大正小学校と宮崎信造
サンパウロ市の大正小学校は、邦人最古の小学校である。設立は大正4年(1915)の10月7日、すなわち、今を去る43年の昔で、場所はコンデ・デ・サルゼーダス街38であった。当時在伯同胞は全部で1万数千に過ぎず、その大部分は奥地にあり、サンパウロ市には何程もなかったが、それでもコンデ街を中心に日本人街が形成されており、大正小学校は、この界隈の邦人子弟を収容するのを目的としてうまれたのである。
最初の生徒は、タッタ3人で、月謝4ミル。(当時の物価は牛肉がキロ3百レース。白米1リットル4百レース)教鞭をとったのが、ここに記する宮崎信造氏であった。
大正5年(1916)、同街51番地に移り、同年6月、48番地の二階建の階下に移った。大正8年(1919)1月、私立学校として認可を得、同年12月、アントニア・サントス先生という、有資格の女教員を招致して葡語教育も始めた。同女教師は昭和11年(1936)まで、17年間も勤続された。
経費の膨張を伴い、同年11月、大正小学校後援会を創立するに至った。その発起人は当時のサンパウロ市に於ける顔役、鮫島直哉、木村清八、長谷川庄太郎、山田隆次、加来順太の諸氏であった。
宮崎氏は、本当に子供が好きであった。永年貧しきに堪え教育に専心できたのも、子供を愛すればこそであった。然るにいたましきかな在職9年、宮崎校長は宿痾に苦しみ、大正13年(1924)6月病没した。在伯コロニアの最初の先生たる宮崎氏は他界したが、その後の大正小学校は、順調に生長発展し、昭和4年(1929)、現在のサン・ジョアキン街に敷地を購入、新校舎を建てここに移転して今日に至っている。
以下、思い出を記して往年の宮崎氏を偲びたい。
当時彼は30を過ぎていたが、娶ろうともせず、縫針が上手で、その上料理は和洋一人前と言う変り種であった。彼は福岡の産、日本で地歴と数学の検定を経て中学の教員をしていたが、それが馬鹿らしくなり、南米に志して外国語学校に入り、スペイン語を専修した。あたかもよし、宮崎氏の父と知人であった、内田定槌氏がブラジルに公使として赴任することとなったので、東京で割烹の速成講習を受け、公使の料理人として同航した。笠戸丸以前の明治40年(1907)3月の事であった。
笠戸丸で渡伯した移民達は、6耕地に配耕されたが、配耕早々から移民側に不満のあったのはヅモント耕地で(監督加藤順之助氏)、上塚周平氏に随って1908年11月宮崎氏も通訳として同行慰撫につとめた。サンパウロ市に移転して、移民会社の手伝いや耕地通訳など暫くやったが、元来人に使われる事の大嫌いな彼のこととて、その頃日本品の輸入をしていた藤崎商会から陶器類を卸して来ては、ブラジルの家庭や、サントスの海水浴場あたりを担ぎ廻って居た。
少々儲かると金がなくなるまで容易に働こうとしない。本を読んだり、好きな尺八を吹いたり、ビショ(動物賭博?)を賭けたり、御馳走を作って食ったり、それもこれも飽きると、定って昼寝をむさぼるという天下この上なしの太平楽であった。体躯は大きくなかったが、ガッチリして血色がよく、剣道は確か三段と言っていた。
当時彼の住んで居たのは、ルア・ダス・フローレスい云って、今は取りこわされて跡かたもないが、カルモ街の広場の所にあった。むさ苦しい狭隘な町であったが、中心地だから頗る便宜であった。そこで地階の一室を借り自炊生活をしていた。
家賃は月15ミル、生活費と云っても主として食費だが、これが40ミルもあれば、どうやら暮して行けた。まことに隔世の感なきを得ない。加藤順之助、鈴木貞次郎、矢崎節夫等の諸氏が時々やってきた。いづれも独り者の気安さで、別に用事があってではなく、この辺まで来たからブラブラ立ち寄ったと云う次第であった。
宮崎氏は非常な潔癖家で、同時に他に迷惑のかゝるのを常に恐れた。当時、宮崎氏は人間として最も正しく生活した一人であった。それ故、知人がいささかでも悪いことをすると、他言をしたり、攻撃はしなかったが、大変憂鬱になった。ルア・ダス・フローレスにこうして宮崎氏は屈託なき生活を2,3年送っていたが、元よりこれは彼の本心ではなかったのである。すなわち大正4年(1915)に入って、この中等教員は決然コンデ・デ・サルゼーダス街に足を踏み入れ、移民の子弟教育に、彼の内臓する愛情のすべてを打ち込んだのであった。
宮崎氏の地上生活は、必ずしも永くはなかったが、大正小学校の存続する限り、また彼の在職9年間に教えを受けた数多き人々が生存する限り、その名は永く忘れられないであろうし、さらに、コロニア児童教育史を語るかぎり、何といっても彼を逸する訳には行かないだろう。