シッカ・ダ・シルバ
quinta-feira, 17 de janeiro de 2008

 黒人ドレイの子でありながら、ハイソサイティーに駆け上がり、女王のような生活を送った女性の話しをしましょう。

1)シッカ・ダ・シルバ

 映画『Xica da Silva』(1976年・主演ゼゼ・ダ・モッタ)やテレビドラマ『Chica da Silva』(97年・主演タイスア・ラウジョ)にもなっているので、フランシスカ・ダ・シルバ・デ・オリベイラは知名度が高く、主演するタイス・アラウジョのアウトドアが街中を飾ったのもまだ記憶に新しい・・・。
が、彼女に対する評価は今ひとつです。

 アフリカの大西洋岸コスタ・ミナで生を受けドレイとして直接輸入されたとも、ジアマンチナ地方で生まれたともいわれます。ジアマンチーナ地方で生まれたならムラタの可能性が大。コスタ・ミナはかつてポルトガルの植民地で、当時、同地方から鉱山ドレイが直接輸入されたものでした。シッカはドレイとしてマノエルという軍曹に買われ、二人の子どもをもうけました。シッカ19歳、父親60代。子どもは認知されませんでしたが、当時の最高の教育を受けさせてもらっています。

 1753 年、ダイヤモンド鉱山の会計士としてやってきた控訴院判事だったジョン・フェルナンデスと歴史的な出会いをします。1729年にミナスに金鉱が発見されてから、在郷のプリンシッペとチジュッカ地方は台風の目になりました。山から掘り出される金に課する税金の算定が非常に困難で、王室は契約制に切りかえ、それを取りしきるのがフェルナンデスでポルトガルの高等法院判事。飛ぶ鳥も落とす勢いでした。ブラジル第一の富豪。そのころ、シッカはロリンという神父のドレイで、腰布一つにはだし、汗を流して働いていましたが、フェルナンデスが買い取ります。

 誰にも見えなかったものがフェルナンデスには見えたのでしょうか。玉の輿にのるのは美女というのが相場ですが、シッカは必ずしもそうではない。ただ、ベッド感がよかったのではないかという歴史家がいます。日本語には「名器」という語彙がありますが・・、もっとも、これは天界のフェルナンデスさんに聞くしか方法がありませんけどね。

 シッカはフェルナンデスの寵愛を受け、しだいに権力を振るうようになります。夫は妻のどんな望みでもかなえてやりました。「女親分のシッカ」とか「命令するシッカ」とかの異名を取るほど威高かな態度。怖いもの知らずでした。55 年から70年までの15年間に13人の子どもをもうけていますから、13ヶ月ごとに子どもを産んでいたことになります。まるで、13ヶ月目のボーナスだわと、笑ってしまいました。乳母を雇ったでしょうから、実質的な育児からは開放され、まあ、夜の伽がシッカの仕事だったと考えられます。

 フェルナンデスの寵愛ぶりがすごい。海を見たことがないというシッカのために小川や滝をせき止めて人口湖を造成、白い帆船をうかばせました。ミナスには海がありませんからね。有名な「シッカの城」の広大な庭にはヨーロッパから取り寄せたエキゾチックな観葉植物、猟をするための森や珍しい種類を集めた果樹園。リオから役者をよんで上演するための劇場。ここでリスボン風の舞踏会や宴会を開き、チジュッコから取れる「金」が湯水のように使われました。これがいわば郊外の別荘。本宅は高級地に中庭をはさんで2棟。広くて風通しがよく、礼拝堂もつくりました。家の側面にはベランダを覆い隠すために飾り格子。風通しは最高でありながら人目をシャット・アウトする飾り格子が大好きでした。

 こんなエピソードもあります。フェルナンデスの寵愛があっても身分はドレイ。教会にも差別があって、塔のあるところまでしか入れません。その奥は立ち入り禁止。そこで、わざわざ塔を敷地の奥に建設し、シッカが自由に出入りできるようにしたといわれます。黒人は縮れ毛ですから、シッカはこれがいやで、金髪の巻き毛のかつらを愛用しました。ムカマを何人も引き連れ、裳すそをささげて歩かせて得意満面。また、公的な色彩が強い礼拝堂を個人で所有。このあたりが周囲の反発を買います。

 「かわいげがない、キレイでもない、徳もない、教育もない、何一つ人を惹きつける魅力がない」

 ええっ! 実はこれが「ジアマンチーナ地方の回顧録」に載っているシッカ評なのです。編者はシッカの孫娘と結婚しているのですが、この人、夫フェルナンデスの死後、財産分与にかかわった弁護士でもあるのです。

 「セの高いムラタ、大柄、粗野、禿げ」

 これはまた手厳しい。というより悪意そのもの。常識的に考えて、そんな醜いドレイが、若くて金持ち、しかも美男のフェルナンデスを夢中にさせることができただろうかとなります。

 フェルナンデスが、地方きっての権力者だった当時、幾人でもドレイを手にし、自由にできたはず。悪意がありすぎます。そこで考えられるのは、財産分与に関して、弁護士側が劣勢におかれたこと。それで腹を立てた、という推理が成り立ちます。記録として残されているところが怖いんですが・・。シッカ側の記録はなし。

 実は1868年まで、シッカは無名の女でした。死後76年を経『ジアマンチーナ行政地区の回顧』という本によって、不死鳥のようによみがえり、その存在を知らしめます。そして鼻持ちならない娘という評価を得たわけで、真実は藪の中。

 上昇志向の強いひとりの娘が、いろいろな手段を講じて当時のミナスの白人社会に入り込んだ。これが可能になったのは、判事のフェルナンデスに出会えたから。黒人でドレイというハンディを乗り越えて、体をはってチャンスの前髪をつかみ強く手繰り寄せた女性、として私はシッカを評価します。夫の地位や財力ももちろんプラスに働いてはいるのですが、それをチャンスとして駆使した前向きな女性。当時の女性観を基軸にして書かれた物は、なべてシッカに批判的なのですが、そんな女性観などくそ食らえ。間もなくフェルナンデスは契約違反のかどでポルトガル政府に呼びもどされますから、あとは独力で切り開いた舞台。そこで思いっきり自分を演じた人ではないでしょうか。1796年に死亡。ストレス過多だったのはエキセントリックな行動からも憶測できますが、がんばって60代まで生きています。晩年は教会の慈善事業に多額の寄付。天国行きの切符を手に入れたかったのでしょうか。大金持ちの白人だけが埋葬されるサンフランシスコ・デ・アシス教会に眠っているのですから本望。やはりこだわりがあるんですね。そういえば娘たちも全員白人の良家の子女の寄宿舎に入れています。偏見に屈しなかった女性として、多少の毀誉褒貶には眼をつぶりましょう。

この連載についての問い合わせは、michiyonaka@yahoo.co.jpまで。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros