大武和三郎
大武和三郎(おおたけ・わさぶろう)
quinta-feira, 21 de fevereiro de 2008

 およそブラジルに来た邦人で、大武さんの辞引の世話にならなかった人はないだろう。そして、日本にいても、ブラジルに志を抱き、ブラジル語習得を心掛けたもので、大武和三郎氏の名を知らぬものはあるまい。大武の辞典か、辞典の大武かといわれる位、葡和辞典、和葡辞典の編者として、大武氏の名はポルトガル語に縁のある多くの人々に親しまれている。

 辞典の編纂という仕事は、全く縁の下の力持ちで、コツコツと一語一語を積みかさねていく、その努力は大変なものだが、このジミな仕事に後半の生涯を打ち込んだ、大武氏の若かりし頃は、逆に小説的で、数奇を極めていたから人間の一生というものは興味が深い。

 大武氏は明治5年(1872)1月4日、医師大武知康氏の三男として、東京神田の駿河台で生れた。忍岡小学校を卒業後、一時浜松に移って浜松一中に学んだが、途中から横浜一中に転校した。

 明治22年(1889)7月20日、ブラジル帝国の軍艦アルミランテ・バローゾ号が横浜に入港した。大武氏が英語を良く話したので、ドン・ペドロ二世の皇孫アウグスト・レオポルド親王の気に入り、渡伯を勧められた。大武氏も大いに乗気になって、父君知康氏にはかったところ、そりゃ面白い、是非ご同伴願いなさいと渡伯を許してくれた。氏の父君は三河の出身で、徳川譜代の神官の家に生れ、血の気の多い青年で、青年時代の直参の身でありながら、水戸浪士等と暗躍して、「悪事度重なる」という理由で、老中から御手判(てはん)を召し上げられ、変名で世をしのんだこともある快男子、明治政府が出来てからも、政府は薩長の私物だとして、大いに白眼視していた。こうした人柄であったので、すこぶる進歩的なところがあり、大武氏の渡伯を簡単に許したものらしい。

 当時ブラジル行きを勧められたのは、大武氏一人ではなく、他にも2、3同行者がある筈であったが、他の連中はいずれも父兄の反対にあって、乗艦出来なかった。その父兄達は、大武氏の乗艦も阻止しようとしたが、大武氏は敢然として、その目的に突進した。

 ブラジル軍艦は、8月4日、クストゥディオ・ジョゼ・デ・メーロ提督指揮の下に、横浜を出港した。大武氏はこの日を期として、その一生を、ブラジル国旗の下で、生きるように運命づけられたのであった。

 アルミランテ・バローゾ号が、印度洋を航海中に、本国に革命が起こって、共和政府が誕生したので、アウグスト殿下は、セイロン島コロンボで退艦してしまった。大武氏はメーロ提督及び将校一同の好意で航海を続け明治23年(1890)7月29日、リオ・デ・ジャネイロに到着した。メーロ提督の推薦で、アカデミア・ダ・マリニャの機関科に入学した。

 明治26年(1893)から同27(1894)年にかけて、メーロ提督が海軍を率いて叛乱を起し、もちろん、大武氏は叛乱軍にはいって戦ったが、革命は失敗し、提督の失脚によって、大武氏は在学4年、機関科1年に進んだところで、路頭に投げ出されてしまった。よって民間に職を求めて生活をたてつつ、在伯満4年に及んだ時に、日清戦争開戦との風聞を耳にした。故郷忘じ難く、帆船に乗ってブラジルを密出国し、マゼラン海峡の難を突破して、南太平洋からマニラを廻ってやっと帰国したら、すでに、日清戦争は終わったあとで、徴兵忌避の疑いで一応取調べを受けた。

 大武氏の考えでは、一時帰国のつもりで、日本に行ったのであるが父君の死に遭遇したり、マニラに出掛けたりしているうちに、日本にもブラジル公使館が開かれることになり、言葉の出来る人物が必要となり、大隈候の推薦でブラジル公使館に勤務することになった。時に明治30年(1897)爾来(じらい)、第二次世界大戦が勃発して、ブラジル大使館が閉鎖されるまで、その職に在って、日伯関係の縁の下の力持ちとして終始した。日伯国交開始以来の、両国に関係する重要公文書は、ほとんど氏の手を通ったもので、使節団等の世話もよくやき、希望者にはポルトガル語の教授もした。移民関係には、立場上、表面にこそ出なかったが、常に青柳郁太郎氏等と連絡をとり、調査研究と側面援助を惜しまなかった。

