駐伯三代目の公使杉村濬氏によつて、初めてブラジル移民誘入の端緒が作られた。杉村氏は岩手県盛岡の出身、剣道に秀れた腕前を持ち東京に来てからは漢学にも精進した。
外務省に入つたのは明治13年(1880)10月で、朝鮮、釜山浦の領事館勤務が振り出しであつた。彼が再度韓国に赴任し、日本公使館の主席書記官として勤務中の明治28年(1895)10月、有名な王妃殺害事件が起り、その容疑者として、三浦梧楼公使外10名と共に3カ月間、広島の監獄に投じられた。獄中で「在韓苦心録」を著した。
王妃殺害事件の容疑者達は、何れも証拠不十分で、全員免訴から放免となつたが、杉村氏は、一時外交界から離脱させられ、台湾総督府へ出向した。その後再び外務省に返り咲いて、通商局長となつた。その後、弁理公使に任じられ、ブラジル駐在を仰せつけられたのは、明治37年(1904)11月で、リオ・デ・ジヤネイロに着任したのは、翌年の4月19日であつた。
ブラジルは日本移民に不適の地と報告した、大越成徳公使帰朝のあと、来任した杉村公使は、着任早々、フランス語に堪能な堀口九萬一書記官を伴つて、移民導入の見地から、ミナス・ジェライス州、次いでサンパウロ州を視察した。また、次の問題に対するサンパウロ州農務長官の確答を求めている。
1、 移民に対し家族連れの制限を励行するのもいいが、当州にして現行法の家族連れでなければ旅費を償給しないと固守すれば、日本移民は難しいかも知れぬ、臨機な考案はないか。
2、 サンパウロ政府は移民費も幾許まで償給し得る見込みか、政府償給の外に、雇主より償給の道はないか。
3、 右旅費は、後日返済の要なきや。
これに対する農務長官の回答は
1、 日本移民に限り、最初は特別法を設け、独身者でも旅費を償給する。
2、 日本は遠いから、1人7ポンド位は政府として給与する見込。
3、 後日返済しなくてもよろし。
杉村公使は、また小村外務大臣に「サンパウロ州旅行中伯国官民歓迎の模様報告」を送り、サンパウロ、リベロン・プレツト、タウバテー等に於ける官民の歓迎振りを詳報、日露開戦以来、皇軍の連戦連勝が、深く外国人の敬慕を招いたことを強調している。また「ブラジル移民事情附貿易状況」「南米ブラジル国ミナス・ジェライス州視察復命書」「南米ブラジル国サンパウロ州移民状況視察復命書」等の、有益かつ適確なる長文の報告書を本省に送つたので、前駐伯大越公使の「伊国(イタリア)移民三十万伯国(ブラジル)に於ける惨状報告」は、このために忘却の彼方におかれた。
サンパウロ州のごときは、実に天与の楽郷福土にして、ただ移民のためのみならず、鉄道附近の地価極めて廉価なるが故に資本家、企業家にも好適の所であると、ブラジルの利点を詳述した杉村公使の報告書を外務省で印刷に附して、広く配布したので、大いに識者の注意をひいた。新聞もこれを取り上げて掲載したので、ブラジル移民促進の機運が、大いに醸成された。
第一回移民の引率者となつた水野龍氏が、移民契約のため、明治38年(1905)12月、東京を発つてブラジルに赴いたのも、杉村氏の報告書に刺激されたからであつた。だから水野氏は、ブラジルに着くや否や、まず第一着に杉村公使を訪問して、「御説に従って、日本移民の誘入を始めるつもりで、遥々(はるばる)やつて来たのだからサンパウロ州当局へ斡旋を願いたい」と単刀直入に申入れた。
その水野氏の申出に杉村公使は大いに喜び、早速三浦通訳官をつけて、サンパウロへ赴かせた。水野氏は4月15日、三浦通訳官と共にペトロポリスを出発し、サンパウロで、移民及び植民会社々長ベント・ブエノ氏(前サンパウロ州内務長官)を初め、州統領や農務長官と会い州内の主な耕地を視察した。
そして水野氏が一旦、ペトロポリスに引上げようとした直前のこと、杉村公使は郊外散歩中、急性脳出血のために卒倒し、重態に陥つて病床に伏した。水野氏はまるで看病のためにかけつけたような格好で、公使の臨終まで手厚く看護した。
「病床に侍して投薬すること七昼夜、しかも遂にその効なく、19日(明治39年5月)午後4時30分を以て、公使は遂に永眠せられぬ。吁(ああ)、悲哉、痛哉」とは、水野氏が杉村公使を悼む告別の辞であつた。
杉村氏の葬儀は、ブラジル外務省が、公使夫人や館員などと相談して、手厚く取り計らってくれた。日本人の感情からすれば、遺骸は火葬に附し、遺骨を故国に持ち帰りたいところだつたが、火葬のないブラジルのこととてそれは許されず、リオのサンジョアン・バチスタ霊園の、墓区第1332号に葬られた。
日露戦争直後の社会思想を反映する流行歌は「赤い夕陽の満州に」であつた。この唄は、茫漠たる海外の大陸へ、海外万里の沃野への憧憬であつた。出征して、世の果までつづく満州の曠野を見た兵隊たちに、日本の狭さ、せせこましさ、貧しさが、ハツキリ印象づけられた満州でのこの感覚が、ブラジル渡航という現実に化成された多くの移住者が、30年後、40年後の今日、成功者として悠々自適している。
台湾へ、樺太へ、朝鮮へ、満州へ、南洋へ、南米へと、日露戦争で勝利を得たという事実が、若い日本の国の人々に大きな世界を見る目を与えたということ、そして、杉村公使の幾多の報告書がいい時機をとらえてなされたことが、南米ブラジル移住という、世紀的な役割をするに至つたということを忘れてはならない。
杉村公使の報告書に感奮して渡伯した先達移住者の中には、隈部三郎、明穂梅吉、鈴木貞次郎、安田良一、松下正彦の諸氏の名も挙げられている。移民導入の端緒を開いた、杉村氏がブラジルの土となり、その英霊が、永遠にブラジルにとどまつて、同胞発展の経過を見守っているのも、深い縁というべきであろう。
なお、イタリアやフランスの大使をつとめた杉村陽太郎氏(正三位勲一等1939年56才で歿)は杉村公使の子息である。