女王の孤児たち
segunda-feira, 14 de janeiro de 2008

 1549 年、イエズス会のマノエル・ダ・ノブレガ神父がトメ・デ・ソウザの艦隊といっしょにやってきたことは前に述べました。そこで目にしたのは聖職者たちの奔放な生活でした。一般青年たちもポリガミーをやって平気。真摯なカトリックにとっては噴飯もの。戒律が厳しいイエズス会のノブレガ神父は見かねて、本国のドン・ジョアン3世に手紙を書きます。現地における青年たちの放縦な生活は、絶対的に白人女性が不足しているのが原因だと指摘したのです。

女王の孤児たち

 当時ポルトガルには、海外遠征軍に参加した父親が、航海中に難破したり、死亡したりして孤児になった娘たちがいました。この航海時代というのは、壊血病などで目的地に着く以前に半数近く死んでしまうのが常。こんなとき、地方の小貴族の娘たちは修道院や裕福な家庭に引き取られ、ひたすら結婚をまっていたのです。

 そのころの娘たちの最大の目的は結婚。結婚していないこと、夫がいないことで、女が社会から後ろ指をさされました。特に封建性の強いポルトガルでは、結婚することは本人の存在意義を社会的に確立することなのでした。そして、教会による結婚こそが正式なものなのでした。ブラジルでも、かなり最近まで、教会の結婚にウエイトが置かれていて登記所などは二の次だったものです。

 ノブレガの手紙を読んで、国王自身もポルトガルの白人の血をもっと守りたいと考えました。まあ、王様としてはポルトガルという国の血にこだわるのも当然でしょう。インジオの娘たちは「現地の黒い娘」と呼ばれていたので、個人的にブラジルの血をもっと白くしたいと思ったようです。というのは、この「孤児」と呼ばれる娘たちに関する公文書というのは存在しないのです。

 1551年、第1回の娘たちが送られてきました。ポルトガル軍のインド遠征の折に戦死したバルタザル・ロボ大将の娘たち。メシア・ロボ・デ・メンドンサ、ジョアナ・バルボザ・ロボ、マルタ・デ・ソウザ・ロボの姉妹3人で、いずれも東北伯の有力者と結婚させられ、可もなく不可もないといった人生を送ります。

 国王の死後、カタリナが女王になって国政をつかさどり、1553〜58年の5年間にさらに18名の娘たちが「有能な男」たちと結婚するために送られてきました。これが「女王の孤児」と呼ばれるゆえんですが、今風にいえば花嫁移民なのです。

 1955年にはじまったコチア青年移民にも、花嫁移民の名目で独身女性がブラジルの日系社会に送り込まれました。写真1枚でお嫁にやってくるのですから、それにまつわる喜劇も悲劇もありました。が、やはりお嫁さんがしっかりしているところは、きちんと土台を築き、その後にやってくる出稼ぎの波にも呑み込まれなくてすんだようです。

 結婚相手はブラジル総督府で働く青年官吏。海外の青年に嫁ぐことはまた、当時の娘たちにとっても大変栄誉なことでした。青年たちにしても、王室のすすめる白人の娘を本国からもらうことは、植民地における本人の地位を確なものにする手形になります。純血を尊び守るという大義名分で、年間3,4人が送られてきています。ただ、絶対数が足りません。これでは王室がいくらブラジルにおけるポルトガル人の血を白くしようとしても、とうてい無理。焼け石に水。ノブレガ神父の意図に反してマメルッコが量産されていきます。

 この花嫁移民、公式文書はなく、わずかに「純粋なポルトガル娘を送ってくれと」いう1561年のピラチニンガ市議会から国王に送られた書状があるのみ。 1603年には3名の孤児の送り出し許可証。1611年にはパライバの実力者から出された請願書がのこっていますが、実際に送られたかどうかも霧の中。女性は夫に同行するのが常識だった当時、独りで港におり立つ女性も「女王の孤児」と呼ばれたりしたようです。一時植民者の娘が修道院に入ることも禁じられたこともありました。神の花嫁になる前に生身の青年の花嫁たれ、ということでしょうか。

 日系社会にも同胞の女性が払底し、娘3コントと呼ばれた時代がありました。

1)ブリッテス・メンデス・デ・バスコンセロ
 「女王の孤児」のひとりですが、この女性、母親がカタリナ女王の召使。父親が、ルイス王子の侍従長。ドアルテ・コエリョ長官の一行といっしょにペルナンブコにやって来た青年貴族アマラルと結婚し、セズマリアとなっています。当時、母親から離れて女性が単独で海外に出るなど、考えられない時代でしたから、いろいろ憶測されています。もしかして独身を掲げるルイス王子の隠し子。当主の庶子を家臣が自分の子として届け出るのは、それほど奇異でもなく、頻繁に使われたテでしたから、あるいは、という推測も成り立ちます。セズマリアには誰でもなれたわけではありませんし。夫はこの地で砂糖園を経営しました。

 アマラルとの間に8人の子どもがいます。ペルナンブコの首都オリンダでそれぞれ有力者と結婚。市の名門一家を形成しています。1620年に死亡。生年が 1530年ですから驚異的に90歳まで生きながら得たことになります。孫曾孫に囲まれた平和な老後だったようです。

 「女王の孤児」と呼ばれる花嫁移民には王室の声がかかっていることもあって、セズマリアなどいろいろ恩典があり、下層社会に暮らすものは皆無で、全員一応恵まれた生活を送りました。このあたりが、日系社会の裸一貫の青年移民に嫁いできた花嫁移民と違います。

 写真:コロニアル風の家。

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros