚中一番若く見えた。
日本移民五十年度を楽しみにしていたが、その盛典を見ることなく他界したことは、さぞかし彼としては心残りであったろう。