ブラ拓の事業改革
昭和6年(1931)2月25日、海外移住組合連合会第八回総会で田付七太理事長、梅谷(光貞)専務理事が辞任し、その後任として会頭兼理事長に平生釟三郎、専務理事に宮坂国人の両氏が選ばれた。
平生氏は異色ある実業家で兵庫県甲南高等学校(現在の甲南大学)を設立して、子弟の教育にも力を尽し、また広く秀才に奨学金を貸与して、その援助によって世に出た俊才が少くない。また、甲南病院を設立して、医術と療養のために貢献して、今日に及んでいる。
宮坂専務は、就任早々加藤好之氏を主事として採用し、現地調査のため、相携えて渡伯した。一方拓務省でも、時の南米課長武田寛一氏と課員田口管次郎氏を派遣し、「ブラ拓」の組織等を全般に亘って巨細に検討させた。その結果、組織そのものは急速に改変の必要を認めないが、その活用については、範囲拡大が肝腎だということになって、昭和6年(1931)11月、改善策の起草に着手した。その要点とするところは、準拠法規並に定款の解釈を幾分自由に応用して、実際の要求に合致させること、特に日本内地産業組合法の規定準用については、国外事業であるから、法の精神を移住の精神と移住現地の実情に適合させて、運用し、区々たる条規に拘泥し、事業の遂行を阻害させないこと、「ブラ拓」は移住地の経営および必要な事業を実施する機関として、事業の直接中心点および重力を「ブラ拓」におくことという改善策を携えて宮坂専務は昭和6年(1931)末に帰国し、おおむね関係者の支持賛同を得て、成案の確立をみた。そして翌昭和7年(1932)度から、これを実行に移したが、以来「ブラ拓」の事業は面目を一新し、平生・宮坂両氏が重任した任期の6ヵ年は、大体右の建直し案の実施完遂に終始したといっても過言ではない。そしてその間、法律上「ブラ拓」の業務担当組合員の一人であった、加藤好之氏の移住地に対する指導と運営の妙は、十分記録に値するものであった。
建直し案の内容については、ここに詳述をさけるが建直し案実施に基いて、内地に於ける組合員募集、渡航も容易となり、ブラジルに於いても、在留邦人の入植を旺盛ならしめて、バストス、アリアンサ両移住地の如きは、ほとんど満植に近く、チエテ、トレス・バラス両移住地のみが、未開発の地を擁して、他日を期するという有様であった。
また平生理事長時代にはいって、解決をみたものに、アリアンサの統一がある。即ち信濃、鳥取、富山、熊本の各県海外協会は、海外移住組合法の制定以前に、既に創設されてはいたが、同法制定の動機からいっても、当然これ等はその適用を受けるべきものであった。
しかるに杓子定規にも、法の不遡及原則によって、理事会で合理的に処置することを決議し、昭和3年(1928)5月末、当時ブラジルに滞在中の、前任梅谷理事に通牒を発したが、現地の事情はすこぶる複雑多岐で、肩代り手続も紆余曲折を極め、容易に解決をみるに至らなかった。これが平生理事長時代に、大略統一移管を見ることが出来たのであった。
訪伯経済使節団長として日伯貿易増進に貢献
昭和10年(1935)6月、平生氏は訪伯経済使節団長として渡伯し、日伯通商関係の緊密化に、多大の貢献をした。その使節団は次の諸員によって組織されていた。
団長、平生釟三郎(川崎造船)夫人同伴、使節、関桂三(東洋紡)、同、伊藤竹之助(伊藤忠)、同、渥美育郎(大阪商船)、同、岩井尊人(三井物産)、同、奥野勁(三菱商事)、事務長、山崎壮重(元領事)、団医、山口寿(医博)、随員、中井俊雄(東洋紡)、島清二郎(東洋綿花)、同、吉田卯三郎(伊藤忠)、同、東義雄(日本綿花)、同、杉本恭一(江商)、同、小林米三(阪急)、、団長秘書、同、佐藤健夫(大阪商船)、同、兼務、神野亮二(大阪商船)、同、芝山一郎(三井物産機械部)。
平生氏が経済使節団長として渡伯したことは、日伯貿易増進の機運を作り、棉の買付を増加する等、その重要使命の達成に貢献したばかりでなく、一方また氏が主宰する拓植事業についても、考慮を重ねる機運となった。すなわち、移住組合連合会の仕事も、単に移住地の開拓ばかりやっていては、大して発展の見込みもない。むしろ、真の拓植事業は、開拓の裏打ちとして、経済的発展を考慮しなくてはなるまいということにあった。
平生氏はこの趣旨に基く腹案をたて、帰国後宮坂専務をして、各方面に接触させ、連合会を改組して「日南産業株式会社」の創立を図らせた。
平生氏のこの創意は、各関係方面に容れられて、海外移住組合連合会を、会社組織とするための法律案が、第70回帝國議会に提出されて可決された。
日南産業株式会社取締役社長
連合会は改組決定と共に、昭和12年(1937)4月20日、第15回臨時総会を開いて、一切の手続きを完了し、同年7月10日、新会社の創立総会を開催して、定款の承認や役員の選任を見、資本金1千万円の日南産業株式会社が発足した。かくて、海外移住組合連合会は、ブラジルに於ける従来の事業を一括して、この新会社にうつしたのであった。当時この新会社の役員として選任されたのは、次の人々であった。
取締役社長、平生釟三郎、常務取締役、宮坂国人、取締役支配人、武田寛一、取締役、伊藤竹之助、同、鋳谷正輔、同、今井五介、同、村田省蔵、同、関桂三、監査役、千葉三郎、同、中村直吉、同、夏秋十郎。
かくて従来連合会の在伯代行機関であった「ブラ拓」はここに面目を一新して、連合会の重要事業であった拓植事業を、遂行すると共に更に日南産業株式会社の代行機関として、商事部、銀行部、鉱業部、棉花部、技術部等の新部門と新設して、一層広く事業を経営することとなたのであった。しかし事業の地域がブラジルである以上、同国の法律による合法的存立を必要とし、前述の各部門は、すべて伯国の法律に基づき法人組織にして、運営されたのであった。
梅谷専務理事によって、広汎に亘る地域が購入され、平生理事長によって産業化され、組合から会社に移行され、経済的裏打ちをされたところに、この事業の意義がある。
古武士の風格の国際主義者
平生釟三郎しは、慶応2年(1866)5月、岐阜県に生れた。明治23年(1890)東京高等商業学校を卒業後同校助教授となり、ついで韓国政府仁川税関長、神戸商業学校々長等を経て実業界に入り、東京海上火災専務、川崎造船、日本製鉄、日鉄鉱業、日南産業、茂山鉄鉱開発の各社長、日伯綿花取締役、東洋毛糸紡績、富国人絹パルプ、呉羽紡績各監査役等を歴任した。その間大日本産業報国会、鉄鋼統制会の各会長、甲南高校校長等もつとめ、また昭和10年(1935)貴族院議員、同11年(1936)広田内閣の文部大臣、同18年(1943)枢密院顧問官となった。逝去したのは終戦後の、昭和21年(1946)10月27日であった。
平生氏は、性剛直、清廉、古武士の風格あり、尊王愛国の念の厚い人であると共に、世界の共存共栄を旨とする国際主義者であった。同氏は移民というものが、日本のためにも、又世界の共存のためにも大切な仕事であるとの信念を持ち、夙にブラジルに着目し、多忙な事業の暇を割いて、大正13年(1924)に渡伯し、各地を視察した。特に、サンパウロの田舎を旅行し、ブラジルは今後、日本移民の受入国として、世界で最適の所なりとの結論を得た。
ブラジル紹介の一つとして、私財を擲って南聖ジュキア付近に、3千余町歩(Ha)の土地を購入して帰朝した。移民教養所の必要を強く政府に進言し、神戸の移民教養所の設立は、同氏の尽力に負う所が多大である。
氏の如きは、終戦後雨後の筍のように現われた、移民界のオポルチュニストと異り、早くから移民の重大意義を認識した人である。
ブラジルを愛し、日伯両国のよき仲介者として、尽瘁したその功労に対して、伯国政府が南十字星勲章を贈ったのは、宜なるかなというべきである。