 明治41年(1908)の第1回移民船、笠戸丸の渡航に際しては、水野龍氏とは昔から親しい間柄だったので、公文書関係のしごとを一切引受けて便宜を与えた。

 ブラジル移住者が増えるに従い、ポルトガル語習得のために、辞典の必要を感じる人が多くなって来た。この要求に応じて、奮起したのが大武氏であった。大武氏にはブラジル公使館勤務という大事な公務があったが、その余暇に、辞典を編纂したのだから、私生活というものは全く犠牲にするほかはなかった。そして大正7年(1918)に葡和辞典を、同14年(1925)に和葡辞典を公刊し、更に昭和12年(1937)には葡和新辞典を完成した。しかしその時は既に高血圧で一度は倒れ、血圧は2百数十を算し、心身共に衰えて遂に和葡新辞典の方は、その改訂に手をつけることが出来なかった。

 昭和3年(1928)のことであったが、大武氏の辞典編纂その他の功労に対し、青柳郁太郎、白鳥尭助両氏を初め、多数在伯邦人の発起によって、感謝の記念品が贈られた。大武氏はその好意を大いに喜び、さらに、新しい意欲を振りおこして、新辞典編纂にその精力を傾けたものである。

 大武氏がブラジルを密出国して日本に帰った時は、再びブラジルへゆくつもりだったから、無論荷物もそのままにしてあった。しかしブラジル公使館に勤めるようになって、仕事も忙しく、また辞典の編纂に没頭したので、遂にブラジル再遊の機会がなく、ずっと後年になってから、海軍時代の知人が、その荷物を大使館気付で送り返してくれたとのことである。

 大武氏は、父君の血をひいて、一種叛骨を具(そな)え、気性のはげしい鼻柱の強い男であった。江戸っ子的な職人気質で、一刻(いっこく)な所があったればこそ、辞典編纂という骨を刻むような仕事に、精進が出来たのであろう。しかし一面には人なつっこい性分も大分にあり、青柳郁太郎氏とは特に親交を重ねていた。大武氏が度々の脳出血に、健康が衰え、一方戦争はどんどん進行して、ブラジルの様子が全くわからなくなり失意の極(きわみ)にあった時、青柳氏の訃報に接した。数少なくなった旧知のうち、最も親しかった青柳氏の逝去は、大武氏にとっては何物にも代え難い程の寂寥感を与えたらしく、間もなくその後を追うかの如く、青柳氏におくれること一週間目の、1944年2月23日、狭心症でこの世を去った。その死亡広告が、偶然にも、青柳氏と並んで新聞に掲載されたのは、よくよくつきせぬ縁と思われた。

 大武氏には二男三女あり、長男信一氏は、三菱化成の研究所に勤め、二男修二氏は農林省の水産技官である。未亡人清子さんは昭和28年(1953)に逝去した。

 嗣子(あとつぎ)信一氏は厳父について、次のように語った。

 「家庭に於ける父は、癇癪(かんしゃく)持ちという以外は、全く良い父でした。ほとんど書斎に入りびたりで、唯一の趣味とした魚釣も、辞典のためにやめてしまい、避暑も、避寒も、遊山もせずに暮しました。やっと辞典が一段落をつげた時には、戦争が苛烈(かれつ)になり、かつ健康を害しておりました。晩年機嫌のよい時には、帆船で南太平洋を渡った時の話や、南米の音楽の話などを、身振り手振り面白く聞かしてくれました。鼻っ柱が強く、口が悪かったので、誤解を受けたことも度々あったようですが、嬉しい時は踊り歩き、悲しい時はしょんぼりとうなだれ、知人の死に合うと、ポロポロ涙を流すというたちの人で、落語や講談に出てくる、人のいい、短気なオヤジさんにそっくりでした。

 自分がつとめているところの、大使や公使と喧嘩をしたり、総領事の書いた文書に、朱筆を入れて直したりしましたが、父のまっとうな性格がわかると、かえって信頼されたようでした。

 父は亡くなりましたが、その生命をかけてつくった辞典が、今なお、日伯親善の上に、現実にお役に立っていることは、父も定めし満足でございましょう。父が辞典を編纂するに当たり、長年、資料収集に関して、御協力下さいました野田良治翁が、今父がやろうとしてやり得なかった、新和葡辞典の編纂に、畢生(ひっせい)の努力を尽くしておられるのをみて、定めし父の霊も喜び、そして大きな期待をかけていることと思います。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros